第28話 何があっても


 雪はライブハウスの裏口にたどり着いていた。

 茶色く塗装されたドア。ドアには髑髏を模したドアプレートがあり、骸骨の銀に輝く眼光が雪をじっと見ていた。


 ドアノブをゆっくりと回す。


(開いてる……)


 音を鳴らさないよう慎重にドアを開ける。


 開いた先は小さな通路だった。

 床には足ふきマットがあり、すぐ近くにTOILETと書かれた部屋があった。

 スタッフ用のトイレだろう。


 雪は息を止めながらゆっくりと中に入る。


 入った先は薄暗く、数m先も見通せない。

 遠くから男の叫び声、何かが割れる音が聞こえてくる。

 恋詩はきちんと暴れてくれているようだ。


(恋詩ごめん)


 あの明るい後輩には無理をさせている。

 それが嫌でも理解できる。

 だが今の雪には感謝することしかできなかった。


(もし生きて帰れたら恋詩になんでもしてやろう)


 恋詩のいるホールと違って、裏口には人の気配はない。

 

(なんで、こんなに人いないんだ?)


 その疑問の答えを出す前に、右手に部屋を見つけた。


(控室……?)


 ドアに耳をぴっちり当てて、中の様子を探る。


「んー、んー」


 それはくぐもった声だった。

 まるで何かに口を塞がれているような。


 雪は扉を開けた。


「栞さん!」


 そこには栞の姿があった。

 栞が手足を紐で縛られ、口をガムテープで塞がれてベッド上にいた。栞は雪を見て驚いた後、涙を浮かべる。栞は制服姿で乱れてはいるものの、まだ何かされたような形跡はない。


(間に合った!)


「んー!! んー!!」

「栞さん待って! 今取るから!」


 栞の口についていたガムテープを痛みを感じさせないよう剥がしていく。


「プハッ!! 雪くん! 雪くん!!」


 栞はガムテープを剥がされると、雪の名前を何度も呼んだ。


「怖かった、とっても怖かったよう」

「うん……僕も怖かった。栞さんがひどい目にあってないかって心配で心配で」


 栞を思いっきり抱きしめる。

 もう放さないように。


「早くここから出よう。今手と足のも外すね」

「あ、雪くん……あ……嫌、いやぁ」

「栞……さん?」


 栞は固まっていた。

 雪の背後を見て。


「やっぱしクソガキがいるじゃねぇか」


 野太い男の声が部屋に響いた。

 振り向く。


 部屋に入ってすぐの場所にその男は立っていた。

 呆れた顔をしている金髪の大男。


(志波……竜次ッ!!)


 志波竜次は指名手配書そのままだった。

 筋肉隆々。何か薬物を使用しているのではないかと思うほどの巨体。


 腕は丸太を思わせ、足に至っては大木を思わせる。

 男が入ってきただけで、部屋の温度が数度上がったような気がした。


 見ているだけで目眩すら起きそうな巨体だった。


「おいクソガキぃ、覚悟は出来てんだろうんな」


 志波が威圧するように、ボキボキと手の骨を鳴らした。

 志波の拳は、指一つ一つに分厚い肉の甲羅のようなものが出来ていた。


 怖い。

 あんなもので殴られてはひとたまりもない。 

 自分なんて一瞬でサンドバッグになるだろう。


 だけど。


 何があっても。


 彼女だけは。


 栞さんだけは絶対に。


 絶対に。


 助けてみせる。


「……栞さん、大丈夫。何があっても栞さんだけは守るから」

「え……」


 雪は栞に微笑んだ。

 自分でもよくわからないほど、心は落ち着いてた。

 絶体絶命の状態のはずなのに。


「ウォォぉぉぉ」


 雪は志波に向かって駆け出した。

 

「あ? なんだァ?」


 そして思いっきり渾身の力を込めて志波竜次を殴った。

 だが。


 パン


 そう平坦な音が鳴っただけで、志波竜次はびくともしていなかった。


「は? ギャハハハ! ここまで弱いパンチ久しぶりだわ! 猫より弱いんじゃねぇの!!」

「あ……あ……」


 栞が絶望したのが見なくてもわかる。

 

 そして、志波の右腕が雪に向かって振るわれた。

 来るのを予想していたというように雪は左腕でガードする。

 

