第5話 これが神様が決めた運命

「それじゃ、また喫茶店「ベコニア」で」


そう言って、自称恋愛の代弁者である早乙女由希は軽快なステップを踏みながら帰って行ってしまった。私をこれからの未来に後押ししてくれるような言葉を置いて行ってくれた。”また”、この言葉はとても心を落ち着かせてくれて安心するものである。


彼と別れ後、お腹も満たせた私は特に用事もなくそのまま帰路についていた。家を出た時は凍え死んじゃうかと思うくらいに寒かったのに、不思議と今は体がポカポカしている。いざ自分のこの気持ちに名前をつけてしまえば、それからは頭の中が水樹くん一色に染められていた。それがむず痒くて、でも楽しくて嬉しくて、それはそれで悪い気は一切しない。


恋の力って凄いなぁ、なんて中学生じみたことを思っていたらあっと言う間にマンションまでたどり着いてしまった。明日は月曜日で、例え私が水樹くんに恋い焦がれていても、地球がひっくり返っても、もちろん仕事である。溜まっていた家事を片付けて、今日は1日ゆっくり過ごそう。家の鍵を探そうとカバンの中をゴソゴソと手探ってエントランスに向かっていた時。


マンションの入り口に見慣れた姿があった。寒そうに身体を縮こませて、柱にもたれ掛かっている人物を確認する。


「・・・春人、どうしているの?」


「あー、やっときた。・・・寒い」


両手をポッケに突っ込んで、マフラーに顔を埋めていたのは、少し前にショッピングモールで遭遇した春人だった。私の姿を確認すると、安心したかのようにその場にしゃがみ込む。具合でも悪いのかと慌てて彼の側に駆け寄る。春人の腕に手をかけると、とても冷たい。どのくらいの間ここに立ったままだったのだろう。


「当たり前でしょ。こんなに寒いのに馬鹿なの?」

「馬鹿って、そんなに言う?」


馬鹿は流石に言い過ぎかと思ったが、この寒さだ。せめて風を凌ぐ場所で待っていればいいのに。


「でも、どうしても直接奈央に会いたくて」

「そんなの連絡すればいいでしょ?」


へらっと笑う春人に、思わずため息が出る。もう怒る気力もなくしてしまった。彼は「よっこいしょ」とその場にゆっくりと立ち上がる。そして私と向かい合うように正面に移動した。

「会うのを拒絶されるのが怖くて、突然押しかけた」


そう言われて私は何も言い返せず、ただ黙っていた。確かに春人からの電話は取ろうとしなかっただろうし、某メッセージアプリから連絡が来たとしても無視をするか断っていただろう。春人は私の様子を見て「やっぱり」と小さく笑う。


「ーーちょっとだけ、時間くれない?」


何かを覚悟してきたような、そんな表情で告げる春人に私はゆっくりと頷いた。




***




これ以上身体が冷えてしまったら本当に風邪をひきかねない。流石に長い時間待ってもらってそれは申し訳ない、かと言って帰すこともできない。私はそのまま彼をエントランスホールまで誘い入れた。此処ならば通行人に見られることもないし、風も通さないから幾分マシだろう。


「この前は驚いたよ。偶然あんな所で会うなんて」

「それはこっちのセリフ。まさか話しかけてくるなんて思わなかった」


少し距離を開けて春人の隣に座る。ショッピングセンターで偶然遭遇した時にも思ったが、付き合っていた頃に比べて少し痩せているような気がする。ちゃんとご飯は食べているのだろうか、

きちんと睡眠はとっているのだろうか。


彼は私と似ていて、仕事が忙しかったり疲れていると食事を後回しにしてとにかく寝てしまうタイプだったのだ。私が春人の家で帰りを待っている時も、仕事からクタクタな状態で帰宅してそのままベッドにダイブなんてよくあること。その時に美味しいご飯でも作ってあげれば良かった。


