君に送る、ただ一つの物語

アオピーナ

『想い人に捧げる黒歴史』


 見渡す景色の全てが色褪せて見えた、モノクロの日々。

 彼女はそんな僕の日常に、鮮やかな彩りを灯してくれた──。



 神久保皐月は、僕が中学二年生の頃に出会った同い年の少女だ。

 その日は珍しく、僕の体調が優れていた方だったので、久しぶりに登校した。

 しかし、教室の扉を開けて向けられたのは、祝福の眼差しではなく異端なものを見るかのような好奇の目だった。


 僕は、その『目』が嫌いだ。

 どうして、少しばかり皆と比べて身体が弱いからというだけの理由で、同じ生徒として見てもらえないのか。

 僕は拒絶めいた目線の嵐を掻い潜り、自席に着いた。そこで、ふと隣に目を向けると、あっという間に意識が釘付けになった。


 頬杖をつきながら本を読む少女。

 切れ長な瞳は一定のペースで活字を追い、小さな唇は真一文字に結ばれて静寂を守っている。  

 窓から吹きつける隙間風にセミロングが揺られ、彼女は呼応するようにしてそれを耳の上に掻き上げた。

 その様は、窓に映る紅葉の彩りと重なって、一枚の絵画のように美しく見えた。


「あの……」


 僕は少女に、半ば無意識に声をかけた。

 ページをめくろうとした彼女の手が止まり、凛とした黒瞳がこちらを見上げる。


「えっと、君は……」


「あ、ごめん! 僕は……」

 

 喉奥に何かが詰まるような感覚。

 無計画に行動したツケは、緊張と焦燥として回ってきた。

 躓いた。そう思った。しかし──


「私は神久保皐月。……話しかけてきてくれたからには、私も一応君に聞いてみるね」

 

 つい先程まで沈黙していた唇が急に、油を刺したチェーンの如く動き始めた。 


「君、本は好き?」

 

 迷うこと無く、僕は答えた。


「全く読まないから、おすすめを教えて……下さい」

 

 その日から、彼女と過ごす暖かな日々が始まった。



 読書家である彼女は、月に本を二十冊程読むらしい。僕からしてみれば次元が違う話なので、まずはオススメの本を読むことにした。

 学校に毎日行けるわけではないので、基本的な会話はラインでやり取りをした。

 ただ、彼女との間には、独特のルールがあった。

 それは──


『──僕はその話を見て、聞いて、この胸の高鳴りを覚えた……だから、どうかその叫びを、君にも聞いて欲しい』  

 

 自分で打ったそのテキストを見直して、瞬く間に頬が朱く染まっていくのを感じた。

 どこのポエマーだ。いや、ポエマーにすらなっていない。これではただの、盛大に音漏れしているイヤホンを着けて電車に乗るような迷惑なノイズ野郎だ。


『君の胸の高鳴り、しかと受け取ったよ』

 

 ゾッとした。悶えている最中に送ってしまったらしい。そして、瞬時に彼女からの返事が返ってきたらしい。


『殺人を止められない恋人に魅せられて、自分も殺人を好むようになってしまった少年の末路……それに脱帽した君の気持ちが、鮮明に伝わったよ』


「ああああああっ!」

 

 これが、黒歴史と言うのだろう。

 机の上に置かれた『殺人少女』という本を、思いきりぶん投げそうになった。

 アオピーナという変な名前だったから、尚更そう思った。

 

 ──ルールというのは、即ち、『読書感想文』だ。

 彼女からオススメされた本を読んでからでないと、メッセージを送ってはいけない。さらに、その文言は必ず、感想の旨でなければならないというもの。


 僕は、自宅学習の合間に本を読んでは感想という名の黒歴史を送った。どうしてそんな恥ずかしい思いをしてまで、彼女とやり取りがしたかったのかは分からない。

 ただ、僕は純粋に嬉しかったのかもしれない。友達と呼べる人が出来たこと、そして共通の話題で笑い合える存在が出来たことが──。

 


『彼女のように、僕の心も散華した。激情が瞬いて咲き誇ったコスモスの花に魅せられて、僕の奥底に沈む花の芽も徐々に花開いていくのだろう……』

 

 悪化していた。臭くなっていた。

 今回は、『散華の果てに返り咲く』という作品を読み、その感想を送った。因みに、またアオピーナだった。

 彼女は、基本的に一般文芸を好んで読んでいるから、このようなライトノベル……しかも、女性だけしか出ない百合的なファンタジーも読んでいるとは思わなかった。


『私も……君と同じく、盛大に散華したよ。そして、沈黙していた心の蕾はやがて芽を息吹かせた。そろそろ決意しろってね』

 

