『直球勝負』

伊可乃万

第1話

 なぜ甲子園のサイレンは耳障りなほどに通る音なのに、自分の心には冷たく歪曲されて響き続けるのだろう。その答えが理解できたのは、長畑煉次朗が二十三歳を過ぎたある日の事だった。少なくとも、今マウンドでバッターを相手にしている野球少年の彼には、甲子園のサイレンなどどうでもよかった。




 伊賀西高等学校、対、朝霞学院高等学校。




 甲子園二日目に相対した両チームは、どちらも前評判はいまひとつだった。三度目の甲子園出場を果たした伊賀西は、一回戦を突破した記録が無い。一方、過去十回甲子園出場した朝霞学院は、過去四回目の出場時にベスト16に入って以降は二回戦進出が精一杯。埼玉に朝霞有りと言われたのも今は昔で、近年は古豪という冠に浸るチームだった。


 一回戦突破は不可能じゃない。


 抽選会が終わった後の長畑は、思わず両手で握りこぶしを作りながら席に戻った。スポーツ推薦で地元の東京から伊賀までやってきた長畑は、どうしても結果が欲しかった。


 甲子園出場という第一目標は、自らの腕力で達成させることができた。縦に大きく変化するドロップカーブと、時に140キロを超える直球は、県レベルの高校球児には攻略が難しい代物であった。


 俺が甲子園を本気で目指し、二年と三ヶ月の間、努力して磨き上げた伝家の宝刀だ。そうそう易々と打たれては困るんだよ。甲子園という晴れの舞台は、長畑をいつもよりも強気にさせていた。


 試合が始まってから一時間、五回終わって両チームとも無得点だった。


 伊賀西は内野安打のみ。朝霞学院は未だに無安打で四球による出塁もなし。ブルペン前で投球練習を行っている長畑はあまり意識していなかったが、球場で応援している伊賀西高校の応援団や、冷静に野球を観られる大人等は、密かにある予感を感じ、そして期待をはじめていた。






 今日の試合、もしかしたら高校野球史に残るかもしれない。






 ノーヒットノーラン。






 いや、完全試合。






 朝霞学院側のベンチでスコア表を付けるマネージャーの妹尾は、この状況を苦々しく思っていた。






 勝ちたい。




 私達だって結果が欲しい。妹尾は自分の隣で足組みをしている當間監督に力強い視線を送る。彼の左足が縦に小刻みに揺れていた。平常心を装っているが、内心かなり荒ぶっていることの現われだ。


 五回裏、朝霞学院の攻撃は二者セカンドゴロ、一人が三振を奪われた。




 その一人とは、四番打者の沢村である。長畑の投げるカーブを捕らえることができず、ファール球すら打てず、バットにボールを当てることすらできず、最後は直球で仕留められた。二回裏、最初の打席でも同じような内容で三振を取られた。本日二度目の三振である。


 沢村はプロのスカウトも熱い視線を注ぐほどの強打者だ。埼玉県大会の本塁打数三十六本。リフトの強さと、鍛え上げられた股間部と強靭な体幹、スムーズな腰の回転から来るコンパクトなスイング。沢村にはホームランバッターとしての天性の資質があり、朝霞学院から二人目のプロ野球選手が誕生すると、地元朝霞市は既に沸いていた。しかし、そんな彼にも弱点があった。


 沢村は選球眼が甘い。ストライクゾーンから、外に流れるボール球を強引に打ちに行ってしまう悪癖も見受けられる。動体視力も、一般的な高校球児より多少優れている程度。まだまだ未完成の要素が多く、某球団は、必ず指名はするが一位ではないという評価を下していた。その話は、沢山の人を介して本人の耳にも届いていた。


 沢村が甲子園で求めるもの。それは結果である。


 ホームランを打つ。自らの力で、母校の過去の記録を塗り替える。一回戦、彼は少し神経質になっていた。そんな沢村の心の凹凸を、長畑は見逃さなかった。




 こいつだけには絶対に打たせない。


 長畑は集中していた。沢村の研究にも余念がなかった。


 彼の悪癖を巧妙に利用し、長畑は、この日沢村に既に二度目の屈辱を味あわせることに成功していた。 


 伊賀西の打線は決して頼もしいとは言えない。


 長畑煉次朗という投手ありきで甲子園にやってきた。控えの投手も薄い。県大会でも、総得点は下から数えたほうが早いチームである。付け加えると、長畑はバッティングがあまり得意ではない。堅実な守備と長畑の投手としての能力。そして、エースを導く捕手、宮城のキャンプテンシー。甲子園に進出するチームとしての評価は低いが、聖地に立つ資格を得るだけの力はある。しかし、世間的には、投手の長畑が高校野球を見慣れた者達に若干注目されている程度だ。


