第21話 竹千代
目を合わせていてこちらから逸らしたくなる女というのは初めてだと思った。
スーパーカブの側に突っ立ったまま、部長と呼ばれた人物と対峙した小熊は、目前の美麗な女の目をまともに見られなかった。
衣服と髪の色合いに影響されているのか、こちらを見つめてくる瞳はとても黒く、昔からマンガやアニメで悪役の色として黒が選ばれる理由がよくわかる。
とりあえず、この女が大学生活における脅威となりうる存在か否かを見定めようと思った小熊は、時に顔や口から出るものより雄弁な体型を盗み見た。
背は女子としては少し高め。百五十cm台後半の自分より十cmは高いかもしれない。女性らしい起伏のあまり無い痩せ型の体から伸びる手足はほっそりとしていて、一見したところ華奢な印象を抱いてしまいそうになるが、ダイエットなどで作られた細さでは無い。何らかのトレーニンクを行っているらしき健康的な筋肉に、それを動かすため必要にして充分な脂肪が乗っている。贅肉の類は見当たらない。
小熊は彼女の素性を探るため、両脇に無防備に垂らした掌を見ようとした。警察が職務質問でよく見る部分。少なくとも日常的に労働をしているか、それらに縁の無い生活をしているのかがわかる。
美麗な女は小熊が視線を動かす前に手を差し出した。
「法学部四年の竹千代だ。よろしく」
小熊は竹千代と名乗る女のハスキー気味な声に促されたかのように握手の手を出す。握力は小熊ほど強くなかったが、握っている間ずっとこちらの情報を吸い出されているような気分になった小熊は、春目にそうしたように学部と学年、ファーストネームだけを名乗り、すぐに手を離す。
小熊にも恐い物は色々ある。バイクに乗っている限り避けられない事故や故障、そして絶対に避けられない各種の請求。他にも嫌悪を催す類の人間との接触や、病気の類など。
竹千代という女は、小熊の今まで知るいかなる要素にも分類できない恐怖を感じる。陽光眩しい青空を見上げていて、なぜか視界の隅に黒い太陽が見えたような気分。
何かこちらに対して害を成すわけでも無いのに、絶えず将来自分の身に起こり得る不幸を伝えてくるような存在。
恐い物と出くわした時にすべき事は決まっている。一刻も早く逃げようと思った小熊は、先ほどから小熊と竹千代を交互に見ている春目という女の肩に触れながら言った。
「彼女がこの冷蔵庫を運んでいるのを見て、お手伝いさせて頂きました」
春目とはそれだけの関係で、荷物を降ろしたらさっさと帰ることを言外に伝えたところ、 竹千代は冷蔵庫を見上げながら言った。
「わたしたち三人で下ろせるかな」
いつの間にかこの汚らしいプレハブに巣食う怪しい二人の間に取り込まれている事に、背筋に寒気が走るような思いをさせられた小熊は、竹千代と春目に言った。
「十kgの荷物を持ち上げることが出来ますか?」
春目が元気よく手を上げ、竹千代も頷いた。それならこの六十kgの冷蔵庫は問題無く積み下ろしできると判断した小熊は、冷蔵庫を積んだカブを、プレハブ前の敷地にあった石造りのベンチに寄せた。
小熊が二人の服装を見るに、春目の麻ワンピースは力仕事の類をしてもビクともしないほど丈夫そうで、元から薄汚れている。自分も上着を脱げば作業に向いたデニム上下。竹千代の高価そうなワンピースドレスについては、出来ることなら破って汚してやりたい。
「まずここに下ろし、それから台車に下ろす。それであの大窓から運び入れる事が出来ます」
本当にそんな事が出来るのか不安な様子の春目を促しながら、竹千代はカブの片側に取り付いて冷蔵庫に手をかける。小熊も一箇所を引っ張るだけで強固な結紮があっさり解けるトラッカーズヒッチで結ばれた縄を手早く外し、冷蔵庫の下部を持って力を籠めた。
カブの荷台から高さ三十cmほどのベンチ、地面に置いた平台車と、二段階に下ろしていったおかげで、冷蔵庫は無事プレハブの中に運び入れる事が出来た。
学校の教室くらいの広さがある室内は冷蔵庫だけでなく、あらゆる家具や家電、用途不明の機械類や建材など、雑多な物が並んでいた。小熊が興味を惹かれ見回していると、背後から竹千代の声がした。
「この大学の内外で不要になった品の中で、再生可能な物をここに集めているんだ」
この女の声は心臓に悪いと思った小熊は、プレハブを出て竹千代たちから離れながら言った。
「では、私はこれで失礼します」
冷蔵庫の上げ下ろしをしながら、特に疲労した様子の窺えぬ竹千代は、汚れ一つ付いていない着物生地のワンピースドレスを翻した。染め抜かれた花が揺れる。
「これほどの助力を受けて何の礼もしないのは我々としても心苦しい」
竹千代はそう言いながら、背後で冷蔵庫を縛り付けていた荒縄を大事そうにドンゴロスの巾着袋にしまっていた春目を視線で促した。
春目は竹千代からの無言の指示に対し即座に動いた。ドンゴロス袋を放り出して小熊のところに駆け寄ってくる。
「よかったらお茶でも飲んでいってください」
小熊はガラクタで満たされたプレハブを振り返り、それから大学敷地の中でも忘れられ隔絶さているような、木々に囲まれた草地を眺めた。少なくとも視界の範囲にスターバックスやドトールは見当たらない。
「どこで、ですか?」
先ほどプレハブ前で遭遇した時からずっとアルカイックな微笑みを浮かべていた竹千代が、プレハブの外階段を指しながら言った。
「もちろん我が"セッケン"の部室さ」
小熊は後に何度も、ここで二人を振り切ってカブで逃げていればと後悔したが、きっと新しく入ったばかりの大学は情報の入力が多すぎて、判断力を鈍らせていたんだろう。
孤独も感じていなかった。
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