4Fx25 標本

 黒い翼を羽ばたかせて壁穴の向こう側へと飛び立つ先輩。高圧洗浄機のタンクを背負い、壁の大穴へと向かうクミ。そのふたりを残る小糸さん、うさぎ、僕の3人が、バリケードから顔だけ出して見守っていた。

 先輩はあっという間に壁穴をくぐり抜け、目的の場所へ辿り着いたようだ。

 山のように盛り上がっているスライムの中心部。うさぎによれば、その上部に青い球が埋もれているらしい。先輩は空中からそこに近づき、浮遊しながらその辺りをしげしげと眺めている状態だ。

 徒歩で向かっていったクミも、壁穴の中へと入っていったものの、スライムで満たされた領域からは少し距離を置いた地点で立ち止まったかに見える。

 こちらから声は聞こえないが、先輩とクミはそれぞれの場所から何か話をしている様子だ。

 先輩がスライムの山を指差すと、クミが手を振って否定するようなジェスチャーを返す。どんな話をしているのかは分からないけれども、ふたりのやり取りが少しの間続いていた。

 そんな中、先輩はおもむろに水鉄砲を構えると、スライムに向けてそれを撃ち始めた。勿論射出しているのはタンクに入れた酒である。

 スライムの表面が、浴びせられたアルコールによって、徐々に溶かされ削られているようにも見える。そうやって最終的に球を取り出す作戦だろうか。あの中に球があればの話だが。

「あ、クーミンが叫んでる」

 ふたりの様子を眺めていたうさぎがふと呟く。たしかにクミが先輩に何かを訴えているようにも見えるが、口にしている内容まではこの距離からは把握できなかった。だが、うさぎの並外れた聴力であれば、聴きとれるかも知れない。

「何て言ってるか分かる?」

「『やめてください』って……」

 今回は事前調査のための現地入りだったはずだ。しかし、せっかちな先輩は静止も聞かず、ここで一気に決めてしまうつもりか。

 その時――うさぎが「あっ」と声を上げた、と同時に、スライム本体から長い触手のようなものが伸びてきて、先輩の身体へとグルグルと巻きついた。そいつを引き剥がそうとしてか、必死に全身を捻り手足をバタつかせる。しかし抵抗むなしく、先輩はスライムの“体内”へまるごと引きずり込まれてしまった。

