第20話 プレハブ
後ろに冷蔵庫を積み前に春目を乗せたカブ90は、走り出しで少しふらついたが、小熊がスロットルを丁寧に開け、スピードとトルクが乗ると問題無く走ってくれた。
以前乗っていたカブ50もそうだった。一人で乗っている時はトルクの細さから来る発進加速に不満を覚える事もあるが、走り出してしまえばごく自然にコントロール出来る。カブの凄いところは、その感覚が空荷でも重荷でもさほど変わらない事。カブ90になってからは、その重さと鈍さは同じながら、安全な速度に達する時間が短縮された。
これならば重心移動にさえ気を使えば、大学構内ではなく外の幹線道路も平気で巡航出来るだろう。
小熊の手によってカブに乗せられた春目は、悲鳴を上げて暴れるかと思いきや意外と大人しい様子でカブに身を委ねている。
こう見えて危険な行為については免疫があるのか、それとも自分の命についてさほど重く考えていない、諦めの早い女なのか。
右手だけで運転操作が出来るカブの利点を活かし、左手で春目が落っこちないように抱えていた小熊は、この小柄な少女の分厚く織りの粗い麻布のワンピースで隠れた体が、ひどく痩せていることに気づいた。
春目の指示に従い、まだ小熊には不案内な大学敷地の奥へとカブを進める。この冷蔵庫の運び先は、サークル部室棟と実験温室の間にある、細い道を走った先の行き止まりにあるらしい。
周囲を木々に囲まれ、山梨でもよく見た森林道路といった感じの薄暗い道にカブを乗り入れた。道幅は車は通れないが軽自動車なら何とか通行出来るサイズ。
細いコンクリート舗装の道に入ってしばらく走った小熊は、誰ともすれ違わず、誰も追い越していない事に気づく。
大学の各棟や施設の間を繋ぐ構内道路というものは、いつも誰かしらが何らかの目的や行き先を持って移動している。そんな人の流れから外れたような道を辿った先にあるのは、一体どういう場所なのか。
鬱蒼とした森が途切れたところで道は行き止まりになる。木々を切り開いた空間に、一棟のプレハブが建っていた。
一般的なワンルーム八世帯のアパートと同じくらいの大きさの二階建てプレハブ建築は、建ってからそれなりに年数が経過しているらしく、あちこちに錆が回っていた。
プレハブの横には、建物と同じくらいくたびれた軽バンが駐められていて、裏手に焼却炉が見える。
「ここです」
春目がプレハブを指差すので、小熊は鉄階段の近くにカブを駐める。
まず自分の前に座る春目を下ろした後、降車して重いセンタースタンドを上げた小熊が、この人気の無い場所で冷蔵庫をどう下ろそうかと考えていたところで、目の前の引き戸が開き、中から誰かが出てきた。
「おかえり。春目君」
黒留袖を仕立て直したらしき、漆黒の生地に花模様の刺繍が入ったワンピースドレス。紫がかった黒髪、周囲から光を奪うような目。
地の果ての薄汚れプレハブに、小熊が昨日カフェテリア食堂で見かけた美麗な女がそこに居た。
春目はカブのリアキャリアに結び付けられた冷蔵庫を得意げに叩きながら言った。
「見てください部長! まだ三年も使っていない完動品ですよ! こないだ殺人事件が起きた柚木の住宅地で貰ってきたんです」
部長と呼ばれた女は冷蔵庫に触れながら答えた。
「相変わらず春目くんは目ざとい、素晴らしい品だね、それに」
美麗な女は黒い瞳で小熊を見る。
「いい出会いがあったみたいだね」
小熊はまずこの冷蔵庫をどうにかして下ろそうと思った。一刻も早くこの神の救うべき対象のリストの最後に載っていそうなプレハブから退散したほうがいい。
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