なんて随分可愛げのない彼女だったと思う。


「ーーあの日は、本当にごめん」


そして彼は私に謝罪をした。別れた日と同じような苦しくて後悔を滲ませたような声で。横に座っているから表情は分からないが、その声色が春人の感情全てを表していた。


「一方的に傷つけて、突き放してしまった」


春人の言葉に私は横に首を振る。


「全部私が原因だよ。ちゃんと分かってるから」

「違う、そうじゃない。俺が馬鹿だったんだ。ずっと、奈央のことをちゃんと理解していたはずなのに」


春人はちゃんと私を分かっていてくれた。嫌いになる日なんて一度もなかった。そして私も春人をのことを理解していた・・・つもりだったのだ。こんな大人になってまで、子供みたいな恋愛をしていたのは私の方だったのだ。


他の女の子みたいにオシャレな料理は作れないし、可愛くおねだりなんてできないし、他の女の人と一緒にいるところを見ても何も思わないし。彼女らしい行動を何1つしなかった私はよく当時はずっと一緒にいてくれるだなんて強気でいたもんだ。



ふとまだ付き合っていた頃の記憶が蘇ってくる。


「どうした、具合でも悪いか?」

「・・・ううん、別になんでもない」

「はい嘘つき。さ、今日はおうちデートに変更!ほら、手を話すんじゃねぇぞ」


お互い仕事が忙しくて、久しぶりのデートの日。疲労が積み重なり朝から体調に違和感があったが、久々のお出かけということで何も言わずに待ち合わせの場所まで言ってのだ。しかし、待ち合わせ場所に着いた途端、私の体調が優れないことをすぐに春人は察してくれたのだ。薬を飲んでいたから体自体はきつくはなかったから何故バレたのだろうと思っていた。


それくらい私が甘えていられる環境を作ってくれていたのに、その優しさを突き放したのは私の方。


「結局、会社の後輩にも振られた。俺に1人で舞い上がって、馬鹿みたいだよな」


自分に呆れるように乾いた笑いがエントランスに響く。会社の後輩、と言うのはあの日言って

いた「好きな人」のことだろうか。私は横に首を振った。


「私が悪いよ。他に好きな子ができちゃっても当然だと思う」


「だからもう、気にしないで」そう言おうといた時、春人がその場から立ち上がった。

そして私の正面に移動して、向き合う形になった。自然と春人を見上げる形になる。


「だから、」


ショッピングモールでは逸らしてしまった顔を、今度はしっかり合わせるように前をむく。視線が合わさった時、春人は覚悟を決めたような、そんな声色で告げる。


「もう一度、ちゃんと奈央とやり直したい」


そのまま彼は続ける。


「ずっと考えることは奈央のことばかりで、これからもずっと一緒に過ごしたい。好きなんだ」


「だからやり直したい」と願うように、春人は言った。ゴクリと息を飲む。真っ直ぐなその瞳に心が苦しくなった。春人のことを頭から消し去っている、その間でも彼は私のことを思ってくれていたのだ。それでも今から春人の気持ちを踏みにじらないといけない。無下にしないといけない。今から己がやろうとしていることに、目頭がジワジワと熱を持ち始める。


しばらく沈黙を貫いた後、私は静かに口を開いた。


「・・・友達が最近教えてくれたことがあるの」

「友達?」

「うん。人間は何のために生まれてくるのか?って聞いてきたんだよね」


最近知り合ったばかりの、春人と比べればうんと浅い付き合いだけれども、自称天才小説家は教えてくれたのだ。

「その人は、自分以外の他の誰かを幸せにすることだって言っていたの」

最初は初対面で何を言っているんだと思っていたが、彼の言っていた答えは私の中にストンと落ちてきた。


「私もそう思う」


質問をされた時、正直自分が何と答えたかもう覚えていない。きっと、とても難しい答え方をしたと思う。由希くんの言葉はとてもシンプルで、でも深いものだった。多分私は恋愛に関しても難しく考えすぎていたのだろう。


