第4話 この気持ちに名前をつけたら楽になれる
今朝は電話の着信音で目が覚めた。
相手は母親からで、少々面倒だと思いながらも応答ボタンを押すと、今度の年末年始はいつ帰ってくるのかという内容だった。
もうそんな時期なのか。現実に体が追いついていない。
カレンダーを見てみると、もう12月20日。あと10日余りで年が明けてしまう。
部屋の片付けですら出来ていない、というかあの日から私の時間が止まっているのだ。実家はここから1時間ほどの割と近い場所にあるのだが、朝がとてつも弱い私は就職すると共に一人暮らしを始めた。実家が近すぎてホームシックなんて起こることもなく、休日は家でダラダラするばかりで、自ら率先して帰省することがない。
何より1人だったら、毎日母親から結婚をせびられることもないから楽だ。
今の所は年末年始は特に用事もないから、休み丸々実家に帰るよ。そう伝えておいた。それだけの用だったら良いのだが、やはり電話を切る前には「早く結婚して孫の顔を見せてくれ」とそんな話題に持っていかれる。早く切ってしまえば良かったと、一気に面倒臭くなり一方的に切ってしまった。
お母さんごめん、別に結婚したくないわけではないのだが。
なんせ寝起きが悪い上に、数日前の告白で、正直それどころではないのだ。
仕事の時でもふと気が抜けると頭に浮かんでくるのはあの日の出来事で、それ以外の思考が全て停止してしまう。集中しようと思えば思うほど、普段の生活すらままならなくなっている。それほどに私は十分に機能していなかった。こんなこと初めてで、解決方法が分からない。
思い出せば頰が熱くなり、それを紛らわすかのように冷たい枕に顔を埋めた。
「ーー奈央ちゃんのことが好きなんだ」
あの日、額の感じた優しくて温かいものは紛れもなく水樹くんのそれによって伝わったもの。そんな展開を予想だにしなかった私は、その時どんな顔をしていたのかも覚えていない。身体が離れていった後、「別に返事は今じゃなくて良いよ」と告げて最後はマンションの下まで送っていってくれたことだけは覚えている。
姿が見えなくなったのと同時に、遅れてきたように心臓が大きく暴れまわっていたことも。
いつから、思っていたのだろうか。
そもそも店員と客から友達に昇格してまだ日が浅いこの付き合いで、気持ちに名前をつけてしまうのは幾ら何でも早すぎやしないか。
私が彼に何をしたというのだ。それとも一瞬と気の迷いか。クリスマス前は彼氏彼女が欲しくなる時期だと大学時代の友人らは口を揃えて話していた。
・・・いや、そんなのあの目を見たら、あの真剣な表情を見てしまったら、そんなこと言えない。
あれから喫茶店には行けていない。気まづいとか返事がどうとか、そういう訳ではない。単にタイミングが合わないだけだ。仕事が忙しいとは思っていたが、よく考えれば年末なのだ。決算が近づいているだろうし、残業が続くわけである。世間が年越しの準備で忙しくしている中、1人私ぼーっといつものように時を過ごしている。
目が覚めても、そのまま布団の中でゴロゴロしている。しかし結局は何も考えがまとまらないまま、結局時間が経ち時計の針はすでに正午を回っていた。
「・・・外に出よう」
そう思い立ち、適当に着替えて財布だけ持って外出した。
***
「さ、寒い・・・」
外に出たのは良いものの、この突き刺すような冷たい風が体温だけではなく思考も奪っていく。もっと暖かくしてくればよかった。
無意識に足を運んだ先は、あの日水樹くんと訪れた公園。
この公園を通ることなんて日常的な普遍的な行動の1つに過ぎなかったのに、通るだけでフワフワした浮遊感を覚える。柄にもなく、浮き足立っているのだろうか。
それが答えの全てを示しているのだろうか。
でも、何かがせきとめるように蓋をしている。
この蓋が外れてしまえば、とんでもないものが溢れ出しそうで、飲み込まれそうで、恐怖心ですら覚えた。
道の脇にあるベンチに座って、ふと冬の空を眺める。雲ひとつない快晴なのに無機質なその青さは、キャパシティオーバーしそうな私に追い打ちをかけるように重くのしかかってきた。
いっそ考えることを放棄したら楽になるのに。でも放棄できないのが今の私である。
ああ、コーヒー飲みたいなぁ。
味気ないインスタントでもなく、缶コーヒーでもなく・・・水樹くんが淹れたコーヒーが。彼の淹れたコーヒーがどのコーヒーよりも美味しさ以上に何かを満たしてくれる気分になるのは、きっとコーヒーにではなく水樹くん個人に特別な何かがあるのだろう。それは今までずっと、顔が綺麗だからとか、目が綺麗だとか、所作が綺麗だとか、そういうミーハーな心で見ていた対象だからだと思っていた。それを「好きだから」という気持ちにはシフトすることをしない・・・いや、気づかなかったフリをした覚えは大いにある。
