その夜は<つき>がなかった

さば・ノーブ

   その夜は<つき>がなかった

 ・・・その夜の事だった・・・



 彼は死んだ



いや、正確には死んだとは言えないかもしれない。


肉体が滅んだ訳でも、脳が停まった訳でもない。


唯、<世間が彼を抹殺した> だけの事だった。



彼の名は 結城 小太郎 と言った。


焦燥感のある独り住まいのサラリーマン。

歳はまだ働き盛りになる年代の、しがない男。


どこか呆然としたこの男が何故<死んだ>と呼ばれるのか。


かつて同期入社した者達が言う。


「ああ、小太郎君ね。

 彼はもう<お終い>だよ。

 どこにも行く宛てなんてないだろうさ。

 

 えっ?!

 家の事じゃないさ、会社の中の話さ。

 あいつはドジを踏んじゃったのさ、どうしようもない位の。

 詳しい事はわからないけどね。

 だから近寄らない方がいいぜ?

 巻き添えを喰らうのが嫌なら・・・ね!」


小太郎は会社の中で孤立していたようだ。

同期の者達からも敬遠されるくらいの。


<でも、まだ会社に居るんですよね?>


そう訊いてみた。


「居るのか居ないのか。

 それさえも誰も知らないんだ。

 ううん違うね、経理の者にさえも・・・って。

 そう付け加えておくよ。それで意味が解るだろ?」


見知っていた者が教えてくれた。


ー 経理部にさえも判らない?

  それって・・・首になったって事?

  自主退社させられた?


  どちらにしても、もうこの会社には<存在しない>って事なのかな?


給料が支払われていない。

出社しているのなら当然支払われなければならない。

それがどれだけ会社側に儲けを与えられなくとも。


だから彼は<死んでいる>のだ。


結城 小太郎という人物は狭い意味で抹殺されてしまった。


この会社の中には、彼は存在していない事になっている。

だけども、調べれば解る。

タイムカードに彼の名を見つける事が出来る。

それはまだ彼が<此処に>出社している事を意味する。


なのに・・・何故?


給料も支払われない。

存在も受け入れられていない。


周りの人達は彼の存在を否定する。


どこの部署で何をしている?


経理の者にもう一度訊ねた時に漏れ聞いた。


「小太郎君はなんでも不倫相手に貢がせていたらしいの。

 その相手が上の人の奥さんだったって・・・噂よ」


過去形で話してくれたOLにお礼を言って、その場から逃げる様に離れた。


教わった話を纏めると。


結城 小太郎 と呼ばれたサラリーマンは死んではいなかった。

命は絶たれてはいないようだ。

だが、上司の奥方と深い仲になって金をせびるようになった。

それが旦那にバレた・・・

後はお決まりの仕打ちが待っていたのだろう。

だが、何故か小太郎と言う男は会社を辞めてはいなかった。

経理部から給料も支払われないのに。

どうやって暮らしを立てているのか?

苛めに耐えて生きてゆくつもりなのだろうか?


興味を惹かれた。


社会的に抹殺された男が、どんな人物なのか・・・と。



彼が退社して来るのを数日掛けて待った。


漸く彼らしい人物とアポイントを執れたのはあの日の夜の事だった。


みすぼらしいネクタイを締めた彼を呑み屋に誘ったのだが、あっさりと断られた。


夜も盛りの宵の刻。

何が悲しくて男を伴い公園のベンチに座らされねばならないのか。


小太郎と呼ばれた男の気が知れなかった。


「僕はもう死んだも同然ですよ。

 社会的にも肉体的にも・・・ね」


俯いて話す男が呟いた。

自暴自棄的な発言を。


「どうしてなのですか?

 なぜ君はそうまでして会社を辞めないのです?

 調べたのですがあなたは会社側から給料を貰ってもいないし、

 周りから存在自体を認知されてもいない」


薄く笑った彼が答えた、本当の事を。


「話しておかないと。

 僕は死んだのだから・・・

 あの夜、僕は死んだのだから・・・」


「あの夜?」


すかさず訊いてみた。


「まあ、聞いてください。

 僕は会社の上司に頼まれたのです、ある女を抱いてくれと。

 それが不倫だとは知らなかった。

 だけど後から知ったのです、頼んで来た上司の罠に嵌められたのだと。

 その上司は敵対する派閥の同僚を蹴落とす為に、僕を利用したのだと」


そこまで話した小太郎と呼ばれる男が、カバンから携帯端末を取り出して。


「ここに入っている画像が出回ったのは、僕が消し去られる前。

 上司の罠に嵌められたと気が付いた時にはもう、僕の居場所はなくなりました。

 会社を辞めようとした事は何度もあります。

 しかし、その度に口封じするぞと脅され、

 終いにはその上司の下で生きる道しか残されていなかったのです」


ぽつぽつと話す、まるで死人のようなサラリーマン小太郎。


話は大体解った。

大手の会社によくある内部権力闘争というやつか。

醜い派閥争いにこの男は巻き込まれた。

そして口封じとまではいかないまでも、飼い殺されてしまっているというのだ。

しかし、給料は?

どうやって生きているんだ?


「話の筋は解りましたが。

 あなたはどうやって日々を暮らしているのですか?

 給料はいったい誰が?」


払っているのかと訊こうとすると。


「僕の給料はもう一生分支払われたのです。

 僕に先払いで支払われた事になっているのです。

 社長命令で・・・今の社長がそう命じたんです」


それでは労働基本法に抵触するのでは?


「僕は死んだのですよ、この会社の中では。

 幽霊社員に支払われる給料はないでしょう?

 僕は今、死んだ事になっているらしいのですからね」


それでは人権は?

基本的人権は・・・ないのですか?


「だから言っているでしょう?

 幽霊に人権なんてないのですよ。

 僕は会社の中に居るだけの幽霊なのですから」


もう、小太郎と呼ばれたサラリーマンは死んだというのですか?


「ええ。

 確かに結城 小太郎とか呼ばれた男は会社の中で死んでいます。

 今にして思えば・・・あの夜が恨めしい。

 あの闇夜が恨めしい。

 真っ暗な中で抱いたのが前の専務の奥方だったなんて・・・

 なんてツキが無かったんでしょう?」


一言が声にならなかった。




黙って話を聞き終えてから・・・


彼はそのままどこかへ帰って行った。


その後ろ姿を見送りながら考えたものだ。


「彼は自殺したのだな。

 抹殺されたというより、小太郎と言う人物は自ら墓穴を踏んだ。

 

 なんだ・・・解れば簡単な事じゃないか。

 これじゃあ、三面記事にもなりゃーしない」


もっと人の魂を揺さぶるような事を書きたかったのに残念過ぎた。


「結論としてはこうだ。

 結城 小太郎 というサラリーマンは確かに存在した。

 だが、彼自身の手に因って社会から抹殺された。

 それは自ら死を求めたに等しい事をやってしまったから・・・


 なるほど・・・権力には逆らえない社会の闇か・・・」


上司に命じられ、懐柔され・・・死を選ばされた。


いつの世にもいつの時代にも、良くある話だ。


「これじゃ、編集長に無駄足男って呼ばれちまうな」


見上げた夜空には月が出ていなかった。


「なんだよ、これじゃあ本当にツキが無いって言わされたみたいだ!」



人々が足繁く集まる繁華街に戻って、

呑みにでも行くかと踵を返した・・・


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