第15話 スーパーカブ90

 小熊は納車完了したカブ90に乗る前に、今まで乗っていた全損のカブ50を自宅に持ち帰るべく、借り物のワンボックス車に積んだ。

 積載車の無料貸し出しを広告に謳っていた中古バイク店も、まだ自動車の免許を取って一年未満の小熊がハイエースを運転する事には不安そうな様子だったが、小熊が慣れた様子でワンボックスのテールゲートを開け、ラダーレールを掛けて運び込んだカブをラッシングベルトで固定しているのを見て、少々ながら安心した様子。

 小熊にしてみれば、山梨に居た頃、出入りしていた中古バイク屋の手伝いでよくやった事。


 小熊はトヨタ車のオートマと車体の安定性に感心させられながらワンボックスを走らせ、大型車が駐車出来る自宅前の敷地に駐めた車からカブを運び降ろした。

 追突されたリアフェンダーが後輪に干渉し、車軸も歪んでいるらしき事故車のカブは押して歩く時も重かったが、コンテナを開けて作業灯を点け、最奥の余剰スペースまでカブを転がして行った。

 コンテナ内の照明は出口側の保管、整備場所と、木のデスクが置かれた部品と工具のスペースを中心に照らしていて、奥まで灯りが届かない。


 暗闇に置かれたカブの事故車は、あまりにも不気味だったので、今度このカブを照らすランプでも買ってこようと思ったが、それは今すぐでなくていい。

 コンテナの奥、スポットライトの下で眠りにつくカブを想像したが、なにやら美術館か博物館に展示されている、もう死んだバイクのように思えてくる。

 このカブはまだ部品取りとしての役割を残しているし、小熊と同じく自宅にバイク用ガレージを作っている人の話では、収納を増やすとそれ以上の速さで物が増えていくらしい、いずれこのカブもバイクの部品や家から出た不要物の中に埋もれてしまうのかもしれない。

 コンテナの灯りを消して扉を閉め、暗闇の中にカブを閉じ込めた小熊は、いよいよカブ90を受領すべくワンボックス車に乗りこんだ。


 夕方の通勤ラッシュに捕まったせいか、バイク店までの帰路には思ったより時間がかかった。

 町田市北部の自宅から国道十六号線沿いのショップまで、直線距離ではそれほど遠くないが、町田は渋滞箇所がやたらと多い。

 都下は他の市もこんなものなのかもしれない。これから東京で暮らすためには、カーナビやスマホが教えてくれる幹線道路だけではなく、間道や抜け道も覚えたほうがいいだろう。

 冬よりは幾らか遅くなった日暮れが迫る頃、ワンボックスをバイク店に返した小熊は、遂に自分の新しい愛車、スーパーカブ90を受け取った。


 店員から諸々の書類と共にキーを受け取った小熊は、ヘルメットを被りグローブを着けてカブ90に跨る。今まで乗っていたカブと何も変わらない。そう思っていた小熊の目に、八〇kmまで刻まれたスピードメーターが映る。

 今まで乗っていたカブ50は、六十kmを越えるとメーターが役に立たず、小熊はデジタルのスピードメーターを追加しようと思っていたが、どうやらこのカブはそれがいらないらしい。

 小熊としてはこのカブ90に、八〇kmメーターでも足りなくなるくらいの性能を期待しているが、それは乗ればわかる事。


 キーを差し込んで捻り、キックスタートさせる。操作の方法も感触も、何から何までカブ50と同一。すでにショップによって暖機が行われていたようで、一発のキックで始動したエンジンの振動も同じ。音は少し太くなったかもしれない。

 店員に形だけの礼を述べた小熊は、カブのスタンドを上げて走り出した。

 全てが変わらない。初めてカブに乗った時に味わった鼓動の感触まで同じ。

 

