第3話 目紛しい変化に押し潰されないように
3ヶ月・・・いや、1ヶ月前の私が今の私を知ったらかなり驚くだろう。
だって数ヶ月の間、観察対象として眺めていた喫茶店の店員である桐山さん。その彼のことを今では”水樹くん”と下の名前で呼ぶようになり、プライベートでも連絡を取るくらいにまでの関係に進化したのだから。
少し前の私であれば同い年だとしても敬語を外すことに萎縮してしまうだろう。この関係性は平行のまま変わっていくことはないと、そう思っていた。
あっという間にここまでの関係性になったのは、言わずもがな天才(自称)恋愛小説家の早乙女ゆきのおかげだろう。彼に唆されるがまま交換した連絡先は、ほぼ毎日私と水樹くんを繋いでいる。とはいえお互い頻繁に連絡をする方ではないため、1日に2〜3回ほどの会話のキャッチボールで終わる。しかし、その中でもたくさんのことを知ることができた。例えば、意外と朝に弱いだとか、茄子が苦手だとか、学生時代はバスケ部に所属していただとか。私が知らない時代の彼を知れば知るほど、この突き刺すような冷たい風が吹く季節でも胸の内が暖かくなった。
耳にタコができそうなのは重々承知しているが、彼が好きだとかそういう恋愛感情はない。
「あれ、奈央ちゃん?」
「水樹くん・・・!」
たとえ街中にいるときに、話しかけられたことが嬉しいと素直に思ってしまったとしても。
喫茶店「ベコニア」のある商店街から少し離れた場所にある大きなショッピングセンターで、買い物をしているときだった。もう聞き慣れてしまった、でも飽きることはないその声で名前を呼ばれたのは。その声が聞こえた方へ勢い良く振り向くと、そこには買い物袋を手に提げた水樹くんがいた。微笑を浮かべて軽く手をふる彼の元へ、すぐに軽い足取りで彼へ駆け寄る。
「偶然だね、買い物中?」
「う、うん・・・まさかここで会うなんて」
いつものエプロン姿とはまた違った新鮮な雰囲気で、せっかく急速に距離が縮まったのに会話がたどたどしくなる。今日はすらっとした黒スキニーに大きめのニットとコートを羽織っている彼はやっぱり上手く着こなしている。プライベートの見慣れない姿に緊張して、目線をどこに向ければいいのか迷子になってしまった。どちらかと言えば喫茶店でみる大人びている水樹くんより、年相応に見えるような気がする。
「水樹くんも買い物?」
「うん。日用品とか年末年始の準備もあるしね」
そう言って、手にぶら下がった買い物袋を上下に揺らした。
今日は店はどうしているのかと聞くと、今日は水道や火災報知器の点検などをまとめて行おうと臨時休業にしているらしい。作業が思いの外トントン拍子に終わったらしく、このショッピングセンターまで足を運んだとのことだった。もしかして代わりに水樹くんのおじいさんが営業しているのではないかと勝手に期待してしまった。そうだったらこの後すぐに行ったのに。
「奈央ちゃんは買い物?」
「うん。目的はもう終わっちゃったけれど」
自身の右手にぶら下がっている茶色の紙袋を、水樹くんに見せるように揺さぶる。今日の目的はただ期間限定のポップアップショップで気になっていた洋服を買いに来ることだった。ショッピングセンターに入るなり一目散に目当てのお店に向かい、無事に手に入れることができたのだ。説明すると彼は「良かったね」と一緒に喜んでくれた。
その後水樹くんは少し考えるそぶりをする。どうしたのだろうと首を傾げている私と視線を合わせた。
「実は僕も大体買い物終わっているんだけど」
「?」
「良かったら、こんな時間だし一緒にお昼食べない?」
そう指差した先には、最近新しくオープンしたイタリアンのお店。
お昼に誘われているのだと自覚するのに少し時間が掛かった私は「え?」と聞き返してしまった。一応お友達とはいっても店員と客の関係性なのに、ランチに誘われるなど考えもしなかったからである。ましてや今まで「顔が綺麗だ」なんだ言っていた観察していた人からの誘いだなんて。
