3Fx1 光苔

 ラッキースケベというものをご存知だろうか?

 それは主にラブコメ漫画等に登場する、男性主人公が意図せずして遭遇するエッチな状況のことである。

 例えば――風呂場の脱衣所に入ったら女の子が服を脱いでいる。追手から逃げ込んだ先が着替え中の女子がワンサカいる更衣室だった。主人公が転んだ先に女の子がいて一緒に倒れ込んでしまい、手をついた先がその子の胸なのだが、本人はその意識もなく「何だこれ?柔らかいな」ムニュムニュとかやるやつである。

 僕は今、そういったものに非常に近い状況に置かれているのではないだろうか?

 何しろ女の子が仰向けになった僕の身体の上に横たわっており、彼女の唇は僕の頬に完全に接していて、おまけに僕は何故か彼女のお尻をムンズと掴んでいるのだ。

 賢明なるラブコメ主人公であれば、読者への一定のサービスシーン提供後に彼女から慌てて離れ、「ごめん、そんなつもりじゃ――」などと言い訳してみせるはずだし、当然僕もそうするつもりなのだが、結果的にそんな行動は出来なかった。


 何故ならば彼女の顔は紫色で、黄色い斑点に覆われていたからだ。


「うわあああぁぁぁ……!!」

 全身に耐えがたい辛苦が襲いかかり、僕は思わず絶叫した。

 激しい眩暈と込み上げてくる吐き気に、その場でひたすらのたうち回る。

 身体の中を無数の虫が這い回るような耐えがたい感覚が止めどなく繰り返され、もはや死んでしまったほうがいいと思うほどの苦しみが続く――が、その果てにフッと一切から解放されたような浮遊感が全身を覆った。このまま僕は天に召されるのか……やがて天国から届けられた女神の声が聞こえてくる。


「楽になりました?」


 目を開くとそこには穏やかな微笑みを浮かべる女神――ではなく小糸さんの顔があった。彼女は包み込むようにその両手を僕の頬に添えていた。

 申し訳なさそうな表情でこちらを窺っているのは僕の上に乗っかっていた――そう、あれはクミだ。

 僕の意識は徐々にだが、次第にはっきりしていった。

 周囲はまるで薄暗く、冷たさを感じさせる青白い光に満たされている。

 皆一ヶ所に密集していたようで、残るふたりの姿もすぐに目に入った。

 クミの背後で、先輩が今目覚めたように伸びをしながら大きくあくびをしている。そのそばには、子パンダ姿のうさぎが仰向けに横たわっていた。何か食べている夢でも見ているのか口は動いているので、眠っているだけだろう。

 全員無事な様子だ。

 僕はホッとしつつも、まだ靄の晴れないぼんやりとした頭で今の状況の整理を始める。

 まずは迫りくるスライムからの避難には成功したものと思う。

 全員が別の場所に転移したということだろう。

 転移の際にクミが僕の上に乗っかってしまったのは不慮の事故であり、小糸さんの謎の治癒能力によってまた助けられたが、それはまさにアンラッキースケベともいうべき事象であろう。

 視線の奥にはもはやお馴染みとなったアレが見える――例の忌々しい台座だ。

 そこに刻印された数字は“3”だった。

 つまりは僕たちはやっと4階から3階へ“降りる”ことが出来たわけだ。

 元の世界には戻らず、相変わらず僕の下半身は消え去ったままだが、それでも次のステージに進むことは出来たようだ。

 しかし……ここはどこなのか?

 5階がホテルで4階がホームセンターときたら3階は何だろう?想像もつかない。

 僕は小糸さんに礼を言いつつ、クミには気にしないでととりなしつつ、無駄に鍛えられた腕力によって身体を起こすと、辺りをぐるりと見回した。


「ここは……」


 そこは壁から床、天井までもが石で作られた、一辺が3メートルほどの立方体の部屋だった。

 この空間を淡く照らす青白い光は、部屋の壁や天井や床を問わず縦横無尽に迷路のように張り巡らせられた何らかの発光体が放っているようだ。

 床に張り付いているそれに触れると、短い草にも似た柔らかい手触りであり、その後に指を確認しても特にそれが移っているということはない。匂いもないようだ。人工物というよりも何か苔のような植物の印象だけれど、何故かむしり取ることは出来なかった。

 この場所は一体何なのだろう?目が覚めたらこんな四角い箱に閉じ込められているという映画を観たことがあるが……よく見ると当の映画とは若干違って、一見してここには出口らしきものが見当たらなかった。