 半透明の物質の中で先輩は苦しげにもがいていたが、やがて琥珀に閉じ込められた昆虫のように、その動きを止めた。

「先輩!!」

 僕はつい声を上げ、助けられるわけもないのに、思わず先輩のところへ向かおうとするが、小糸さんに冷静に引き止められた。

「あれを見てください」

 バリケード越しに、クミが必死な形相でこちらへと走ってくるのが見えた。

 彼女の背後には、津波のように穴から溢れ出したスライムが迫ってきている。スライムはクミを追いかけながらその型を変形させ、それはまるで十数体の人間の姿にも見えた。

 僕は慌てふためき、うさぎは「ひょろろろろ」と変な声を出して震え出したが、小糸さんは至って落ち着いているようだ。

「これで迎え撃ちましょう」

 僕とうさぎに水鉄砲を手渡すと、自らも高圧洗浄機のタンクを背負い、小糸さんは防壁の向こう側へ向けてノズルを構えた。

 何とか逃げおおせたクミがやっとのことでバリケードに辿り着くと、それと同時に、迫り来るスライム共が僕たちの射程距離に入った。

「撃ってください!」

 小糸さんの号令に従い、僕たちは一斉に射撃を始める。

 人型に変形したスライムを狙って何度かアルコールを浴びせると、それは型を失って元の粘液状に戻るようだった。

 うさぎは泣きそうな顔こそしていたが、狙撃の照準は意外に正確である。

 初めは思いの外簡単に撃退できるものと思ったが、その後ろから次々と人型が現れるため、その都度倒していく必要があり、全く気が抜けない。

「マコさんが……私のせいで……」

 スライムから逃れたばかりのクミが、僕らの背後にしゃがみ込み、何か責任を感じて落ち込んでいるようだった。

「うぎゃああっ!」

 隣りにいたうさぎが叫び声を上げる。人型スライムが目の前まで迫り、バリケードにその手をかけていた。

 僕は慌てて水鉄砲を連射する。やがてそれはドロドロに溶けて地面に吸い込まれるようにして消えていった。

「ちょっとミチスケ!ちゃんと前見てよ!」

「ごめん……」

 チビパンダ小学生に叱られて、僕はただ詫びるほかない。どうやら後ろにいるクミに気を取られていたようだ。

「クミさん、あなたも攻撃してくれませんか?」

「あ……はい!」

 小糸さんのどこか叱咤を含んだ呼びかけに、クミは一瞬にして気を取り直したのか、すっくと立ち上がり、そそくさと迎撃の配置についた。

 僕は小糸さんの采配ぶりに、とても心強いものを感じていた。普段は穏やかなのに、危機的状況になると変貌するタイプなのかも知れない。先輩亡き後、皆を引っ張っていくのは小糸さんを置いてほかはいないだろう。なお、先輩はまだ死んでいないと思う。多分。

 攻撃にクミが加わったことで、スライムが立て続けに襲ってくることも少なくなった。そうして迎撃に若干の余裕が生まれてきた頃、小糸さんが皆に声をかけた。

「これから、先輩さんの救出を考えなければなりません」

 早速クミがその言葉に応じる。

「それについては、爆弾を使うのはどうでしょう?マコさんが囚われているスライムの本体?あの下のほうに“トマト”をセットします」

「それだと先輩は危なくないの?」

 僕が心配を口にすると、すぐさまクミは返す。

「通常の爆弾でなく、中身はアルコールなので、ある程度離れた場所で爆発させれば大丈夫です。ただ――」そう言って少し考え込む「あの球が大丈夫かどうかは……」

「あ、やっぱり球はあったんだね?」

「はい。青い球が浮かんでました」

「だから、球があるよって、最初からうさぎがゆってるじゃん」

「青い球が壊れるかどうかですけど――」

 むくれるうさぎを尻目に、小糸さんが口を開く。

「ホテルにあった赤い球については、恐らく先輩さんと私しか触れてないと思いますが、ガラスでもプラスチックでもゴムでもない、よく分からない固くて軽い素材で出来てました。青い球も同じ素材で出来ているとすれば、そう簡単には壊れないとは思いますけど……」

 球も心配だが、まずは先輩を助けることが最優先ということで皆が合意し、続けて爆弾のセッティング方法についての話し合いに移った。

 なお、この話し合いの間、全員が横並びになってスライムを撃ち続けているということは、補足しておく。

「爆弾は、やはり本体内部にセットする必要があると思うんです。近くまで行けたとしても、あの中に潜り込むのは……」

 クミの言う“本体内部”とは、壁の向こう側の中心に聳える、恐らくスライム本体と思われる存在の“体内”を指している。あそこに潜り込むということは、先輩同様に半固体の中で身動きが取れなくなってしまう可能性がある。

「棒を突き刺すというのは?」

 僕の思いつきに、クミが好反応を示す。

「あ、それいいですね。爆弾を棒の先に結び付けて、それをブッ刺して――」

「自撮り棒は?うさぎ、場所知ってるけど」

「いや、自撮り棒はちょっと短いかなあ」

「物干し棒は?うさぎ、あそこで見たけど」

「物干し竿ね。うーん、長さ的にはいいけど、ちょっと重いかなあ」

 その後も続く綿棒やうまい棒といった無駄提案をクミが軽くいなしていると、小糸さんが次なる商品をお勧めしてきた。

「突っ張り棒はどうでしょう?2〜3メートルほどのものが、この近くにありました。プラスチック製で軽いと思います。いかがでしょうか?」

「ああ、それならいいかも知れません」

 クミの同意を得ると、すぐさま小糸さんは背中のタンクを降ろし始めた。

「じゃあ、ここは一旦皆さんにお任せして、早速取ってきますね」

「あ、私が――」

 クミが身重の小糸さんを気遣い、代わりに出向くことを提案した。

「いえ、すぐそこですし、場所も私ならすぐ分かりますので」

 小糸さんはこんな状況にもかかわらず丁寧にお辞儀をしては、突っ張り棒確保へ向かっていった。

 やはり棒を使った爆弾セットの実務は、今のメンバー的にクミの仕事になるだろう。残る3人はうまく出来るか分からないが、後ろから援護射撃をすることになる。その辺りが現実的な布陣といえるだろうか。