 この試合は投手戦になる。


 當間は既に控え投手の仕上がりを気にかけていた。


 朝霞学院には、長畑のような力のある投手がいない。伊賀西とは対照的に、打ち勝つ野球が信条のチームである。


 もしうちに長畑が来てくれていれば。一瞬考えた後に、當間は苦笑した。


 必要ない。


 ひたすらに打って勝つ。


 打ち勝つ野球こそ、朝霞学院の真骨頂なのだ。


 だがしかし、初戦の今日は自慢の打線が長畑の心を踏み潰せずにいる。當間の心の中は荒れ模様の気配だったが、隣にいる女子マネージャーには、いつも通りの好々爺を演じていた。


 六回裏、朝霞学院の九番打者が試合を動かした。


 左翼の上野は長畑の外に逃げるボールを見分け、執拗に粘り、四球をもぎ取った。


 その瞬間、球場から多くのため息が聞こえたのは言うまでもない。




 完全試合は夢と消えた。


 だが長畑は、そんなことは全く意識していない。


 とにかく勝つ。


 ただその気持ちで心を満たすので精一杯だった。


 続く一番の高野も四球で出塁した。


 二死一・二塁。


 六回にきて、長畑の制球に若干の乱れが生じはじめていた。彼の肩が少し縦に動いているのを、當間は見逃さなかった。そして右口角だけを上げてみせた。マネージャーとして、真剣にスコアを取る妹尾も、気持ちが上向きになってきていた。


 いける。お願い、上手く沢村君までつないで。


 もし人間が、一生に一度だけ、精一杯の本気を必ず出せたとしよう。


 マウンドで右腕を鞭のようにしならせる長畑は、今、本気なのだろうか。


 少なくとも、本人は全力だった。


 長畑を見守るナインも、観客も、誰も彼が余力を残しているなどと思うはずがない。


 だが朝霞学院の二番糸杉は、バッターボックスに入った瞬間、得たいの知れない圧迫感を覚えた。本日三打席目、長畑の呼吸は読めてきていた。糸杉は、心の表層でそう思い込んでいたに過ぎなかった。


 140キロを超えるストレートが三球。全てインコースに入ってきた。糸杉は反応出来なかった。額から滴る汗は、眉を貫き、一瞬だけ瞳を覆いつくした。


 こいつは・・・、まだ・・・・。


 六回裏が終わり、長畑は大きく息を吐き、この試合、初めて天を見上げた。そして小走りで、コーチボックスの先の仲間達のところへ戻っていった。


 朝霞学院は、長畑相手に、七回裏も四球で一人ランナーを出せたものの、沢村を三振に討ち取り、五番、六番も難なく仕留められてしまった。その一方で、長畑の活躍に、伊賀西打線は答えることが出来ない。


 七回が終わってヒット数三本。決して良い投手とは言えない相手を打ち崩せずにいた。


 當間は既に継投を視野に入れていた。


 八回から投手を変え、相手の打者達の頭をリセットさせる狙いだった。


 効果はてきめんだった。




 打ち崩せないとはいえ、伊賀西の打者の中には相手投手のタイミングを掴みかけている者もいた。


 朝霞学院は投手が弱い、という前評判は的確すぎた。


 だが、先発も控えも、ほぼ能力に差が無く、右・左と豊富な投手陣を誇るチームである。


 妹尾はスコアボードを見返しつつ、投球練習をしている長畑を一瞥した。


 あの人は沢村君を完全に抑えてる。彼がここまで抑え込まれた事は、県大会でも、遠征ですら一度も無かった。切れ長の瞳をした可憐な少女は、敵方である長畑を、この日、初めて素直に賞賛した。彼女だけではなく、他の朝霞学院のナインも、応援団も同様であった。中立だったはずの観客の中には、長畑に声援を送る者も現れはじめている。




 テレビ中継の解説も、長畑の名を口にすることが多くなってきていた。


 あと二回、もし朝霞学院が点を取れず、長畑からヒットすら奪えなかった場合、ノーヒットノーランが成立する。長畑煉次朗が過ごしている夏の甲子園で最後にノーヒットノーランを達成した投手は、現在メジャーにいる松坂大輔が最後である。


