第16話 オリエンテーション
カブ90の性能をたっぷりと楽しんだ小熊は、日付が変わる頃に自宅へと戻った。
夕方にカブを受け取ってから数時間に渡ってカブで走り続け、まだまだ走り足りない気分。
もう深夜に出歩いていても補導される事の無い身だが、大学の入学式を終えた今は、明日からの予定を色々と抱えている。
気候はもう春の盛りで、つい先月までバイクの敵だった零下の冷え込みはもう無い。山間部の湧き水で道路が濡れている場所を通過しても、路面凍結でタイヤを取られる事も無い。
デニムの上に着たライディングジャケットがちょうどよく思える気温と湿度は、バイクに最適だと思った。
カブをコンテナの中にしまった小熊は暗い玄関から家に入る。そろそろ自動で点灯、消灯する玄関灯を点けるべきかもしれないと思ったが、今はカブをどうしようか、カブで何をしようかと考えているだけで頭が一杯になる。翌日に控えた大学の予定については、ほとんど意識しなかった。
ダイニングルームの給湯コントローラーで風呂の湯を張り、湯が溜まるまでの間に夕飯の準備を済ませた。
風呂が沸いたので、まだカブの振動の残る体を湯船に漬けて一息つく。風呂の灯りを消して湯船の横にある窓を開けた。
昼間は多摩の里山と墓石の並ぶ霊園が見える風景は、陽が落ちると漆黒の闇になる。目につく範囲に人工の灯りが見えないのが気に入った。
空には半月に近い形となった月が浮かんでいる。窓に月光が煌々と差し込む満月ほどの絶景ではないが、微笑んでいる人の目のように見える半月も嫌いじゃない。事実、自分は今、カブ90がもたらしてくれた満足感に包まれ、笑っている。
キッチンから炊飯修了のアラームが聞こえてきたので、小熊は窓を閉めて風呂から出た。小熊は今日着ていたデニムや下着、ライディングジャケットやパジャマ等を脱衣所の洗濯機に放り込み、洗濯機の風呂水使用バルブと繋いだホースの先を浴槽に漬ける。
洗剤を入れてスイッチを押すと、洗濯機のポンプが風呂の湯を吸い上げ始めた。夜中に洗濯機を回せるのは、周囲に人家の無い一軒家のいいところ。
脱衣所に衣装ケース替わりに置いているホームセンターの蓋つき樹脂製ボックスを開け、取り出したマルーンレッドのスウェット上下を身に付けた小熊は、ボックスを見ながら少し考えこんだ。
優れた性能を有したカブ90も、小熊がカブ50を買った時にそうであったように、今は荷物を積む事が出来ない。これから大学の講義が本格化し、日々の買い物などにも使うこととなったら、何かしら荷物を収納する装備を付け足さなくてはならない。
そう思った小熊は、コンテナガレージの奥にある物を思い出した。
今まで乗っていた事故車のカブ。必要な物があるなら、あの部品取り車から剥いて取り付ければいい。
どうやらカブを維持する上で、良好な環境が整いつつあるらしい。荷物を入れる箱だけでなく、あらゆる部品があのカブ50から取り外せる。もしも今のカブ90にトラブルが起きたとしても、もう発注した部品の納品待ちなどしなくて良くなった。
ダイニングのラジオでNHK-FMを流し、作業灯を加工して自分で作った間接照明のスイッチを入れた小熊は、柔らかい灯りに照らされた自作のバーカウンターで、カレーライスとコールスロー、炭酸水の夕食を楽しんだ。
食後もバーカウンターのスツールに腰掛けながら、小熊は明日の準備を進めた。
翌日は大学の専攻に応じた選択授業等を決めるオリエンテーションが予定されているが、正直あまり頭に入らない。洗濯を終えた服をダイニングに干した小熊は、iPadでカブのグッズや工具、まだあちこちに手を入れる余地のあるガレージと木造平屋のリノベーションアイテムなどを見ているうちに、眠気が差してきた。
小熊は寝室からダイニングに移した勉強机の引き出しにiPadを仕舞った。寝床まで持っていって粗雑に扱っていいものではない。
高校時代に山梨でバイク便をやっていた頃、仕事道具として支給されたiPad。小熊は卒業と同時にバイク便会社の浮谷社長に返却しようとしたが、浮谷は「お願いだからこのまま持っていて」と言って受け取ろうとしなかった。
小熊はこのiPadを返すのは、ただ自分はバイク便会社の所属から離れるという理由だけでなく、どんな人間関係にもいずれ訪れる折り目をきちんと迎え、けじめを付けるという意味だったが、結局はそのままiPadを貰って帰ってしまった。