恋愛の相談なんて今まで友人にもしてこなかったような私にとって試練のようで、重苦しいため息をついた。
その時。
「あっれ〜、奈央ちゃん?」
「・・・由希くん?」
そのため息を吹き飛ばすくらいの陽気な声が聞こえてきた。少し前に知り合った恋愛小説家の早乙女由希である。「よ!」と左手を上げて、フェンス向こう側から声をかけてきたのだ。今日も個性的だがとてもオシャレな格好をしており、背には大きなリュック、右腕には茶色の紙袋を抱えていた。
「どうしてここに?」
「この辺で仕事の用事があってさ。奈央ちゃんの家この辺なの?偶然だね」
「うん。ここから歩いて割とすぐだよ」
「えへへ、そうなんだ」と言いながら由希くんは、私の隣に腰掛けた。そして抱えていた紙袋から取り出したのはこの公園の向かいの道沿いにあるベーカリーのパン。彼は2つあるうちの1つを差し出す。どうやらくれるらしい。しかし残りの1つだけでは由希くんがお腹を満たせないだろうと気が引けたが、私自身も起きてから水分しか口にしておらずお腹は空いている訳で、遠慮なく頂くことにした。
「美味しいよね、あのお店のパン」
「うん。私はハムサンドがお気に入りなの」
「ハムサンドか・・・今度買ってみるよ」
由希くんからもらったパンは、メープルメロンパンで、甘党の彼らしいチョイスである。いつもはサンドイッチを買うことが多い私だが、今この働かない頭を休めるにはこの甘さがとても有難い。このお礼に今度オススメのサンドイッチを由希くんに奢ってあげよう、そう思いながらメープルメロンパンに舌鼓を打っていると、由希くんが「そうだ」と思い出したように話を始める。
「水樹とはどう?うまくやってるの?」
「・・・へ、」
「お、その様子じゃもう言っちゃったみたいだね」
「やっとか」と母親のように頰を緩めながら嬉しそうにする由希くん。その話が彼の口から出るとは思っておらず、思わずパンを喉に詰まらせそうになる。ああ、苦しい。喉も胸も。
「全部、知ってたの?」
「もちろん。何度も言うけど俺と水樹は親友なわけよ、知ってて当たり前でしょ」
「いつから?」
「奈央ちゃんと俺が出会う、ず〜っと前から」
ずっと前から、とはいつだよ。詳しいことを聞きたいのは山々だが、彼は「これ以上は水樹に怒られるから」と言って深くは教えてくれなかった。
そういえばーー
初めて喫茶店で顔を合わせた時、私が店内に足を踏み込んだ時彼は言っていた。「お、噂の橋本ちゃん?」と。私の姿を見てすぐに橋本だと理解していたとなる。まあ情報源は水樹くん以外他はいないが、一方的に由希くんは私のことを知っていたことになるのだ。
全てを知っていて、わざわざ私を隣の席に座らせていたのか。わざわざ下の名前で呼ぶように、連絡先を交換するように、全部分かっていて由希くんは動いていたのだ。
「で?まだ返事はしていないんだ」
「・・・その通りです」
ある程度お見通しなのだろう。私の表情を見て何でも察してしまう彼はさすが恋愛の代弁者だと自ら胸を張っていただけのことはあると思った。
顔をずっと曇らせているのを見て、由希くんはどこか呆れたような表情になりため息をついた。
「何がご不満なわけ?性格はともかく顔はいい方だと思うんだけどな」
「いや別に顔を重視しているわけでもないし、性格も良いと思うよ」
「そう?まぁ恋愛なんて所詮勢いなんだから、そんなに慎重にならなくても良いんじゃない?」
「そりゃ慎重にはなるよ」
なりふり構わず「好き」だと言う気持ちで返事をしてしまえば、どれほど楽なことか。
ピカピカな社会人になって大人の仲間入りを果たしたかと思えば、いつの間にかアラサーになってしまった。周りは結婚ラッシュで、中にはすでに2人も子供ができている夫婦をいる。もともと恋愛気質ではない私は春人と別れてから、最初は気を使って合コンや婚活に誘ってくれていた友人も私がその気がないのを知ってからかパッタリとそう言うお話は無くなってしまった。
「電話をするたびに母親も孫はまだかと言われるの。30歳手前になると考えたくなくても考えてしまうなぁ」
「つまり、未来への確約がないとダメだってこと?」
「・・・さすがにそれは、」
言葉に詰まる。由希くんが核心を突くような言葉を私に浴びせたから。そのあと「ない」と否定すことができなかったのは、つまりそう言う気持ちが少しでもあるのだろうか。未だ付き合ってもない、返事すらもしていない、それなのに未来への約束がないと不安になる。とてつもなく嫌な女じゃないか。しかしやはりすぐに返事ができない理由は、今までそう言う対象として見ようと私がしてこなかったことにある。
それに、勢いだけで「好き」だなんて、そんな軽率に返事をしたくない。もっとこの気持ちを整理をしっかりして、その上で伝えたいのだ。