 自分の名前が高校野球史の記録に残るかもしれない。


 ここまでひたすらに、夢中で投げてきた長畑に、伊賀西の監督が笑顔でこう声をかけた。


 ノーヒットノーラン狙えよ、長畑。


 言われた瞬間、彼の瞳はかすかな濁りをみせたが、すぐに元に戻った。


 何も考えるな。まだ勝ってない。俺は、まだ勝ってないんだ。


 八回表。試合が動いた。


 交代したばかりの朝霞学院の二番手の投手が被弾した。観客は沸き、実況も歓喜の声を上げる。だが長畑の表情は暗い。


 帰ってきた英雄の腰を一回叩くと、直ぐに投球練習を再開した。


 まだ勝ってない。俺は、まだ。


 當間は冷静そうな表情を崩さなかった。心の中はすでに大炎上しており、周りの者もそれに気がついていたが、顔には出さないよう苦心していた。


 まだだ。一点差なら、まだいける。長畑の体力は既に峠を越えている。揺さぶれ、奴の心を揺さぶるんだ。


 八回の裏、當間の心は落ち着いていた。


 事前に、當間は七番の杉田、そして後の二人にシンプルな指示を出していた。


 とにかく粘れ、と。


 朝霞学院の三年生、遊撃手の杉田は、バッティングは決して得意ではない。だがチーム一選球眼が良く、そしてストライク性の球をファールに持っていくのも上手かった。後続の二人も、ファールにもっていく技術に長けている。當間は、あえて下位打線に選球眼と粘りのある選手を置いていたのだ。


  八回、朝霞学院は三者凡退に倒れたが、打順が下位打線であることと、九回の裏に、打順が一番から始まる。長畑は八回だけで二十球、全力で投球している。自分の指示どおりに長畑を消耗させることができたのが収穫であり、そこに當間は希望を見出そうとしていた。


 勝利は己の手で手繰り寄せる物だ。


 當間は自分にそう言い聞かせ、伊賀西の攻撃を観戦客気分で楽しんでいた。


 九回表、伊賀西の攻撃に見るべきところなし。當間は、この試合、初めて明確な笑みを見せた。


 悪いね。この試合、次に進むのは朝霞だよ、長畑君。




 還暦を越えた老獪な當間の目尻の皺が、突然深くなる。長畑はそんなことに気づくはずもない。相手チームの監督も戦術も知らず、九回裏の投手板の前に立っているのだから。


 朝霞学院の一番は高野。本日四打席目。彼もまた、選球眼が良く、この日、長畑から四球を一つ奪っていた。


 長畑は、彼を沢村の次に警戒していた。


 ここまできたら、もう自分を信じるだけだ。


 直球勝負。渾身の力で投げ抜こう。


 長畑は、九回裏にして、ますます強気になっていた。


 宮城のサインに何度も首を振る。






 長畑、気持ちはわかるが今まで通りでいい。




 外に逃げる球だ。


 頼む、宮城。俺の、俺のストレートを信じてくれ。






 鳴り物で、球音も、ミットに収まるボールの音も聞こえないマウンド。


 長畑と宮城の間には不可解な風が一瞬流れ、マウンドは声援に飲まれた。


 初球。




 長畑が内角高めのストレートで攻めてくるのを、高野は予測していなかった。それでも彼は肘をたたみ、上手くバットの芯で白球を捕らえることに成功した。決してバッティングが得意ではない高野にしては、出来すぎた内容だった。






 硬球は、一・二塁間を抜け、ヒットとなる。






 ヒットに、なってしまった。






 観客のため息交じりの声と、朝霞学院のむせ返るほどに熱い声援に、長畑の丸い心の表面が少しだけ窪んだ。眉は険しくなり、視線は投手板から離れなくなってしまった。


 すぐに宮城が駆け寄り激を飛ばしたが、彼の頭には入っていなかった。


 二番の糸杉がバッターボックスに入る頃、當間は動いた。


 ネクストバッターサークルにいる三番の佐藤に優しく声をかけた。






 勝とうな。この試合、絶対に、勝とうな。






 二番の糸杉が、明確なバントの構えをみせる。長畑のフィールディングが遅れ、僅差で内野安打が成立した。糸杉は、追い詰められた鼠のように素早かった。堂間は長畑があわててボール処理する様を見て微笑した。


 ノーアウト、一・二塁。


 伊賀西の内野陣が長畑の下に集まる。今の長畑にとっては針のむしろ状態だった。周りが集まってくるということは、この状況が深刻であると言っているようなものだからだ。 


 當間は、隣の妹尾に、この日初めて笑顔で勝利の予感を囁いた。妹尾も笑顔で返したが、内心は少し複雑な気持ちになりはじめていた。彼女は、一人でここまで投げぬいた長畑を、すでに英雄と同様に見はじめていたからだ。


