第17話 冷蔵庫

 小熊は入学前説明会で聞いた大学構内の二十km速度制限に従い、それまで徐行させていたカブの速度を更に落とした。

 カブは走行が不安定になったり繊細なクラッチワークを求められたりする事も無く、地面に足をついて倒れないようにする必要も無い。人の歩く速さで何のストレスもなく移動出来るカブの美点は、50ccでも90ccでも変わり無いらしい。

 例外は礼子の乗っていた改造カブで、低速低回転ではまともに走らない。礼子はそんなくだらない物はとっくに捨てていた。


 小熊は改めて目前の異変を注視する。大学の正門から入ってきたのは、移動する冷蔵庫。今から大学敷地を出ようとする小熊とカブに接近してくる。 

 小熊は周囲の学生や職員を見回した。昼時で帰宅や外出をする人間の出入りがそれなりに多い正門前。勝手に動く冷蔵庫はそれなりに人目を惹きつつ、皆が悲鳴を上げて逃げるほどの奇怪な現象でも無い様子。

 広い正門と通路。特に通行の支障にはならないので、小熊は歩行速度を維持しつつ進路を少しずらし、動く冷蔵庫とすれ違った。

 

 異変の正体はあっさり判明した。冷蔵庫の後ろに誰かが居る。

 台車の上に乗せたらしき冷蔵庫を、一人の女の子が押していた。

 緑色のシンプルなロングワンピースを着た小柄な少女は、家庭用としてはやや大きめな三室構造の冷蔵庫を一生懸命運んでいる。

 研究やサークル活動などで、大きな荷物を運び入れる事も多いであろう大学構内。引越しか何かだろうと思った小熊は気にも留めず、冷蔵庫を押す少女の横を通り過ぎた。

 一つ小熊の心に引っかかった事があるとすれば、運ぶ手順。


 少女は冷蔵庫を平台車と呼ばれる、四角い板の四隅にキャスターがついただけの台車に乗せて運んでいる。

 小熊も短期の倉庫内バイトなどで使った事のある荷物用台車は少々扱いが面倒で、気まぐれなキャスターのせいか扱いの荒さによる劣化が原因か、ただまっすぐ押しているだけなのに見当違いな方向へと進んだり、動いてはいけないところでどんどん動き、動いて欲しいところで動くのを渋ったりする。


 案の定、平坦ながら台車の小さなキャスターにとっては起伏の多いアスファルトの路面抵抗で絶えず揺れていた冷蔵庫が、音を立てて傾く。

 小熊がバイクに乗る人間の特技で一秒の何十分の一かの間、路面に視線を走らせたところ、正門前の通路を排水溝が横切っていた。溝に蓋をしている網目のグレーヂングにでも引っかかったんだろう。キャスターの上に乗せられた冷蔵庫は、気休め程度に縄で結ばれていたが、古紙集積所で時々見かける、回収する人間の気持ちを全然考えていない古新聞の束のように、縄は緩んでいて何の役にも立っていない様子。

 

 どちらにせよ自分には関係無い事だと思った小熊は、冷蔵庫を運ぶ少女を一瞥した後、正門から大学敷地の外に出た。

 小熊は今日もこれから色々な用事を抱える身。人助けなどしている暇は無い。まだこの大学をよく知らぬ新入生の自分が、浅い考えで係わると面倒な事になるかもしれない。

 大学前を通る公道の歩道から、車道に降りるスロープにさしかかった小熊は、ウインカースイッチに指を触れさせながら、どちらに曲がろうか少し迷った。


 どこか行く先があるわけでは無い。今日は買い物や所用よりも、カブ90に習熟し、その魅力を味わうため走りこむと決めている。

 小熊の背後では、何とかグレーヂングの溝を乗り越えたらしき少女が、路面のゴミか何かを台車で踏んだらしく、自分に向かって倒れそうな勢いで傾いた冷蔵庫に短い悲鳴を上げるのが聞こえた。

 ウインカースイッチから指を離した小熊は周囲を確認した後、歩道でカブをターンさせ大学構内に引き返した。

 なんとか倒壊を免れたらしき冷蔵庫の横にカブを駐めた小熊は、緑色のワンピースを着た少女に声をかける。

「どこまで運ぶの?」

 今の小熊にとって最も優先すべきはカブ90の性能を知る事。それならば、まずは重い荷物を載せた時の走りについて試してみたい思った。

  

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