ああ、恋愛なんて「好き」だと言うシンプルな感情で成り立つものなのか。


「春人は私のことをずっと思っていてくれた。嬉しい以外の感情なんてない」


春人の顔を見て、今度はしっかり言葉にして伝えたい。


「でも、春人を幸せにできる自信が、今の私にはないの」


それでも、私がもう一度春人と幸せになれる未来をどうしても想像することができないのだ。本当に人間というものは不思議な生き物だ。付き合っていた頃なんて、1人で勝手にいつ入籍して何年後に子供が生まれてなんて将来設計までしていたのに。


「それが答え・・・?」

「うん。ごめんね」


明らかに表情に影が差した彼に心が痛くなる。


一度深まった溝を埋める自信が私にはないのだ。元通りの関係に戻れるか、前ように接することができるか、そう言われれば答えはノーだ。嫌いじゃないけれど、愛せる自信がない。この水樹くんで溢れている頭の中を消し去ることができないのだ。


こうして春人と2人でいる空間の中でも、水樹くんの顔がちらついて離れない。


「そっか。そうだよな・・・。一度振った男なんて付き合えないよな」

「そうじゃないよ、春人のことは嫌いじゃない」


春人は「はあ」とため息をつく。が、次の顔を上げた時にはへらっとした明るいいつもの表情に

なっていた。作り笑顔なのはバレバレだけれど。悔しいな、なんて言いながら眉を八の字にして笑顔を浮かべていたが、その瞳の奥には悲しみを隠しているようにも見えた。

「あの時、ほら、ショッピングセンターで一緒だった人。優しそうな人だったもんな・・・嫉妬深そうだけど」


嫉妬深そう。それは置いておくとして。優しそうな人、それは水樹くんを差しているのだろう。「彼氏か?」と聞かれた時は、違うと答えたことを覚えている。しかし春人の発言からして、私がすでに水樹くんに惹かれていたことを特別な何かを感じていたことも、ショッピングセンターで会った時点ですでにバレていたのかもしれない。


「そんな人じゃないと思うけど、良い人だよとっても」

「今の奈央、見たことがないくらいすごく幸せそうな顔してるから」


でももう隠す必要も、恥ずかしがる必要も、ない。幸せそうな顔を表立ってしている自覚はないが、彼がそう言っているのであればきっとそうなのだろう。


「春人といるときも、すごく幸せだったよ」


春人と付き合っていた頃だって幸せだったのだ。インドア派で狭い世界を生きてきた私を初めて見る景色に連れ出してくれたのは春人で、好きに偽りは当然なかったのだ。


「そっか、良かった」


春人がふわりと笑う。私つられて笑ってしまった。そしてお互いの視線が交差する。

これが、本当に最後だと。そんな空気が2人の間に流れた。


「なあ、はっきり振ってくれないか。じゃないと次に進めない気がする」


そして最後のお願いに、私はゆっくり頷いた。


「ーーー私、好きな人がいるの。だから春人とは戻れない」


目を瞑ると浮かんでくるのはいつだって水樹くんの姿。笑った顔が綺麗で、声が綺麗で、とても美味しいコーヒー淹れてくれる魔法の手を持っていて、少し毛先が癖っ毛で可愛くて、温かい人。思い浮かべるだけで胸の内側からじわりじわりと温かくなってくる。まるで、コーヒーを飲んだ時のように。

「今までありがとう。出会えて良かった」

「こちらこそ。春人も、幸せになってね」

「ああ、奈央以上に幸せになってやるからな」


そう言って、エントランスの扉に手をかける。


「ええ、私だって負けないんだから」


「「ーーさようなら」」


最後に見送った背中は以前よりも小さく感じたけれど、前を向いた強さが滲み出た安心できる背中だった。数ヶ月前のあの日とは違って、涙でぼやけることなんてしない。その姿が見えなくなるまで、私はしっかりとこの目に焼き付けた。


次は、私が。


携帯を取り出し、今もコーヒーの香りに包まれて仕事をしているであろうあの人の名前を探し出す。メッセージに「会って話したい」と送った。水樹くんも伝えてくれた、春人も伝えてくれた。今度は私が頑張る番なのだ。


案外すぐに返信の着信音がなる。そのメッセージを一目見て、私は家の中に戻った。


「24日の22時半、喫茶「ベコニア」で待ってる」


クリスマスまであと3日。




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