 彼のような投手がうちにいれば、私達はもっともっと上にいけるはずなのに。


 たとえ勝っても負けても、今日のこの試合を、私は一生忘れないだろう。


 少女の美しい口元から、朝霞学院陣営にとっておよそ愉快になれない一言が空気と供に漏れでたが、誰も彼女の呟きを耳にしなかった。


 言われた当人の長畑は、牽制球を投げつつ、三番打者に苦戦していた。




 フォア・ボール。




 九回裏。




 ワンアウト、満塁。




 そして対するのは、四番、沢村。


 伊賀西にとって最悪の状況になったが、ここで長畑の心は再び燃え上がる。


 ここでこいつを四度黙らせれば、流れは必ずこっちに傾く。




 やってやる。




 俺たちは、勝つ。


 高校球児には見えないほどに端正の取れた容姿をした強打者が、バッターボックスから長畑を見据えた。


 長畑と沢村。二人の体から溢れでる気は、互いに惹かれあうように美しく絡まり、竜巻を起こし、そして音を立てて弾けた。


 だが當間には、二人の最後の戦いよりも、勝利の方が最優先事項だった。すでにイチかバチかの、ギャンブルに打って出る覚悟を固めていた。


 まだ負けていない。落ち着いて、勝つんだ。勝てる。勝てる・・・のか。




 勝てる・・・よな。




 なぜか長畑は、この重要な局面で、心を勝利の言葉で満たしきれずにいた。


 初球のゆるいカーブは、沢村の興味をそそるものではなかった。


 伊賀西陣営の願いは一つ。


 併殺で終了。


 長畑の表情に不安を感じた宮城が彼に声をかけにいく。長畑の精悍な瞳は、再び輝きをました。相棒は安堵し、元の位置へと悠然と戻っていった。バッターボックスに立つ沢村とは視線をあわさない。エースの眼差しだけを、心の奥に納めておきたかったからだ。






 この回で、必ず勝って終わりにしてみせる。






 當間はその想いを形にすべく、ある作戦を沢村に伝えた。


 サインを見た瞬間、沢村の右手がバットから離れた。 






 スクイズ。






 平静を装いつつ、バットで円を描くそぶりをしつつ、沢村は、今一度横目でベンチを見た。やはりスクイズバントの指示である。


 四番打者である沢村に、スクイズバントをしろ、というベンチからの指示だった。勝利の確率をあげるために、次へ進むために、最も堅実な選択を取りたい。何より沢村を、選手達の甲子園を、こんな一回戦で無名に近い相手で終わらせるわけには絶対にいかない。監督の心からの思いが、主砲への侮辱ともとれる決断へと至らせた。


 沢村はいったんバッターボックスを離れた。気持ちはぐらついていた。


 甲子園のデビュー試合、これまで三打席三振。特筆すべき内容なし。




 今日の自分の成績を、沢村は一生忘れることはできないだろう。


 こんなにも、自分をやり込める男に出会ったのは初めてだ。


 一点差、犠牲フライでも同点になる場面。しかしそれさえも許さないという、非情なる指揮官の決断。


 長畑煉次朗。彼は、既に肩で息をしている。自分にも主砲としての意地がある。でも、意地でチームメイトに悔し涙を流させたくはない。


 勝負したい。 


 目の前の長畑を打ち負かして、改心の笑みを浮かべたい。四番としての仕事がしたい。しかし、それ以上にチームメイトの喜ぶ顔が見たい。


 手段は極力選びたい。


 だけど、勝ちたい。


 十七歳の少年の心が、壊れた振り子のように四方八方に揺れ動く。 


 勝負か、勝利か。


 二文字の言葉が、心の中で交互に入り乱れていた。決して長い間ではなかったが、沢村にとっては永遠にも等しい時間だった。


 チームのために、自分を捨てよう。




 合理的な思考の持ち主で、選手としての我が乏しい彼は、監督の指示に従い、全力で使命を全うするという判断を下した。沢村の凛々しい眉が、少しだけへの字に変わった。そして少年は、一瞬唇を強くかみしめた。