 恐らく、彼女も若干の厨二病を患っているのだろう。

 しかし、僕の意識は最後の文面に注目していた。

 そろそろ決意──一体、何を指しているのだろう。戯言と言われればそれまでだが、彼女にしては珍しく、主語が無い。

 だから、気になった。そして、思い切って聞いてみることにした。

 初めて、僕は感想を述べずにメッセージを送ったのだった。



 クリスマスが近くなっていた。

 彼女と──神久保皐月と出会った時にあった紅葉の色は、白銀の情景に塗り潰されて消えていた。

 僕は白い息を吐きながら、重い身体を引きずって学校に足を運んだ。彼女と出会って以来、行けていなかったあの教室。

 信じたかった。またあの時のように、澄ました顔で、静かに文字を追いかけていると


 ──そう、信じたかった。


「──神久保さんが転校したって、どういうことですか⁉︎」

 

 電話の向こうで、担任教師はバツが悪そうな声で「聞いてないの?」と問うた。

 二学期の初め辺りから、保護者も一緒によく相談していたらしい。なんでも、父親の仕事の都合で海外に移住してしまうらしい。

 僕は、破裂しそうな程に轟く心臓の鼓動を抑え切れなかった。

 

 教室には、彼女の足跡は残されていなかった。

 係の表にも、ロッカーにも、名前はもう無い。

 途方に暮れた思いで帰路につき、家に帰るとそのまま部屋に戻り、スマートフォンを手に取ってラインを開く。

 

 通知は、無い。

 あのメッセージを送って以降、神久保皐月からのメッセージは途絶えていた。

 恐らく、地雷を踏んでしまったのだろう。そして、もしあれが、彼女に移住の決断を強いるものになっていたのだとしたら──

 

「バカだ、僕は……」

 

 そう嘆いて、思わずスマートフォンを投げようとした時。


『私は、ちゃんとスタートラインに立った。次は、君の番だよ』

 

 件の彼女から、メッセージが届いたのだった。



 無我夢中で駆け抜けた。

 先の見えない暗闇を、ずっと遠くに差す一筋の光を目指して、ガムシャラに走った。

 あのメッセージを送ったあとのやり取りが蘇る。

 

『それは、何の決意?』


『夢を追うこと……でもその前に、父さんが歩んだ道筋を辿る決意、かな』


『夢、か……。その内容は……教えては、くれないよな』


『君には、君だけには、私がスタート地点に立って、そこで初めて私を称賛して欲しい。また、あの臭い感想でね』


『やっぱ臭かったか……まあ、でも、応援してる』


『……うん、ありがとう』


『頑張れよ』


 あのやり取り以降、彼女は恐らく、自分の道を突き進んでいったのだろう。

 だったら僕も、必ずそこへ辿り着いてみせる──。


 そして、月日は流れた。



『──主演はあの超大御所ハリウッドスター! 勿論、彼以外も超豪華キャスト! しかし、我々としては、彼女の存在にも非常に注目したいところです! 何たって、あのカリスマ脚本家の神久保伸介の娘であり、その努力量と才能は数々の同業者を押し除ける程ですからね!』


『そうですねぇ〜。あ、そういえばその作品、確か日本の作家が書いた本が原作なんですよね? 確か……名前、何て言ったかなぁ……まあでも、脚本の彼女と同じく若手ってことは確かです。これは期待値がさらに跳ね上がりますなぁ』

 

 不意に、テレビの画面には二人の男女の姿とコメントが映し出された。

 若い女性の方が、言った。


『荒削りで臭い文体は、昔から変わっておりません。しかし、彼の情熱には驚かされてばかりです。何たって、彼は──』

 

 そこで、テレビの画面が急に消えた。

 いや、消した。僕が無理やり消したのだ。


「あー、どうして消しちゃうかなぁ。折角いいこと言おうとしてたのに」

 

 隣に座る彼女がジト目でこちらを見て言った。僕は海外映画の登場人物の如く肩を竦め、言い返す。


「わざわざ黒歴史をご本人の前で突きつけることは無いだろう」


「でも、私はときめいた」

 

 柔和な笑みを浮かべてそう言った彼女に、僕は照れ臭くて目を逸らす。

 その隙に、再びテレビがつけられた。

 そして、『「拝啓〜終末の果てで待つ私へ〜」近日公開!」との宣伝が大々的に流れていた。加えて、『この物語は、一人の男がとある想い人に向けて書いた黒歴史から始まった……』とも。


「世間的にも黒歴史と認められたあの小説が、今はこうして皐月との合作になってるなんて驚きだよな」


「あの、濃密なラブレターが、ね」


「う、うるさい……!」

 

 そうして、ある種お決まりなやり取りをした後、僕と皐月は酒が注がれたグラスを持って、


「君の脚本に」


「君の物語に」

 

 声を揃えて言った。


「「乾杯!」」

 

 窓の外で揺れる紅葉が、僕達を静かに祝福していた──。

 

 

 

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