しかし、とても魅力的な誘い。断る理由なんてどこにもない。すぐに「行きたいです」と返事を返した。水樹くんはホッとしたような微笑を浮かべて「新しいランチメニューの参考に女性の意見も欲しいから」と付け加える。そう言いながらもきっと彼は私が行きやすいように促してくれたのだろう。他意はないと線引きもされているような気がしないでもないが。別に期待していたわけではない。
デートのお誘いだなんて、そんな都合のいいこと。思っていない。
***
「水樹くんは外食結構するの?」
「店に立たない日は外食することもあるよ。奈央ちゃんは?」
「外食っていうよりコンビニとかお惣菜で済ませることが多いかも。仕事で疲れた時は料理するのも面倒になっちゃって」
怠惰な女子力もない生活を送る話を暴露しながら、お店の店員に促された席に座る。イタリアンとは言ってもショピングセンター内の飲食店であり、値段もリーズナブル。時間が時間であり、家族連れて店内はごった返していた。2人だからスムーズに席に着くことができたのだろう。
水とメニューを店員さんから受け取る。ピザとパスタを主にしたメニューがずらりと並んでいた。昼間にかかわらずアルコールも提供されているらしい。一枚にラミネートされたメニューを向かい合っている両者が見えるように配置した。
「・・・水樹くんはどうする?」
覗き込むようにお互い前かがみになることでに思っていた以上近くに顔があり、少し声が震えてしまう。明るい照明の下、近くで見るとより一層顔の良さが際立っていた。額から前髪が離れることでいつもより目がはっきりと見えている。
「そうだなぁ。沢山あるから悩むな。奈央ちゃんも好きなもの頼んでいいからね」
しかし彼はいつものように通常運転である。結局ピザかパスタか決めきれない私に水樹くんが「じゃあ両方頼んでシェアしよう」と提案してくれて、私は彼の優しさに甘えてしまった。こんなに仏様のように優しいのならばきっと彼女は幸せなんだろう。
そうふと思ったとき、ある疑問が生じる。
「水樹くんって彼女いるの?」
頭に思い浮かんだ疑問をそのまま口に出してしまった。しまったと頭を抱える。考えてみれば彼女がいる人が、こんな人が多いショッピングセンターで私をランチに誘うはずもないのだ。昼間から「彼女いるの?」なんてどんなナンパだよと、後悔の波で溺れそう。
「ご、ごめんなさい唐突に、」
「いないよ」
「・・・そ、そうなんだ」
「いないよ」と彼は迷いもなく言った。聞いたのは私なのにそっけなく返事を返してしまった。なぜか胸をなでおろしたようにホッと安心してしまったのは気づかないふりをすることにする。きっと機嫌を悪くしていないことに安心したのだろう。
「いや、水樹くん優しいから、彼女になった人は幸せなんだろうなって思って」
そのあとにタイミングよく注文していた料理が運ばれてくる。店員さんありがとう。モッツアレラチーズがたっぷりのったピザと、ミートソースパスタ。取り皿を2枚頼んでくれた水樹くんが、あろうことか率先して取り分けてくれた。本来ならば私がするべきことなのだが、とても美味しそうに盛り付けられている。自分じゃこうは綺麗に盛り付けれない。水樹くんの手際の良さに脱帽である。私がよそっていれば大惨事になって、女子力の低さに絶望されるところだった。
「自分で優しいなんて思ったことはないよ」
すでにこの話題は終わったと思っていたが、彼の中ではまだ続いていたらしい。そして水樹くんは自分自身のことを「優しいとは思わない」と言う。自分でそう言った以上、出会って間もない私が「優しい」と押し通せるような付き合いではないのだ。「そうかな?」とふわりと返してパスタを頬張る。大人になった今でもやっぱりミートソースが一番好きで、思わず頰が緩んでしまった。
「意外と腹の中は黒いかもしれないよ」
そう言って水樹くんはクスッと笑いをこぼしていた。
水樹くんの言葉を聞いて、先日の帰り際に由希くんが言っていたことを思い出す。水樹くんと付き合いが私の何倍も長い彼はあの日言っていた。「水樹は結構ずる賢い奴だよ」と。そう由希くんは笑っていた。その時私は「そうなんだ」と真に受けずに適当な言葉で返したことを覚えている。
