『ハヤブサとガルダ』Part3

 まだ未練が残っていたかな、とハヤブサは自分の手を見て独りごちる。

 成長しきっていない小さな手と細い腕が、視界を覆っている。これは恐らく、自分の幼い時の肉体だ。

 上半身を起こして周囲を見渡してみると、幼少時代に戻ったハヤブサは薄汚れたアパートの一室に居た。食卓らしき机の上では、見てくれの悪い男女が煙草を片手に何かを話し込んでいる。

 これは、彼が普通の子供だった頃の記憶からできた、今までも何度も見た夢だ。適当な名前を付けられ、最低限は養われていた頃の、いわば脳内に残された記録映像だ。

 座り込む少年の前で、煙草を片手に机を挟んで話し合っている男女がいる。いかにも粗暴さを醸し出した服装と装飾に身を包んだ彼等が、少年の両親であった。何度見ても、生まれた子供本人が喜んで受け入れたくない事実だ。

「昔の名前はもう綺麗サッパリ忘れられたのに。昔の記憶ってのはしつこい染みだな」

 少年が、幼い声音で自嘲するように愚痴った。犬や猫に付けるような名前で呼ばれていたこと自体は覚えているが、どういう名前だったかは記憶にない。長い年月をかけて、この頃の記憶はなるべく頭の中から潰してきたのだ。

 信じられないかもしれないが、裏社会で生きていくなら、知識はさておき過去の記憶などない方が都合が良いのである。

 表社会での常識、倫理観、生活観、これに染まったまま裏の世界で生きていくのは無理がある。普通の生活に未練を残すような輩は、この世界では真っ先に死んでいく。

「飽きもせず、あいも変わらず、仲睦まじいねぇこの二人は」

 次々と少年は子供離れした言葉を発するが、記憶の中の両親は見向きもしなかった。夢の中の二人はいつも、彼に目をくれることはない。父親は空き巣をメインとする盗人で、母は万引きやスリの常習犯という、真っ当な生き方を知らない人達だった。

 ろくでなしの小悪党同士が成り行きで作ってしまった子供という経緯もあって幼い頃から彼はあまりしっかりとは面倒を見てこられなかった。

 そんな扱いで何故捨てられなかったのか、当事者は今でも不思議だった。酔っ払った父に暇潰しで煙草を咥えさせられたり、母には面白半分に食事を抜きにされたり、当時としても露見すればただの虐待としか言えないようなことをされてきた。刺激の強い玩具として生かされてきたのだろう、と当人は推測している。

 とはいえ、貧民街の家庭事情など、規模の大小や国の違い関係なく、ほとんどがろくでもない。必死に親の機嫌をとって、日々の飯にありつこうとするような、おおよそ幸せとは程遠い毎日だ。

 それでも親の保護下にいるだけ、少年はまだマシな生活をしているとも思っていた。もっと酷い境遇になると、孤児になった所をマフィアやチンピラに拾われて奴隷にされたり、最悪子供一人で生き永らえることになる。家庭から外れた人間とは、おおよそかなり歪んで育つ。

 少年も決して真っ直ぐ育ってきたわけではないが、少なくとも喜んで人を殺す人間にはならなかった。




 少年の両親が健在な光景は間もなく終わる。夢の中の二人は、暗転したことに気づいた後にはもう、死体として転がるようになるのが、いつものお決まりだった。

 こんな時に限って、二人は夫婦らしく肩を寄せ合うように倒れている。血溜まりの上に親が転がっている悲惨な場面なのに、何故か少年には滑稽に感じられた。

 この惨状を生み出したのは、実子である少年ではない。ましてや、銃を掴みながら倒れている母親でも、手投げナイフを持った父親でもない。

 突然家に押し入ってきた、スキンヘッドの男だ。忘れろと言われても、この時の男のモンスターのような顔立ちは、すぐに思い出せてしまう。全身を紫に塗れば、小さい頃に読んだ絵本に出てきた悪魔になりそうだ。