「ずっと綺麗な店員さんがいるなって興味本位で見ていただけだった。眺めるばかりで、恋愛に結びつけようとしなかったんだよね」
「まだ元彼に未練があったり?」
「それはないよ。ただ、恋愛に関しては自分から動くことが今までなかったから、できなかったんだと思う」
要するに子供だったのだ。ろくに恋愛の仕方もわからない。だから春人にも振られることになるのだ。恋愛に疎いにもほどがある。
「・・・ま、水樹は良い奴だよ。少しわがままで頑固で子供みたいなところもあるけどね」
「でも人の悪口は言わないし、軽口を叩くような奴じゃないし、大事なものはとことん大切にするし、料理もできるし、あとはね・・・」と水樹くんの売り込みを始める由希くん。「あと物凄く健康体!」とあまりの必死さに思わず吹き出して笑ってしまう。
「ずいぶん由希くんは私と水樹くんをくっつけだがるんだね」
友人のためだとはいえ、此処まで一生懸命教えてくれるのだ。そんなにつらつら並べなくても、
水樹くんが素敵で良い人で私にはとても勿体無い人だと重々分かっている。これはおとぎ話じゃないのか、なんて思ってしまうくらいに。ただ自己都合で人を待たせている私をなぜ彼と付き合うことを祝福してくれているのだろうかと疑問さえ出てくる。
「だって、」
由希くんは私の言葉に対し、これまでにないくらいに嬉しそうに笑みを漏らす。
「初めてだったんだよね。水樹が、恋愛相談してくれたこと」
「・・・れ、恋愛相談」
「気になる人が手を伸ばすと届く距離にいるのに、名前も連絡先すらわからないってね」
他にもあるよとつらつら並べられていく言葉。1つ1つの話が耳に入るだけで、熱を帯びてくる。いやいや、待ってくれ。これ以上は流石に私のキャパが追いついていかない。流石にはずかしさのピークに両手で顔を覆う。ああ、顔も手も熱い。
「ほんと、頭がおかしくなったんじゃないのって言うくらいにドロドロにげろげろ甘々な質問ばかりでさ」
「いや、これ以上は本当にタイムでお願いします・・・」
残業終わりに向かった喫茶店で、初めて話しかけてくれた時から・・・いや、それよりずっと前から水樹くんの世界の中には私が存在していたのだ。水樹くんがどうして私を好きになったのか、そのきっかけは分からないけれど、こんなに知らないうちに私を知ろうとしていてくれていたことに胸の奥が温かくなる。
「僕が淹れたコーヒーで、大切な人を笑顔にしたい。今はそれだけです」
初めて名前を教えてもらった日、水樹くんがそう言っていた。精神安定剤のように水樹くんが淹れるコーヒーを渇望していた私は、喫茶「ベコニア」に来るたびに幾度となく幸せを貰っていたのだ。口に含むだけで、体全体が安心するように力が抜ける。あの水樹くんの淹れたコーヒー。
しかし由希くんは言っていた。「自分で自分を幸せにすることはできない」と。私はコーヒーを淹れてくれる水樹くんに幸せにしてもらっている。
だったら水樹くんは誰が幸せにするのだろうか。
時折見せる嬉しさが滲み出たような笑顔を彼にこれからずっともたらすのは誰なのだろうか。
「ま、そんな頑張った甲斐があったみたいだけどね。こんなに寒いのに奈央ちゃんの顔は真っ赤だね」
クスクスと隣で笑う由希くんを睨む。
「・・・うるさい」
それは、私であってほしい。と素直に思ってしまった。他の人であって欲しくない。
それが今まで悩んできた答えの結果だった。
由希くんが言ったみたいに冷たい風を遮るものもない場所なのに、体全体が熱くなってきた。
水樹くんの姿、声、目、何もかも思い出すたびに胸の内が熱くなる。オーバーヒートしてしまいそうだ。
「私のどこをどう見ても好きになる要素なんてないのにね」
「本当だよね、飛び抜けて美人というわけでもないし」
「ねえ、聞こえてるよ」
私の文句に由希くんはまたもや意地悪そうに笑う。でもその表情はとても楽しそうで、これからの将来を祝福してくれているのだ。「ごめんって」と謝っているが、全くその気がないくらい笑っている。由希くんは「でも、きっとそれは」と言葉を続ける。
「惚れた弱みっていう奴じゃない?」
それはそれで恥ずかしくなってくるが、そうだったらいいなと嬉しさの方が勝っている。私ももっと、他の人がまだ知らない水樹くんの良いところを知っていきたい。理解したい。
気づけは時間が結構経っていて、由希くんは慌てて立ち上がる。どうやらこれから別件の仕事に行かないといけないらしい。売れっ子作家も大変だなと言うと彼は「でも楽しいから」と返す。
そして別れ際、早乙女由希は最後にこの言葉を言い残して消えていった。
「水樹にも幸せになってほしいけれど、俺の仕事をカッコ良いって言ってくれた奈央ちゃんの幸せも願ってるよ。2人が幸せに笑ってなってくれるだけで、俺も幸せだ」
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