そもそもそれを判断するほどまだ深い付き合いではないのだからわからなくて当たり前なのだ。たとえ由希くんの話が事実だとしても、それでも私に接してくれる水樹くんが優しいのもまた事実なのだ。
「そうだとしても、水樹くんは私に優しく接してくれているよ」
「奈央ちゃんは騙されやすいタイプだよね。いつかがっかりさせちゃうかも」
「そんなことないよ。あんなに美味しいコーヒーを淹れることができるんだから」
そう言うと「ずいぶん僕のこと買ってくれているんだね」と言いながらも、嬉しさが滲み出たような表情をしていた。そんなに気を許したような柔らかい笑顔を向けられて、順応できない私の心臓は大きく揺れ動く。
どこをどうみても、紳士で優しいくて綺麗な人である。腹の中が真っ黒なんて、
ずる賢いなんて思えない。由希くんの嘘つき。
「それで、奈央ちゃんはどうなの?」
「へ?」
「この前は独り身だって嘆いていたけれど」
美味しくご飯を頂いて、水樹くんが提案してくれた食後のコーヒーを飲んでいたときだった。食後のコーヒーも美味しくて、でも何か彼の淹れるコーヒーとは何かが違うんだよな。なんて能天気に思っていたから、まさか自分のターンに来るとは思っていなくて、軽く咳き込んでしまった。変なところに酸味を感じる。
「・・・もちろん、いませんよ」
独り身の上に、全く恋愛とは遠ざかっているような気がする。かと言って仕事に熱中しているわけでもない。つまり当たり障りなくフワフワ毎日過ごしているだけなのだ。水樹くんは水樹くんで聞いてきた割には「そっか」と、その一言だけ。特に話を広げる様子もなかった。まぁ元彼の話だなんて、水樹くんは興味もないだろうし、私もどちらかというと話したくはない。
楽しい時は時間が過ぎるのがあっという間。レストランに入ってから随分時間が経っていた。自分の金額はいくらだろうと、伝票を探してみるがどこにも見当たらない。テーブル全体をもう一度見渡していた途中、水樹くんの手元に目線がいった。伝票を持っているのだ。
「あの、水樹くん、私はいくら払えば・・・」
「いいよ、僕が払うから」
そう言って、帰る準備を始めてしまった。コートを羽織るなり、そそくさとレジの方へ歩いて行ってしまった。慌ててその背中を追いかけていく。奢ってもらう訳にはいかない、急いで財布を出そうとカバンの中を探っている手と、私より一回り大きくて綺麗な手が重なる。顔をあげると、水樹くんと目があった。そして彼は「こういう時は、男を立ててもらわないと」と微笑を浮かべていた。
結局、水樹くんにご馳走になることになった。レジに数人並んでいた為、水樹くんに言われた通り先に1人で店の外で待っている。さっきの彼はとてもスマートだったな。そんなことを思いながら携帯を扱っていた。また母親から連絡が来ている。いとこの子供の動画を送ってきていた。この動画を見て結婚欲が高めようとさせているのだろうか。ちゃんとした返事はまた後でにして、適当にスタンプを送っておいた。
その時。
「ーー奈央」
自分の名前を呼ぶ声が聞こえた。
どこかで聞いたことがあるような声。
懐かしいと思うような声。
水樹くんに呼ばれる時とは何かが違う。全身が何かの違和感で包まれる。スルスルと紐解かれていくような、感覚に陥いる。足元が掬われそうだ。そして何故だか目頭に熱が集まってくる。
ゆっくり、ゆっくりと、声がした方へ振り向く。
ああ、聞こえなかったフリをしてしまえば良かった。視線を向けた先にいた人物を見て後悔することになってしまった。今にも震えそうな声えで、消えそうな声で、その名前を口にする。
「春人・・・」
後悔と悲しみが入り混じった表情で、春人ーーー笠原春人の名前を告げた。少し息を切らして、数メートル先に立っている彼は以前よりも少し痩せたような気がする。
春人は、私が永遠の独身を覚悟した原因の元彼だった。
「その・・・久しぶりだな」
「・・・そうだね」
久しぶり、とは言っても3ヶ月程になる。まさかショッピングセンターで遭遇し、声を掛けられるだなんて思いもしなかった。言葉を選ぶように「久しぶり」だと言った彼は、おそらく何も考えずに声を掛けてきたのだろう。証拠にそのあとしばらく沈黙が続く。その沈黙でさえ居心地が悪く感じた。ここから走って逃げてしまいたいくらいに。