 顔立ちもさることながら、その筋肉質な肉体もまた殺気立っているように見えた。

「お前等の命を借金のカタにするのは胃が痛むよ。何も回収できなくなっちまった。せめて何か憂さを晴らせれば、な」

 ソファーの下に隠れていた少年が身を震わせる。死体を何度も蹴りつける男の狂気は、まだ彼には刺激が強すぎた。

 すぐに逃げなくてはと動こうとした時、少年はソファーに頭をぶつけた。これに気づかないような殺し屋はいない。

 男はニヤつきながらソファーの下を覗いてきた。車の下に隠れた野良猫のように、少年は目を見開いてぬいぐるみのように硬直した。

「こりゃいい、ガキをバラバラにすりゃ、少しは俺の気も収まるってもんだ」

 男は、殺しを生業としている男のようだが、仕事以前に人殺しを楽しむ屈折した性格の持ち主のようである。殺人鬼としては十分過ぎるくらいの狂気を抱えた男だ。

 その時、少年は死物狂いで母の死体に這い寄った。必死な反応を面白がったスキンヘッドは、囃し立てながら背後にくっついてきた。

 よほど母に擦り寄る子供の姿が面白いのか、スキンヘッドは悪趣味な笑い声をあげ、手を伸ばしてきた。

 肩を掴まれようとした瞬間、少年は転がり出るように真横に飛んで、スキンヘッドに銃を一発撃った。

「うっご、ああああっ……」

 鎖骨の辺りに命中したらしい。男は胸の辺りから大量の血を吹き出し、目を真っ赤にしながら少年を睨んだ。

 しかし睨まれた方……つまり少年もだらだらと鼻血を出していた。両手で銃を構えて撃った反動で、鼻っ柱を銃身で打ってしまったのである。

 呻き声を上げつつ必死に藻掻くスキンヘッドを見下ろすうちに、恐怖心が膨らんできた。自分が撃ってしまったという実感が、時間を経るにつれて心を支配していく。

 逃げるように少年は家を出ようとした。が、それは壁のように立っていた見知らぬ両脚に止められる。

「なんの騒ぎかと見に来てみれば。小僧が拳銃片手に血塗れか。穏やかじゃないな」

 と言って、両脚の主はちらりと家の中を見た。一通り状況確認をして納得したらしい彼は、面白いものを見たように声を上げ、振り返った。

「やるじゃないか小僧。あの男を一発で仕留めたか」

 と指差したのはスキンヘッドだった。どうしてあの男だけをハヤブサが撃ったことを見抜けたのか、わからなかった。

「とうさ、んと、かあ、さんは、お、俺じゃ」

 弁解の言葉言い切る前に、入ってきた初老の男は懐から拳銃を取り出し、撃った。

 少年の頭上を飛んでいった弾は、後ろから絞め殺そうと寄ってきていたスキンヘッドの眉間を、一発でぶち抜いていた。

「詰めが甘いな小僧。殺すなら確実に殺せ。しくじって死ぬのは自分だぞ」

 不敵に微笑んだ初老の男は、銃を懐に戻しながら踵を返す。

 目まぐるしく変わる状況に対応できていないまま、少年は一人取り残された。少しして我に返った彼は、大声で初老の男性に尋ねた。

「おじさん、誰だ」

「ここで教えられる話じゃないな。知りたきゃ俺の隠れ家まで付いてくればいい。やれるもんなら、だけどな」

 振り返りもせずにぶっきらぼうに答えつつ、彼はマッチで煙草に火を灯してから手をひらひらと振った。もうこれ以上留まって話すつもりはないらしい

 その背中を、少年は必死に追いかけ始めた。どうせここに留まっていても、生き残る術はなかった。




  ******




 目が覚めてハヤブサが最初に感じたのは、体温の低下と何か肌に纏わり付く感覚だ。これは水かと気づいた所で、鼻に大きなピアスを付けた男が目の前に顔を出してきた。

 もう夢の時間は終わり、元の時間に戻ってきたのか。せっかくならもう少し浸りたかったと、ハヤブサは心の中で苦笑いした。

「お客さん、ようやくお目覚めのようだぜ。誰かのキスでも待ってたのか?」

「俺が毒リンゴを食べたお姫様に見えたなら、きっと寝不足だねぇ。俺達のことはいいから、昼寝でもしてきなよ」

「お前、そんな冗談言える状況か? それとも寝起きのせいで状況が見えてないなら、正気に戻るまでの時間をやるぞ」

 鼻ピアスのありがたいお言葉を受けて、ハヤブサはゆっくりと確認させてもらうことにする。まず、今の自分は椅子の背もたれに両手を、椅子の脚に両足首をロープで縛られている。少し体に力を入れてみたが、まったく身動きが取れないようになっていた。

 部屋の隅ではヒバカリと一緒に居た女が同じく縛られ、別の男に問い詰められていた。尋問者に足蹴にされたヒバカリは、ハヤブサと同じくまともに動けそうにない。

 敵は二人だと確認しつつ、あの少女を探すと作業机の上で寝かされていた。傍らにはハヤブサ達から没収したと見られる、銃や刃物が並べられている。無理に連れてきた客人への応対ではないな、とハヤブサは冗談めかしながら小さく舌打ちした。

 コンクリート剥き出しの部屋を見渡すと、どうやらここが長く使われていない物置らしいことがわかった。壁際に並んだ棚の数々には壊れた電化製品の残骸とダンボールくらいしか乗っていなかった。