 アイツ、長畑の頭の中は、この窮地を乗り越えることで必死なはず。


 まさか自分が、四番の俺が、指示とはいえバントをしかけてくる確率を、どれだけ頭の中で考えているというのだろうか。


 伊賀西の監督は犠飛球狙いも視野に入れつつも、可能性を考慮し、内野に前進守備を指示。


 内野手が少しだけ前に出はじめた。


 宮城の彫りの深い顔が、この試合、初めて能面のように薄くなった。あらゆる状況が考えられる中でも、長畑の瞳には、一切の変化が無いからだ。


 宮城は、すでに最悪のケースを想定し、警戒していた。




 満塁。




 仮に四球を出しでもまだ同点。次と次の相手をきっちり抑えて延長戦に、望みをつなぎ、粘りきって勝つ。それも一つの作戦だ。


 宮城は長畑を凝視した。彼の体が縦に大きく揺れている。初めての甲子園、初めての大歓声、対戦相手は実績があり、およそ自分の常識からは計れない部分を秘めた強豪。長畑のスタミナの限界は既に超えている。その上この極限の状況下。控えの投手は一年生。ひよこ同然。外に逃げるボールを完璧に見極めるだけの選球眼は沢村にはまだ無い。だが満塁では長畑に遊び球を投げさせることはできない。相手の監督に吹き込まれて四球狙いに出るという可能性も充分に考えられるからだ。飛球は打たせない。バントをしてくることもありえるかもしれないが、奴は四番だ。果たして、どうする。


 迷いに迷った末の二球目、宮城は高めの変化球を長畑に要求した。マウンドに立つ、疲れ果てたエースがコクリとうなづく。


 長畑が投球セットに入った瞬間、沢村が動いた。バッターボックス真ん中よりの立ち位置から、前の方へと移動し、バントの構えを見せてきた。


 クロススタンス。


 マウンドに立つ長畑以外の伊賀西の選手達は、皆一様に恐怖を感じた。伊賀西が一点リードしている状況で、一打サヨナラ逆転になる場面で、四番打者にスクイズをさせるのか、この朝霞学院というチームは。




 妹尾は目線を膝元のスコア表に落とした。




 見たくなかった。




 いくら勝負とはいえ、純粋な心を持つ少女に耐えろ、むしろ喜べと言うには酷な瞬間が迫って来ていた。長畑は沢村を見据える。口元を緩ませた。それはバッターへの怒りを押し殺すような笑みだった。長畑は勝ち方に拘っている。だからこそ、バントの構えをみせる沢村に、彼は初めてイラついた。それでもチームのメンバーを泣かせるわけにはいかない。長畑は、勝利への気持ちを作り直し、少しの時間、同じマウンドに立つみんなの笑顔を心に浮かべた。しかしその直ぐ後には、正直な言葉が頭の中を支配していた。


 沢村とは、最後まで直球で勝負がしたかった。


 長畑は、全力で自慢の右腕をしならせる。


 それと同時に三塁のランナーが走る。


 沢村が跳ね返したボールは、長畑の前方に転がってきた。 


 長畑は、落ち着いていた。ボールを右手で掴んでからでは間に合わないと考え、グローブで白球をすくい取り、そのまま宮城に浮かせるように放り投げようと考えた。ボールは長畑のグローブにいとも容易く納まる。三塁手は、まだホームベースにはわずかに遠い。


 間に合う。


 長畑は確信した。


 しかしその瞬間、硬式球はグローブから零れ落ちてしまった。




 三塁ランナーがホームベースを踏みつけて歓喜する。


 長畑はあわてて右手でボールを掴み、宮城に投げた。






 試合は、終わった。






 長畑の投げた球は、宮城の足元をかすめ、勢いよく後方へ転がっていった。捕手がボールを追いかけている間に、二塁のランナーも戻ってきた。朝霞学院の応援団は興奮し、伊賀西の応援団は静まりかえる。実況は淡々と試合の終わりを告げ、勝者を称えるコメントを述べ始めた。


 長畑は左ひざをつき、その場で泣き崩れた。


 駆け寄ってきたチームメイトに起こされた後、ひたすら言葉にならない言葉で謝り続けた。宮城は泣きながら長畑の肩を抱きよせ、伊賀西のエースを称える言葉を繰り返し述べ、彼と供に整列した。


 試合終了後、泣きはらした目をした長畑は、マウンド端で沢村と妹尾にそれぞれ握手を求められ、それに応じた。妹尾は長畑の瞳をじっと見つめる。美しい少女の両眼からは、大粒の涙が零れていた。




 この年、埼玉県代表の朝霞学院は、同校の歴史を塗り替える、甲子園ベスト8の偉業を成し遂げた。沢村は、一回戦の沈黙など無かったかのように対戦した投手達に畏怖の念を与え続け、そしてドラフト二位で地元埼玉の球団に選ばれた。一方の長畑煉次朗は、大学で野球を続けたいと心の底で願いつつ東京に戻ったが、彼の才能は人知れず埋もれていく。やがて少年は大人になり、少しづつ現実の世界を生きるようになっていった。



 了

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『直球勝負』 伊可乃万 @arete3589

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