「元気だったか?」
「うん。春人は・・・少し痩せたんじゃないかな」
そう言うと彼は「仕事詰めだったから」と眉を下げて笑う。
春人と出会ったのは高校生の時で、たまたま3年生の時に同じクラスだった。卒業後は別々の進路だったが、社会人になってから初めての同窓会で再会したのだ。それから連絡を取り始めて、何度か一緒にご飯を食べに行った。告白は彼からの方で、確か・・・ああ、それもクリスマスの日だった。
別れてから今まで思い出す機会もさほどなく、まるで遠い昔の思い出のように記憶が蘇ってくる。
もちろん別れた、あの日のことも。
しかし、どうして彼はーー
「奈央が元気そうで良かったよ」
どうして春人が、そんな表情をしているのだろう。
どうしてそんなに後悔を滲ませている表情をしているのだろう。
どうして瞳の奥が、今までに見たことがないくらい哀しみに溢れているんだろう。
別れ話を切り出したのは、紛れもなく春人からなのに。
「ーーーごめん、他に好きな人ができたんだ。別れてほしい」
目も合わせずに、バツが悪そうな顔で、私は数ヶ月前に彼から別れを告げられた。
「私のことが嫌いになった?」と問うと、「嫌いになったわけじゃない」と言われた。しかしその後は「でも、何を考えているかよく分からない」と続いた。突然の別れ話に頭が真っ白になっていた私は覚えている限りその時は、涼しい顔をして「そう」と今思えば恐ろしいくらいに淡白な声色で返したと思う。それでも、内心はこれでもかというほどに落ち込んでいたのだ。
「
それにしても偶然だな。今日は、その・・・買い物?」
「うん。百合ちゃんの結婚祝いを買いに来たの」
「百合って・・ああ、林か。あれ、もう藤田になったんだっけ?」
「ううん。入籍は来月だからまだ林だよ」
「そっか・・・」
それでも今本人を目の前にしても文句の1つも言う気力もない私は、つまりそう言うことなのだ。それを再確認した私は、さっきの足元が掬われそうな感覚が、嘘のように通常運転に戻っていく。
「春人は、今日はデート?」
その言葉に春人は少し目を見開かせる。
「違うよ。そんな相手もいない」
「は?だってあの時、」
今度は私が目を見開いた。だって春人はあの時「他に好きな人ができたんだ」と言って別れたのだ。彼は今「そんな相手もいない」と言った。すると、ぐっと春人は距離を縮めてくる。手を伸ばせば届きそうな距離に。そしてまた後悔が滲み出ている表情を見せた。
「あの時どうにかしていたと思う。奈央がどう思っていてくれているか分からなくて、ちょっと会社の後輩に優しくされたからって突き放してしまったことを・・・ずっと後悔していた」
まるでーーーあの頃に戻りたい。そう言わんばかりの言葉を告げる。あまりの勢いに思わず一歩引き下がってしまう。
「なぁ、俺たちまた、」
その続きを聞きたくない。反射的に耳を塞いでしまいそうになったーーその時だった。
「奈央ちゃん、お待たせ」
「・・・み、水樹くん」
どこかで待ち望んでいた気がする。彼の声を。
後ろへ振り返ると、支払いが終わったのであろう水樹くんが少し遠くに立っていた。駆け寄ってきては、「待たせてごめんね」とこの居心地の悪くなった空気を断ち切るように微笑を浮かべる。なぜかホッと胸を撫で下ろしたように落ち着いた私は「全然大丈夫だよ」と告げる。
春人はしばらく水樹くんをじっと見つめる。
「・・・彼氏か?」
「・・・違うよ。ごめんね水樹くん、帰ろう」
「すみません、失礼します」
カバンをしっかり肩にかけ直して、春人に背を向ける。ここから逃げ出すように。「また連絡する」と後ろから聞こえたような気がするが、今度こそ聞こえなかったフリをしよう。
半ば無理やり引っ張るようにして連れ出してしまった水樹くんの隣を歩く。水樹くんにとったら全く関係のない話だが、人の元彼と変な雰囲気になっているところに巻き込まれて、良い気分ではないだろう。さらっと適当にこの雰囲気を消し去るような話題を持ちかけたいが、どうも都合の良い話題が今の私には浮かんでこない。その悩みを断ち切るように、水樹くんは私に話しかけてくる。