「何だあ?ここは?」

 先輩が立ち上がってタチの悪いクレーマーみたいに周囲を見回す。

 手に何か持っているが、あれはたしか先輩のフェイバリットアイテムである“かつてバールのようなものだったバール”だ。

 転移してきたのは着ている衣服だけだと思っていたが、工具もセットになってやってきたのだろうか。

 先輩は相変わらずの黒下着姿に安全靴で、背中に黒い翼を生やしているのだけれど、それにしても――

「先輩って――綺麗ですよね」

「は?」

 僕がついうっかり口に出した言葉に、先輩が怪訝そうな反応を示す。勘違いされたと思い、慌てて付け足す。

「い、いや、身体が、というか下着も含めて――」

「何だよいきなり」

 先輩は何だかまんざらでもなさそうだが、心なしか小糸さんとクミからは冷えた視線を感じる。取り繕おうとして余計にイタリア伊達男感が増したのかも知れない。

 “綺麗”と言ったのは先輩の美貌やナイスバディーへの賛美ではなく、“4階”で緑色の粘液にドロドロにまみれていたはずなのに、全く身体も下着も汚れていないということである。

 本来の思惑を説明すると、先輩からは自分の誤解をよそに「女性を美醜を基準にして見ることしか出来ない男根なき男根主義者」と八つ当たりみたいな方向から罵られたが、僕のことを助けてくれるかのようにクミが口を開いた。

「たしかにミチスケくんの言うとおり私も全然汚れてないですね」

 他のメンバーを見渡してみても、皆同様に一旦風呂にでも入ったみたいにこざっぱりとしている。かく言う自分も、格好こそ上半身だけ用務員だが、まるで洗濯したばかりの服を着ているかのようだ。

 空間転移の際に通るトンネルが、ガソリンスタンドにある洗車機みたいになっているとか――

「ん?」

 僕はそのとき自分の服装に違和感を覚えた。

 胸の辺りに垂れ下がっているこれは――タオルだ。

 自分は首から白いタオルをかけているようだ。

 これは僕が頭に青い球を縛り付けるのに使ったやつだろうか。

 誰もこれを指摘しなかったのは、今の服装に馴染んでいるからに違いない。まあ、そもそも僕がどんな格好しようが誰も気にしないか……

 ここで僕は頭を切り替える。

 逆に僕のほうから、彼女たちの変化に気付くことが出来るのだろうか?

 女性というものは、髪を切ったり服装を変えたりネイルをどうこうした時に、それに気付いてくれるような男性に好感を持つらしい。それどこ情報よ。

 まず先輩についてはガン見済なので置くとして、小糸さんのほうを見た。

 彼女は薄い水色の膝丈ほどあるロンTをワンピースのようにまとっていて、足には青いスニーカーを履いている。髪型も後ろで束ねたひっつめ髪で、服装も含め“4階”の時と変わってないように思える。今まで気付かなかったが、Tシャツの胸にはペガサスを模した小さなイラストがプリントされていた。

 続いてうさぎのほうへと目をやると、相変わらずのパンダの着ぐるみ姿であり、サイズは50センチほどのままだ。もう元の大きさに戻ることはないのだろうか?まだスヤスヤと眠っているようだが、とりあえず今のところは無理に起こす必要もないと思う。

 最後にクミを確認する。髪型はショートカット。薄いピンク色の無地のTシャツに、膝上ぐらいのベージュの半ズボン……じゃなくてキャロット?キュロット?を履いている。足元はピンクのスニーカーだ。

 おや?

 よく見るとクミの肩に細長い紐がかかっている。

「あの、クミちゃん。その肩からかけてるのは――」

「ああ、これですか?これは――」

 そう言ってクミは腰の後ろ側に手を回し、それを目の前に示してみせた。

「ポシェットです。ここに着いたとき、気が付いたらこれをかけてました。中に何も入ってないし、何だろうって……」

 それは赤い巾着袋のような小さなバッグだった。ブランド名なのか“LITHOS”という黄色の文字がプリントされている。

 先輩がバール、僕がタオル、クミがポシェットと、おひとり様一品づつホームセンターから持ち出していいルールなのか?とすれば、小糸さんとうさぎも――

「私は目が覚めたとき、これを握ってました」

 小糸さんが足下にあった棒を拾い上げると、どこか誇らしげに掲げてみせた。

 それは例の“ロンギヌスの突っ張り棒”かと思いきや――

「これは爆弾のセットに使ったものではないです。あれよりはちょっと重いですね。ステンレス製でしょうか」

 うさぎはまだ寝ているので確認出来ないが、何故かひとりにつきひとつづつ、こちらの領域にアイテムが持ち込まれたようだ。

 何の役に立つのかさっぱり分からないこれらの品々は、この世界を支配する“超越的存在”からの支援物資ギフトだろうか、それとも単なる気まぐれな“おみやげ”だろうか。

 そんなことを考えながら、僕は首にかけたタオルおみやげの両端を握ると、特に意味もなく天井を見上げた。


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