互いのために離れると決めたなら未練を残さない。それが正しいことならば、世の中には正しくない方法を押し通すことが許される人間というものが居る。小熊にとって浮谷は、法や世間のモラルより信頼出来る行動時基準を持っている人間だった。何よりあの頼りなくも時々聡く、愛車のホンダ・フュージョンを扱うのが上手い社長とは、こんなだらしなく曖昧な関係のほうが似合うと思う。
どちらにせよこれから大学で授業のファイルを受け取り、レポートなどを書くのをスマホで済ませるのは手や目への負担が大きい。小熊が自分で買って持っていたワイヤレスキーボードと組み合わせると、ラップトップPCとしても充分な性能を発揮するiPadは、持っていて損は無いだろう。
ダイニングの灯りを消した小熊は寝室に入り、青々とした畳の上に新調した布団を敷く。やはり家の中でも寝室だけは和室としてリノベーションしていこうという考えは正解だったらしい。
寝室の蛍光灯を消して布団に入った小熊は、スマホの目覚ましをセットして眠りに落ちた。
短いが充実した眠りから覚めた小熊は、シャワーを浴びながら一張羅の外出着が洗濯中であることに気づいた。
ダイニングに干した速乾性コットンのライディングジャケットはもうほぼ乾いているが、デニムは湿ったまま。
雨戸を開けて外の陽気を見た小熊は、少し寒の戻った曇り空を眺めながら服を選んだ。
カーキ色のリーバイス製コーデュロイパンツに、バイク用潤滑油メーカーの販促Tシャツ、KADOYAのダブルライダースジャケット。
元々は小熊が入り浸っていた中古バイク屋の店長、シノさんが買った物だったが、今では腹回りが入らなくなり、シノさんより小熊の体にピッタリになってしまったので、借りっ放しのまま。
シノさんはダイエットが成功してまた昔のジャケットやツナギが着られるようになったら返せと言っていたが、それはもう事実上永久に小熊の所有物にしていいという意味と同義。
小熊の知る限り、中年と呼ばれる年齢に達したライダーで、十代の頃に着ていた革ツナギをもう一度着られるようになった人間はほぼ皆無。ただ多くの人は、そのうち着られるようになると信じてツナギを捨てようとしない。
トマトジュースと四枚切りの分厚いトースト、ゆで卵の朝食を終えた小熊は、iPadやオリエンテーションに必要な書類を帆布のディパックに詰め、カブ90に乗って家を出た。
まだボックスの付いていないカブ90に荷物は積めないが、ならば背負えばいい。前のカブを買って間もない頃はそうしていた。それに、まだ何の箱もついていないリアキャリアがメッキで輝いている様は、ちょっと目新しくて新鮮な気持ち。
自宅からからカブなら十分足らず。ほとんどが下り坂の通学路で、カブ90の性能を体感する暇も無く大学に着いた。人と車両が兼用する正門にカブを乗り入れ、敷地内の駐輪場に駐める。
始まったオリエンテーションは、小熊にとって物珍しい物でありながら、昨日乗ったカブ90ほどの刺激や好奇心を与えてくれる内容ではなかった。
元よりこの大学に進学したのは、何かの学問を究めようという動機ではなく、自分の生活と人生をより良いものにするため、大卒という最も汎用性の高いチケットを手に入れる事が目的。
一応は専攻だが特に興味の無い文学の講義や、一般教養に外国語、面白そうというより、落第のリスクが少なく、かつバイトや遊びの時間を出来るだけ多く入れられるような組み合わせを選択する。カウンター式の食堂で安く栄養のある物を選び、トレイに盛っているような気分。
オリエンテーションは午前中で終わった。昨日行ったところ意外と安価で美味、雰囲気も良かった学食で今日も昼食を済ませる事にした。
昨日と同じ窓際の小テーブルで、昨日とは違う丼物の昼食を摂る。昨日この席に居た黒髪の美麗な女は居なかった。
昼食を終えた小熊は、駐輪場へと向かった。カブのエンジンを始動させて跨る。
今日はどこへ行こうか、またホームセンターにでも行って足りない物を買い足すか、それより小熊はカブ90でもっと走りたかった。せっかくライダースジャケットまで着ているのだから、この格好に似合った事をすべき。カブ90の性能とその限界を、もっと試したい。
これからどこに行こうかと、少し気持ちを昂ぶらせながら、敷地内でカブを徐行させていた小熊の進行方向に、何やら奇異な物があった。
高校と異なり自由な雰囲気の大学キャンパス。あちこちで新入生獲得目的なのか、サークルが勧誘のアピールやパフォーマンスをしている。その中でも特に小熊の目を惹く白い塊。
正門の方向から、冷蔵庫が歩いてきた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます