第26話 夜のキャンパス
小熊は言った後で自分がまんまと釣り針に引っかかってしまったのではないかと思わされた。
少なくとも竹千代は竿を立ててリールを巻く時のような笑みは浮かべていない。ただそれらの表情や感情を全て包み隠すアルカイックな微笑を顔に貼り付けている。
春目という名の小柄な上級生は、散歩に連れていく時の犬のように大喜びしている。ただ小熊が来るという理由だけでなく、この目は昼の太陽の下より夜闇の中で輝くのかもしれない。
その二人より小熊の主観では幾分信用のおけるペイジという赤毛の女は、ジムニーの横にしゃがみこんでタイヤとサスペンションの点検に忙しい様子。
竹千代が黒いロングワンピースのポケットから鍵を取り出すと、ペイジはその仕草に反応したかのように立ち上がり、鍵を受け取ってプレハブの階段を身軽な様子で上った。
ペイジが引き戸の入り口を針金で簡単に開きそうな鍵で施錠した後、引き戸を開ける訪問者からは死角の位置にある通気口の横に手を突っ込み、何かのスイッチを入れる仕草をしているのを見て、小熊はもしも自分がこのサークルに入ったら、つまらない使い走りをやらされるのではないかと思ったが、それはありえない。
ほとんど足音を立てず鉄階段を降りてきたペイジは、竹千代に鍵を返す。竹千代は受け取った鍵をポケットにしまいながら「済まない」とだけ言った。
ペイジは「早くあたしの合鍵を作ってくれ」と言いながら竹千代のためにジムニーの左ドアを開け、助手席を前にずらした。竹千代は長身を折り曲げながら車体後部にもぐりこむ。
小熊の記憶では、旧いジムニーは、商用車登録に必要な車内の半分以上を荷室にするという条件を満たすため、シートとは名ばかりの薄いクッションを貼っただけの板しか無かったはずだが、この改造ジムニーの後部シートは座り心地よさそうなシートに取り換えられていた。
他車種のシートにも、自動車用ではなく、家具として売られているソファにも見えるシートは車内の後端まで下げられていて、悠々と足が延ばせる。
シートに落ち着いた竹千代の隣に春目が座りながら言う。
「工学部で作ってるキーカッターが来週くらいに完成するって言ってたから、街の鍵屋より精度の高い合鍵が作れるよ。タダで」
後席の横幅は軽自動車の規格ゆえ普通車ほど広くなかったが、女子二人が乗ると充分な余裕がある。しかし小熊がそこに座りたいかといえば話は別。特に竹千代の隣というのは勘弁願いたい。
小熊を見たペイジは、前進状態から元に戻した助手席を手で示す。小熊は安楽な後席とは対照的なバケットタイプのスポーツシートに座った。
車の前を回って運転席に乗り込んだペイジが、ジムニーのエンジンを始動させる。メーターランプの光を反射して瞳がオレンジ色に輝いている。
ダッシュボードの上に強引に取り付けたようなオーディオを操作したペイジは、表情とは対照的に冷静な声で言った。
「音楽は?」
竹千代が「任せるよ」と答えると、ペイジは自分のスマホを取り出して操作しながら言う。
「じゃあ今日は旧いドラマから行くか、マイアミバイスのサウンドトラックだ」
これから夜の街に走り出すという雰囲気に似合ったインストゥルメンタルがジムニーの車体を振動させる。住宅地やオフィス街なら苦情のひとつも来そうなボリュームだが、建物の間が広く、大学敷地のあちこちで音楽や演劇のサークルがジムニーのカーステレオに負けぬ活発な音を発している夜のキャンパスには不思議と調和していた。
ペイジがギアを一速に入れ、クラッチを繋いだ。ジムニーは駆けだそうとする動物のように、一瞬沈んだ車体を跳ねさせる。現代のあらゆる軽自動車より車重が軽いというジムニーは、五五〇ccのエンジンとは思えない発進加速でプレハブ前の地面を蹴った。
ジムニーのシートに小熊の体が押し付けられる。流れていく周囲の風景と共に、これからどこに連れていかれるのかという問いが後ろに吹っ飛んでいく。
そんなつまらない話より、今はこの魅力的な車の音と加速を味わいたいと思った。
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