 この先の作戦のことを考えながら、僕はふと目の前に意識を戻す。

 それにしてもこの迎撃は、キリのない作業である。

 人数がひとり減ったものの、皆慣れてきたようで、何とかバリケードまでは攻め込まれずに済んではいる。ただし、倒すのにさほど苦労しない割には、その都度スライムが沸いてくるので、何か恐ろしく単調なFPSをやっているような気分になる。

 なお、このバリケード防衛は、そんなに長く続けられるものではない。子供用プールの酒がいずれ枯渇するからだ。もう既に幾度か水鉄砲のタンクへの補充をおこなっているけれど、当初よりもプールの水嵩がかなり下がってきたように感じる。

「およ?あそこに何かいるよ」

 初めはうさぎの示す存在が確認できなかったが、少しして、壁穴周辺で煮こごりのように堆積する粘液の内に、何か黒い影が蠢いているのが見えてきた。

 それは床に広がるスライムをつたって、次第にこちらへと近づいてくるのが分かる。

「何だろう?あれは」

 黒い影は、僕が呟いたタイミングで、突如立ち上がった。それはまるで人の形に見える。これまで戦ってきた人型スライムというわけではない。人間の身体全体を、粘液が覆っているようだ。半透明の粘液越しによく見れば、中の人間は全身肌色であり、服を何もまとっていないように思える。

 それは仁王立ちになってその場に留まっていた。僕たちは息を呑んでそれを見つめる。やがて時間の経過と共に、その存在は動きを見せた。

「こっちに歩いてきてる……」

 うさぎが怯えた様子で声をこわばらせる。それはこちらへ向かって、一歩一歩ゆっくりと足を進めていた。そしてそのまま、僕たちの射程距離まで到達したのだった。

「やだやだやだやだ!」

 怖がるうさぎがそいつに向けて水鉄砲を連射する。

 僕とクミもそれをターゲットにして射撃するが、これまでの人型スライムのようには倒すことが出来ない。

 全てがスライムで構成されているのではなく、その表面を覆っているだけと思われるので、アルコールでは中の本体まで溶かすのは不可能なようだ。さらには時間が経つと、溶けた表面が他の場所から補填され、再び粘液に覆われるという回復の動きも見られた。

 それでも今は、僕らにはこの攻撃方法しかない。

 皆で一斉にその頭部を狙った時、表面のスライムが溶けて流れ、中の人間の顔があらわになった。

 その生気のない表情に覆われた顔貌に、僕は見覚えがあった。

「……五味君!」

 クミが急に持ち場を離れ、バリケードの前面へと走り出た。そしてそのまま五味君らしき存在へと近づいていく。

「マサヒロ……?」

 クミが手を伸ばすと、五味君も彼女を受け入れるかのように両手を広げる。

「クミちゃん!ダメだ!戻るんだ!!」

 僕の呼び止める声が全く聞こえていないのか、クミは引き寄せられるように前へと足を進める。愛する人が復活した喜びに心を囚われてしまったのだろうか。しかし僕から見れば、五味君は“復活”などしていない。ゾンビとして蘇ったわけでさえない。ただ人形のように、スライムに操られているとしか思えないのだ。

 僕の静止をよそに、クミはついに五味君の目の前に立った。待ち構えていたように彼はその両手でクミを強く抱きしめる――と共に五味君を覆う粘液があたかも伝染のごとくクミの身体にも広がっていく。やがて彼女の全ても粘液に覆われてしまった。一体の緑色の塊と化したふたりは、そのまま床に広がる粘液の絨毯へと倒れ込む。そして何かに引きずられるように、ズルズルと壁穴のほうへと向かっていった。

 僕とうさぎは、何故だか分からないが攻撃の手が動かず、その様子をただ唖然として見つめるばかりだった。

 スライム側からの侵攻もそこで止まり、床を覆う粘液は潮が引くように壁穴まで戻っていった。

 突っ張り棒を抱えた小糸さんが戻ってきた時、彼女は僕とうさぎの呆然とした姿を見て、当惑した様子だった。

「あの……クミさんは……?」

 小糸さんの問いかけに、僕は何も言わずに壁穴のほうへと目を向ける。

 穴の向こう側に聳える巨大スライムの頭部に、青い球を囲むようにして、それは浮かんでいた。

 そこには向かって右から、先輩、五味君、クミの3人の姿があった。

 彼女らはホルマリン漬けの標本のように浮かびながら、まるで青い球を守護しているかにも見えた。

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