「さ、家まで送るよ」
「え?悪いよ、全然大丈夫だから」
奢ってもらって家まで送ってもらうなんて、そんなおこがましいことできない。ましてや重い荷物を持っているわけではないのに。ショッピングモールから駅に直結する通路を目指して歩き出した。
***
水樹くんの半歩後ろを追いかけるように早歩きをした。
ショッピングセンターからは私の最寄駅よりもいくつか先の駅に喫茶店「ベコニア」がある商店街がある。家もそこから歩いていける距離だと言っていたような気がする。
電車の中でも「送ってもらわなくて大丈夫」だからと断っても、水樹くんは耳を傾ける気もさらさらないようで、微笑を浮かべるまま、あれよあれよと言うまに一緒の駅で降りてしまった。
冷気が一気に身体中を纏わりつき、肩を縮める。ああ、寒い。
さっきから様子がどこかおかしい水樹くんを見て、駅を降りてからは大人しくただついていくことにした私はずっと黙っている。
ずっと、とは言っても社会人になってからだが、すみ慣れた街に水樹くんがいる現実に、ソワソワしてしまう。いつも見る景色なのに、今日はなんだが知らない街に来ているのではないかと思うくらいに。
「ねぇ、」
少し前にいた水樹くんが突然足を止めて、こちらへ振り返る。
「あの公園通っていかない?」
そう言って指差した先には最近地域の人によってたくさんのLEDで飾り付けられた公園だった。この辺りでは一番広い公園で、道の脇には桜の木がずらりと並んでおり春の季節になれば遠方からもお花見に来る人で溢れる場所である。
彼の提案にすぐに頷く。
「うん、まだ明るいからイルミネーションは見れないけど」
「全然大丈夫だよ。ここって桜の名所だったよね」
「よく知ってるね。仕事帰りに時々お花見がてら通ったりするよ」
もちろん今は葉も枯れて散ってしまった寒々しい木だが、どうかこの季節も来る人々を喜ばせたいとこの時期は飾り付けをするようになったのだ。今は明るいから点灯もしていないし、人もいないが、暗くなってくるとどんどん人が増えてくる。
他の人から見れば私たちはデートをしているように見えているのだろうか、そんなことを考えながらも頭の片隅には先ほどの出来事があった。
確かに、私は昔から感情を表に出さなかった子供だったと思う。
転んで怪我をした時も、友達と喧嘩をした時も、お別れの季節でも号泣した記憶はない。怒りをあらわにすることもない。大笑いして騒ぐこともしない。
それでも周囲の人間の多くはよく理解してくれていて、自分自身もその環境に甘えていたのだと思う。
「夜になったらとっても人で溢れそうだね」
「うん。カップルや家族連れでいっぱいだよ」
頭に浮かんでくるのは、あの日別れを告げる春人の顔。その苦い彼の表情を見て、私は後悔の波に押し潰れた。もちろん当時は「好き」と言う感情には偽りはない、もしプロポーズされたらOKしようと思っていたくらいの覚悟はしていたのだ。
付き合い始めてから最初の頃は、下の名前で呼んだり、手を繋いだり、キスをしたり、それ以上のことだって、1つ1つドキドキしたものだ。年月を積み重ね、慣れというものは当然くるものだが、好きという感情が薄れていたわけではない。
公園のまだ点灯されていないゲートをくぐって、水樹くんがゆっくりと話し始めた。
「さっきの人は・・・前にお付き合いしていた人か何か?」
さっきの人、とは春人を指しているのだろう。私は肯定するようにゆっくりと頷く。
「・・・何を考えているか分からないって、言われてしまって」
「・・・・・」
「結局他に好きな人ができたって、そう振られちゃいました」
「好きな人ができた」と言われた時、全部別れの原因は私だと体の体温が全部奪われるように血の気が引いた。
きっと私は春人が望んでいたものを与えることができていなかったんだと。遠ざかっていく背中を見つめながら、今まで共に過ごしてきた日常が走馬灯のように蘇ってきた。