 サービスタイムは終わったとばかりに、ハヤブサを眺めていた男が何かを床に叩きつけた。

「さて、これを見ても目が覚めねぇか?」

 それが釘を引き抜くのに使うバールだとわかった時、これが拷問道具か、と変に納得してしまった。

「そこに転がってる泥棒野郎と、どっちに使おうか悩んでたがな、寝ぼけ眼のお前を起こすには丁度良さそうだ。さて、お前が誰か答えてもらおうか」

「ちょっと待ってくれよ。俺はただの通りすがり。安易に首を突っ込んだのは認めるけど、まさかこんなヤバい所に連れ込まれるとは思ってなかったんだ。許してくれよ」

 ハヤブサは、臆面もなく命乞いを始めた。必死に椅子も揺らしてアピールするが、腕と足が縛られているために倒れそうになり、すぐやめた。

「銃を持った通りすがりがいるか。どうせサツか何かの下っ端だろ?」

「こんな若いサツこそいるわけないでしょ。銃はただの護身用。俺は本当に通りがかっただけで、なんかヤバそうだったから声をかけようとしただけだ! 信じて!」

 鼻ピアスは一応頷いたが、明らかに納得していない様子だ。ハヤブサは必死に弁解を続けた。

「その人らだって初対面だし、これ以上肩入れする義理もない。それに今日、俺デートがあって……」

 かなり哀れっぽいハヤブサの訴えは、鼻ピアスがバールで床を力強く叩いたことで止められた。衝撃で火の粉が飛び散るくらい力強く振り下ろされた一撃は、ハヤブサの表情を真っ青に染めていく。

「五体満足で帰りたいなら質問に素直に答えておけ。でないと、待ち合わせの彼女が一秒で逃げるような酷ぇ顔にしてやるぞ」

 と、鼻ピアスはバールで空気を切る音を聞かせて、さらに脅しをかけてきた。

 しかし、この態度を見ると、到底穏やかに事は済まないのは目に見えている。白状したところで、遠慮なく頭蓋骨を砕かれ、死体を念入りに焼かれ、どこかの山に散骨される末路といったところか。生憎、ハヤブサにそんな死後の願望はない。

「さて改めて聞こう。貴様、何者だ?」

「見ての通り、ちょっとお節介な普通の若者さ」

「お前、いい度胸してるな。鼻っ柱を砕いてやらんとわからないか?」

 お気に召さない返答だったようで、鼻ピアスはバールをハヤブサの頭に近づけた。そのままの角度だと、鼻をへし折るというよりバールで引き千切るような体勢なのだが。

 イライラしている彼を前に、ハヤブサは首を横に振りながら、不敵に微笑んで見せた。

「お兄さん、悪いけど俺、そんな悪趣味なピアスを鼻に突っ込む予定はないんだ」

 手足を拘束され、完全に無防備な状況での挑発は、鼻ピアスの怒りを煽るには丁度良かったようだ。頭に血が登った彼は、怒りで火照った身体の排熱をするかのように、深く溜息をついた。

「なるほど、鼻だけじゃ足りねぇ。頭半分を潰されないと、わかんねぇらしいな!」

 鼻ピアスは、大きくバールを振りかぶり、ハヤブサへと叩き落とした。

 しかしその一撃は、殴られようとしていた当人によって、両手で受け止められた。

「優しいねお兄さん。それじゃ次は俺の番だ」

 力づくでバールを引き抜いて奪い取ったハヤブサは、逆に驚いて硬直する鼻ピアスの側頭部を力一杯殴り倒した。

 もう一人が気づく前に、ハヤブサはベルトから仕込みナイフを取り出す。それで素早く足の拘束も解こうとするうち、もう一人の悪漢が異変に気づいた。

 銃を構えた悪漢に、ハヤブサはそれより前に持っていたバールを投げつける。

 悪漢は避けきれず、目元にバールをもろに受けた。

 大きくよろける間に、拘束を解いたハヤブサが悪漢に飛びつき、バールの柄で相手の首を押さえつけた。

 やがて相手の四肢が完全に脱力したのを見て、彼は深く息を吐いた。

「汚い返り血は、最小限で済んだか。この服、まだ汚したくないからな」

 手についた埃を払いつつ、次にハヤブサが行ったのは敵の持ち物を探ることだった。そして彼は間もなく携帯とトランシーバーを見つけて、うんざりしたように座り込んだ。

 近いうちに、定期連絡が入るかもしれない。そうなったら普通に逃げようとしても逃げ切れないかもしれない。

 そんな彼をずっと眺めていたヒバカリは、女に抱き起こされながら、警戒心を隠そうともせず睨み付けていた。

「……お前には聞きたいことがありすぎて、何から聞いたらいいかわからない」

「そこに転がってる敷物のなり損ないみたいになりたくないなら、質疑応答はなしにしようぜ」

 ハヤブサは足で蹴り上げて取ったバールを突きつけ、物騒な発言と噛み合わないおどけた顔で笑った。

「自信があるんだな。自分が転がることになるとは思わないのか?」

「仮に俺が撃ち殺されても、アンタを地獄への道連れに足を潰すことはできるさ。こんな所で知らない奴と無理心中なんて、ゴメンだろ?」

 そう言って、バールをゴルフクラブに見立ててスイングすると、質問した側は息を吐いて黙り込んだ。

「……う、ん、あれ、ここは?」

「気づいたか、シアレ」

 作業机の上で意識を失っていた少女、シアレは目を擦りながら起き上がる。ぐるりと周囲を見渡してから、バールで遊んでいるハヤブサの姿に気づいた。

「あれ、バードウォッチの、お兄さん?」

 寝ぼけ眼な少女に指差された彼は、愛想のいい笑顔に切り替える。

「そう、何を隠そう俺は、しがない通りすがりのバードウォッチャー」

 当然、彼が自称した肩書きを真に受ける者は、シアレを除いて他はいなかった。

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