 店を出て国道に繋がる生活道路へと走り出した時、小熊は少し緊張した。

 カブ50からカブ90、以前小熊がカブ50を原付二種登録するためシリンダーボーリングとブロック修正を行った時は、走り出しは同じでも高回転域が随分変わった気がした。

 同級生の礼子は積んでる荷物やガソリン残量、その日の気温や湿度で起きるような誤差の範囲だと言ってたが、三十kmの速度制限から脱した開放感もあったのかもしれない。

 今回は排気量にして八〇%の拡大。もしかしてアクセルを開けた途端、今までの倍近いパワーが出て制御できなくなるのではないかと思いながら、恐々と速度を上げていったが、加速感はカブ50より少し上がったかなと思う程度。少なくとも低速でのトルクや発進加速が細いというカブ50の欠点は改良されているが、パワフルかといえばそうでもない。拍子抜けと言っても良かった。


 そのまま国道に出た小熊は、カブ90のスピードを上げていく。ミッションはカブ50と同じ三速なので、シフトアップポイントも変わらない。さすがに高速域まで達する時間は少し短縮され、速度はスムーズに上昇していくが、期待していたほどでは無い。

 90ccといっても向上したのは耐久性や熱容量で、エンジンパワーにはそれほど貢献しないのかもしれないと思いながらカブ90を走らせていると、道路は鉄道を越える陸橋にさしかかった。 

 小熊はため息をつく。幹線道路の速い流れの中でも必要充分な性能を発揮するカブ50の泣き所と言えるのは登り坂。


 坂の多い山梨では、後続の他車を制する速度で走っていたところ上り坂にさしかかり、失速したカブが後ろから煽られるような事が時々あった。おかげで山梨に居た頃は道だけでなく、登り勾配がきつく充分な助走が必要な箇所なども覚えるようになった。

 東京も山梨よりは平坦ながら、山坂だけでなく道路構造による坂も多く、たまに坂の途中にある信号でストップさせられたりすると、ただでさえ走り出しの遅いカブが坂の負担で更に鈍くなる。小熊はそのたび跨ってアクセルスロットルを回しているだけなのに、自分で走って坂を登っているかのように息が荒くなってくる思いをさせられた。


 礼子はそういう事がいやでカブに改造を重ねていた。椎は坂道に強い四速ミッションと電子制御エンジンのリトルカブで、他車より速く走る必要も無いと思っていたので、特に欠点とは認識していなかった。

 自分はどうだろうと思いながら、坂道を登り始めたカブ90の速度を出来るだけ落とさないようにスロットルを全開にした。

 小熊は自分の背が天使か何かに押されたような感覚を味わった。

 実際にカブが急加速したわけではない。ただ当然来るべき減速に備え、無意識に準備していた体が裏切られた。坂を登るカブ90は、失速するどころかじわじわと速度を上げていく。


 今までカブで当然のように感じていた登坂のストレスが無いまま、カブ90は坂の頂点に達した。オーバースピード気味になったのでスロットルを戻した小熊は、カブ90の特性を理解し始めた。

 幹線道路の巡航速度で走らせていると、スロットル開度もエンジンの回転もカブ50とほぼ変わり無い。しかし前車を抜き去るべくスロットルを全開にすると、淀みなく理想的な追い越し速度に達する。加速力が上がったわけでは無い。ただカブ50で感じていた息つきや引っかかりが無い。


 もう一度坂道にさしかかった。小熊の嫌いな坂道途中の信号で停止させられる。青信号に変わり、発進したところ、一速、二速で少し長めに引っ張っただけで、平地と同じように加速する。

 カブ90はカブ50より劇的に速いバイクじゃない。ただ、カブ50の遅く鈍い部分、苦手とする箇所が綺麗に消されている。長所をいたずらに伸ばすことなく、ただひたすら欠点が潰されている。


 カブに乗る人間はバイク愛好家だけでは無い、仕事で乗る人がカブ50とカブ90を使い分けなくてはいけない事もある。そういう時、50と90の走行性能が別物だと、訓練や習熟も二種類のものが必要となる。

 新聞屋では今まで自転車すら乗った事の無いバイト学生やおばちゃんも、カブならば少し練習しただけで乗れるようになるらしい。一回覚えてしまえば、もう全てのカブを扱えるようになる。免許さえ持っていればその日の業務内容や保有車両に応じ、カブ50でも90でも同じ技術と感覚で乗る事が出来る。


 カブの欠点の無いカブに魅せられた小熊は、明日の予定も忘れ走り回った。

 HA02スーパーカブ90、このカブこそが、いつまでも乗り続ける事が出来るバイクかもしれない。 

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