思っていることを言葉にしてくれるのは春人ばかりで、私は何も伝えてられていない。面と向かって「好き」だと言ったことが何度あっただろうか。私から彼を求めたことがあっただろうか。
もっと伝えたいことを言葉にできていたら。
姿が消え、気づく頰を伝った涙。その時、涙を流して久しぶりに泣いた。
それでも、私の揺れた感情は一夜にして元どおりになってしまった。先ほどの悲しみが嘘のように。女って、つくづく恐ろしいものだと思う。なんて自分はこんなに薄情で淡白なのだろうか。もしかしたら本気で私は彼のことが好きではなかったのだろうか、そう思うほどに。
「それは辛かったね。でもーー」
横を歩いていた水樹くんが足を止める。その動作にお互いが正面になるように、自然と体が動いた。少し上に視線をずらすと、水樹くんの相変わらず綺麗な目と私の目が重なる。どことなくその瞳の奥に熱いものを感じ、私たち2人の周りをいつもとは違う雰囲気が包んでいた。
そして目の前の彼は言葉を続けた。
「君を手放すなんてもったいないよね。まぁ結果的には僕得だけど」
「へ?」
もったいない、そう言った。それは私の方がの間違いではないのだろうか。別れてしまったとはいえ、数年は一緒にいてくれたのだ。見限られたのは私の方である。そして「僕得」だなんて何のメリットも水樹くんにはないのだ。まああの別れから喫茶店に通うことになって、微力ながらも売り上げは上がったのだろう。だがもちろんそんな話ではないことはこの空気からして承知している。
「だって、こんなに奈央ちゃんは表情豊かなのに」
「な、な、何ですか藪から棒に」
とんでもない発言をしながらふわりと微笑む彼に、調子が狂うばかりの私は言葉ですらストレートに発することができない。
「いや本当だって。ただ、それを言葉にしないと、彼はきっと不安だったんだろうね」
「言葉足らずだって、重々承知しているよ」
「まあ、他の子に靡いた彼も良くないんだけど」
さっきから水樹くんが何が言いたいのかが分からない。どう話を持って行こうとしているのだろう。彼女がいる時点で他の子を好きになったのかと腹を立てる事柄には間違い無いのだが、その元々の原因は私なのだ。ただ言葉足らずだって自覚はあっても、幼き頃からの性格はそう簡単には直すことはできない。
「別に奈央ちゃんが悪いっていうわけじゃ無いよ。直した方がいいとか、そういう話じゃ無い」
「どういう意味?」
回りくどい言葉をわざと選んでいるようにも見えた水樹くんを少し見上げる形になる。そして訳が分からず眉をひそめてその次の言葉を待った。
ひゅっと風が吹き、私たちの間を通り抜ける。思わず目を閉じ、次に開けた時、彼のその美しい瞳に捕らえられ視線が外せなくなる。そして水樹くんは言った。
「僕なら、そういうところも全部ひっくるめて好きになれるのに」
その言葉に「へ?」と変な声が漏れた。今、この人は、何て言ったのだろうか。パチパチと瞬きを繰り返す。すると水樹くんは急に「あーいや、違う。そうじゃなくて」と、自身の頭の髪をかき乱した。何が違う、そうじゃ無いなら、どういう意味だ。ぐるぐるといろんな事が頭を駆け巡るが、やっぱり肝心な時に言葉にする事が出来なくて。
一拍、スローモーションのような一泊を開けてから再び水樹くんは私と目を合わせるように動く。
「本当はまだ言わないつもりだったんだけど、やっぱり辞めた」
その瞬間、この空気・・・いや、彼の纏う空気がふわりと柔らかくなった。グッと距離を縮めた身体で視界がいっぱいになり、私たちを隔てていた見えない壁をあっという間に超えてくる。これ以上離れることを許されないと言われているように私の身体は固まったまま。息継ぎさえ不安定になる。
「ーー奈央ちゃんのことが好きなんだ」
水樹くんの目が細められる。今までに見たことがないくらい、優しくて、慈悲深くて、でも熱がこもっていているようなその瞳はその言葉の後見えなくなる。その代わりに彼の身につけていたマフラーが顔にかかりそうになり、額に柔らかくて、温かい熱が伝わった。
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