第33話 ケチ

 その日のオリエンテーションは、専攻や一般教養の授業について延々と説明を受けた一日目より、いくらか創意が感じられる時間だった。

 内容は履修登録と簡単なテスト、簡単な健康診断など。サークル活動や大学生活の事を色々と教わる時間もあった。

 小熊も大学におけるサークル活動を統括しているという二十代後半の職員から、どんなサークルに入りたいかなど聞かれた。

 生徒の趣味や高校時代の活動を聞き、お似合いのサークルをピックアップしてあげるという、余計なお世話すぎる職員との話を出来るだけ早く切り上げるべく、小熊は昨日、節約研究会なる集団と出会った事を話した。


 小熊としては全くそんな積もりなど無いが、既にそのサークルのお手付き済みである事を伝えれば、面倒臭いサークル勧誘を穏便に断れるかと思ったが、セッケンの、特にその部長を称する竹千代の名を聞いた職員は微妙な表情を浮かべる。

「あぁ……あのケチな人ね」

 職員は小熊が夕べ竹千代と行動を共にしていて抱いた、彼女の人となりを最も直截に表現する言葉を口にした。小熊が竹千代を避けたいと思った最大の理由。


 小熊は自分が慎ましい奨学金暮らしをしていたからか、吝嗇な人間が嫌いだった。目先の金をケチる人間は、いつか人生の大局における損失を負う。小熊自身、あの時少々の金をケチっていたら危険な状況に巻き込まれていたと思わせられるような経験を何度か味わっていた。

 カブは特にそういうケチな考えに厳しい。劣化しているがまだ使えるように見えるタイヤやチューブを、その寿命が致命的な破損で尽きるまで目一杯使い切ろうとして早期交換を怠ると、最後の瞬間はしばしば来て欲しくない時にやってくる。

 チューブのパンクやタイヤのバーストが、いざとなれば押して帰れるような通学路で発生するとは限らない。バイパスで最高速を出している時や、修理出来る場所すら無くロードサービスも来てくれない辺境の地でそれが起きれば、タイヤだけでなくカブそのもの、あるいは自分自身の終わりがやってくる。たった数百円のチューブや千円少々のタイヤをケチったばかりに


 小熊は大学職員に聞いてみた。

「係わらないほうがいい人なんでしょうか?」

 大学職員は首を振りながら言う。

「そんな事ないわ。竹千代さんは経営学部じゃ他大学の教授にまでその名が知れ渡っているほど優秀な生徒よ。それにあの見た目でしょ? 入学以来うちの大手サークルだけでなくモデルやタレントの事務所が何度もスカウトしに来たわ。美貌に釣られて来た人たちは、彼女の受け答えや語り口に惹かれて何度も来た。全て断ったみたいだけどね。私には成すべき大事があると言って」


 大学の覚えめでたき生徒という事なのか。それにしては目の前の大学職員の表情には、彼女への憧憬や羨望より、何か困った物を扱うような感情が窺える。

 学業の実績と美貌。それらの美点を全て打ち消すのが、ケチという欠点なんだろうかと思った。それならやはり、ケチは害悪だ。

 小熊の思惑通り、サークルの話を終わらせてくれた大学職員は、次の新入生との話に移る前、念を押すように言った。

「竹千代さんはケチなのよ」 

 面談形式のサークル説明は終わり、小熊はオリエンテーションから解放された。


 講堂を出た小熊はカシオF-91Wのデジタル腕時計を見た。時刻はちょうど正午を少し過ぎたあたり。朝食をしっかり食べてきた人間が空腹を覚える時間。

 諸外国の朝食画像を集め、しばしば粗食や日本人の基準では美味そうに見えないメニューを笑いものにするサイトを見た時の事を思い出した。小熊は日本人である事しか誇る物の無い人間が外国の習慣を貶す姿に哀れみを感じたが、そのサイトの結末は一つの調査結果で締めくくられていた。

 現代日本で朝食に何を食べるかというアンケートにおいて、それが正当な方法で調査された物なのか不明ながら、ご飯と焼き魚やトーストと卵、カレーやラーメン等のメニューより多くの日本人が選んだ最大値の回答は「食べない」


 近年ではダイエットや午前中の仕事効率のため、朝食を食べない事もまた良好な結果をもたらすという説があるが、小熊は出来るだけ朝食を欠かさないようにしていた。学業や仕事、あるいはより良い状態でカブを走らせるという目的ではなく、この昼時の空腹のため。

 今までの経験上、朝食を抜くとなぜか昼になっても腹が減らず、空腹中枢の刺激無きまま栄養不足に陥った結果、夕食時になると健康的とは言い兼ねる上に美味を堪能出来ぬドカ食いをしてしまう。

 大学生活を実りある物にするために、まず必要な健康な心身を維持すべく、三度の食事をケチらない事に決めている小熊は、昼食を摂れる場所を探し始めた。

 

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