第3話 初回

「着きました」

「どこにいますか」

「入り口を入って右側、フロント入り口の目の前に止めました」

 出会い系のアプリや、Twitterで待ち合わせをして、この段階で実はただの冷やかしのいたずら、すっぽかし、それは十分にあり得ることである。けれども、俺と彼女のダイレクトメールは滞らなかった。

「向かいます、全身黒い服です」

このメッセージの後、車のドアが閉まる音がホテルの駐車場に響いた。俺もビニール袋に無造作に入れたローターと財布、スマホを慌ててまとめて持ち、車から降りた。いや、降りたか降りないかのうちに、彼女が俺の車の前、ホテルの入り口に姿を現した。

 駐車場は屋根に覆われていた。灰色を基調としたモノトーンの建物だった。暑さの感じ

られない夏の曇り空、駐車場と外界を遮る塀の隙間から差し込む光は、ホテル内のオレンジ色の照明よりも弱々しく感じられた。

 肩を出した黒いトップスに黒い膝丈のスカート、黒いハンドバック1つ、顎の少し下まで伸びた黒い髪。太ってはいないけれども、痩せてもいない。はっと目を引く美人と言うわけではないけれども、整った目鼻立ち。こんな時、誰しもが浮かべる、恥ずかしさと気まずさ、そして緊張したはにかんだ笑みを浮かべて俺の車からちょうど10歩の距離にうろたえるように立ち止まった。

 彼女は後に彼女の結婚式当日の写真を見せてくれたことがある。2枚。純白のウェディングドレスを着た彼女は、とても、綺麗だった。1枚は、ブライズルームで、ウェディングドレスを着たばかりだったのだろうか、おどけた表情でちょっと体を斜め前に傾けて空を飛ぶように両手を広げていた。ふざけてはいるものの、屈託のない笑顔だった。まるで人生最良の日、だとでも言うように。ああ!それは比喩ではなく本当に彼女にとって最良の日だったのかもしれない。それまでの彼女の年月を振り返れば、そんな笑顔になれたのは幸運だったとしか言いようがない。

 もう1枚は、式場の緩やかにカーブを描いた階段の途中で、隣にいる花婿を穏やかな表情で見上げているバックショット。細っそりとした二の腕。レースの白い手袋に白いブーケを無造作に持って。

 その写真を見せた彼女は俺に、

「私は今見ると化粧が濃すぎて恥ずかしい」と言った。俺は、とても幸せそうだよ、と返した。彼女は「今も幸せだったら良かったのになぁ」と悲しい返事をした。

 その写真の撮られた日からおよそ8年後、写真の笑顔とは程遠い笑い顔と、それなりに崩れたスタイルで彼女は俺の前に立っていた。見た目よりも何倍も何倍も惨めな気持ちで。

 そのときの俺はそんなことは知らない。

 俺は彼女と同じ表情を浮かべて近づいた。

「…えー」

「ああ…あのTwitterの、」

 2人は目と首を動かして周りに他に誰かいないか確かめるようにしながら同じようにかすれた声でつぶやくように話した。周りには誰もいなかった。俺が待ち合わせをした相手はこの黒い服を着た彼女で、彼女が待ち合わせをした相手は俺だった。

「いいですか?」

「はい、えーっとあがりましょうか?」

「はい」

 ぎこちなく階段を上ってホテルの自動ドアをと通り抜けた。

 俺はそのホテルに俺は初めて来たわけではなかったが、緊張と不安で不慣れな足取りと不案内な手つきで、部屋を選ぼうとした。タッチパネルがメンバーズカードはありますか?と俺に聞いてきた。俺は、彼女に、「メンバーズカード持ってる?」と聞いた。彼女はちょっとびっくりした表情でそれでもまだはにかんだ笑顔のまま首を横に振った。部屋を選ぶ際、4、5段階ぐらいあるグレードの中から、俺は、下から2番目の料金の部屋を選んだ。彼女に、この部屋で良いですか?と聞いた。彼女が断るはずもなかった。

 エレベーターの中では何も話せなかった。部屋に入って、俺は袋の中からローターを取り出し、彼女に見せた。

「よく使うんですか?」

「いえ、これは、何年か前に使っていたもので、職場の引き出しに封印してあったものなんですよ」

「そうなんですね」

 ベッドの脇のソファーに座りながら、ここでもまたぎこちなく話をした。冷蔵庫から無料のペットボトルの水を取り出して飲んだ。

 お互い結婚していること、俺が会社員であること、表面上の個人情報の特定につながらないような自己紹介を続けた。

 彼女はTwitter上で自分がとても欲求不満であると訴えていた。この部屋に初対面の俺と2人で入ることに罪の意識を感じているかどうか俺にはわからなかった。

「初めてなんですよ」彼女は言った。彼女は結婚後、ネットを使って男と会うのは初めてだと言った。しかし、そこから、彼女は俺の驚くようなことを話し始めた。

「女性用風俗は使ったことがありますけどね」

「女性用風俗?ほんとにあるの?」

「はい。わざわざ名古屋まで行って」

 それまでぎこちなかった彼女が、その話をする時少しリラックスしたように見えた。ネットで検索して予約をしたこと、おおまかな料金を聞いた。本番、つまりセックスは禁止であることも。

「挿れられちゃいましたけどね」その時の彼女は、軽く笑ったかのように見えた。もし結婚式当日の笑顔と比べることができていたのならば、その笑顔の中に何年も積み重ねられた悲しみと屈辱と自嘲が詰め込まれていることにその時の俺でも気づいただろう。

 それから2人は一緒にシャワーを浴びた。

ただ、俺はこの時2人は別々にシャワーを浴びたと思っていた。なぜなら、この後2人がホテルに入室後最初に2人でシャワーを浴びるのは5カ月後からだ。明るいところで裸体を見られるのを彼女は嫌がった。後日、彼女から、この時は2人同時にシャワーを浴びたと主張されて、ようやく思い出したのだ。

 そして2人は、ベッドに上る。






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くずの話 くずofくず @tobira11

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