 衝撃と尋常ではない痛みが雪を襲った。

 ボギィ。

 栞も、志波もそのとき雪の左腕が折れたのだと分かった。


「イヤぁっぁぁ!!」


 栞の悲鳴が部屋に響く。

 そして志波がもう一度、腕を振り上げた瞬間。


 志波の目の前に噴射口があった。


「は?」


 煙が噴射される。


 そして。


「ギャアァァァァァァ」


 志波は目を押さえて、狂ったように暴れた。


「はぁ、はぁ……痴漢撃退用スプレー」


 雪は腕の痛みも忘れて、そうつぶやいいた。


 痴漢撃退用スプレー。

 それもとびっきりの強力な物だ。


 雪は自分が虚弱なことを知っていた。

 だから持っていた。

 栞を暴漢の手から守れる物を。


 栞が連れ去られたときは不意打ちであったため、何も出来なかったが、今ならそれを使うことが出来た。


 ただ最初からスプレーを持っていても手で隠されたり、顔を逸らされたりすると、効果が少ない。だから一度油断させるために普通に殴ったのだ。


「はぁはぁはぁ、もう無駄……だよ。一時間は目を開けられないから」


 志波は狂ったように暴れている。

 まるで獰猛な獣のようだ。


 これで……終わりだ。

 やっと、やっと。

 栞さんを助けられる。


 そう雪は思った。


 だが。


「……やってくれるじゃねぇか」

「え?」


 振り向く。

 志波はいつの間にか落ち着いていた。


 そしてその目は真っ赤に充血しながらも見開いていた。

 

「嘘」


 ほんの一瞬で雪の目の前に志波がいた。

 

(消え)


 志波の腕が消えた。

 雪にはそう見えた。

 そして、腹部に衝撃が襲った。


「ボエッ」


 雪は何も考えられなくなった。


「あ?」


 志波は不思議そうにしていた。

 雪の制服の下から何かが落ちた。


 分厚い教科書。

 腹部への殴打の威力を軽減するために、服の下に教科書を入れていたのだ。


「今腹ぁ貫くつもりでやったのに、こんなもん入れてやがったのか。涙ぐましいねぇ」


 雪は床に崩れ落ちる。

 教科書は志波のパンチの威力を大分弱めていたが、雪を悶絶させるには何の支障もない威力だった。


「嫌ぁァァァ! 雪くん!」

「ギャハハハ! 雑魚がいきがりやがって」

「あ……あ……」


 遠くで何かが聞こえた。




 雪が蹴り飛ばされた。

 雪の身体がボールのように吹き飛ぶ。

 もう雪の身体はボロボロだった。


「やめて、やめてよぉ! 私には何してもいいから雪くんには手を出さないでよお」

「あ~? ハッ。笑えるわ。こんなガキのために体張るってかぁ~?」

「お願いします……」


 栞は志波に懇願した。

 手も足も縛られているから土下座は出来なかったが、何度も何度も頭を下げた。


「や……やめて」

「あ?」


 志波の足元からそんな声が聞こえた。


(意識飛んでなかったのか)


 雪は衝撃で腫れた顔を必死に歪めながら呟く。


「やめ……て、栞さん。それは駄目……。僕は……どうでもいいから……どうなってもいいから」

「雪くん……でも」


「あ~、なんかムカつくわ」


 志波は思いっきり雪の折れた腕を踏みつけた。


「イヤぁ、やめてぇ!!」


「アァァァァ!!」

 部屋に雪の悲鳴が響く。


「は?」


 志波は左足に奇妙な感覚を覚えた。

 痛みとは言えないような微小な感覚。


 気づけばいつの間にかベッドから降りた栞が志波の足に噛みついていた。

 床を張ってここまできたのだ。


「うぅぅ~」


 栞が顎に力を込める。

 その瞳はもう戦うことを決めた目だった。

 必死で志波の左足に食らいついていた。


 痛くはない。

 虫の影響で志波の皮膚は銃弾も通さないほどだ。


 ただ、その光景を見て志波の中で何かが切れた。


 左足を動かして栞を弾き飛ばす。


「あっ」

「あ~、もう良いやお前ら。なんかムカつくから死ねや」


(まずはこのガキからだ)


 ここまで不愉快な思いをしたのは久しぶりだと、志波は雪の頭に向かって思いっきり足を振り下ろす。


 ライブハウス全体を震わせる轟音が鳴った。


 だが。

 振り下ろした先に雪の姿はなかった。


「あ?」

「ごめん雪さん結構手間取った」


 少年がいた。

 薄く赤みがかった髪の少年が雪の身体を抱え、ベッドの側にいた。


「恋詩……くん?」

「栞さん、雪さん見てて」


 少年は雪の身体をベッドに下ろして、栞の拘束を解いた。


 少年がベッドから降りて志波を見る。

 その表情に怯えは少しもなかった。


「はー、またクソガ――」


 志波が嘲ろうとした瞬間。

 トラックにでもぶつかったような衝撃が志波を襲った。


「……?」

(なんで俺、外にいるんだ?)


 気づけば視界に夕焼けが見えていた。

 コンクリートの感触が身体の下にあった。


 人一人分の穴が空いたライブハウスの壁面から少年が出てくる。

 そして倒れている志波を見て言った。


「お前は潰す」



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