4Fx20 会議
長くしなやかな指の間に器用に挟まれた三つの黒いチェスピース。これ見よがしに手首のスナップを効かせた空中旋回の後、それは盤上へ音を立てて打ち置かれた。
「まずはあたしがテケ松と猫娘を天井へ連れて行く」
この場にあまり必要性を感じない気迫をもってそう言い放つと、先輩は皆の顔を鋭い眼光で見渡した。
先輩が勝手に“本部”と命名したインテリア売場の一画には、応接室のようにソファーセットが置かれ、その中心にある低いテーブルの上にはチェス盤が載せられていた。
最も大きく豪華なソファーには先輩が悠々と鎮座し、その左手にはクミ、右側には小糸さんとうさぎがいて、先輩の対面の椅子には僕が座っている。というか、厳密には“乗っている”。
今まさにここでは、我々の今後の行動方針を決めるべく作戦会議が開かれていた。
テーブル上のチェス盤には、ゲーム開始時の配置に従って駒が整然と並べられていたが、先輩はその中から四つの駒を前に進めてから、そのうち三つを盤上に叩きつけた。
どうやらその三種の駒の内訳は、キングが先輩、ナイトがうさぎ、ポーンが僕で、天井に向かう三名ということらしい。前に進めただけのクイーンは、鍋を打ち鳴らす役目の小糸さんであるようだ。
僕が冷蔵庫に閉じこもっていた束の間、空飛ぶ先輩が天井の穴の奥を懐中電灯を使って覗き込み、内部の確認をおこなったそうである。
天井に空いている隙間は匍匐しないと進めないような縦に狭い空間で、先に進むほど縦幅が狭まっている。5〜6メートルほど奥へ進んでいくと行き止まりに見えるものの、そこには垂直に下方へと直径1メートルほどの穴が空いているのが分かったということだ。恐らくスライム共はその穴を這い上がってきたものと推定できる。
その時は一旦そこで調査をやめて、クミと僕をどうやって驚かすかという会議に入ったそうだ。他に決めるべき大事なことがあるのでは?と誰も言わないのか。
先輩はナイトとポーンを人差し指と中指で横倒しにし、Vサインの指の形のまま、それらの駒をズズっと前へと進めてみせた。
僕の中に冷たい何かが降りてくる感覚がした。先輩の所作が示すものに、不安と恐怖を感じざるを得ない。
「あの……それは……僕とうさぎちゃんが天井の隙間に入っていくということですか?」
「まあ、そうなるな」
先輩がこともなげに肯くと、うさぎが「ひいっ」と引きつった声を上げた。スライムに襲われたことへの恐怖心をまだ引きずっているようだ。少なからず同じ思いを持つ僕は、探るように問いを続ける。
「そしたら……ふたりでその縦穴を降りて……」
「いや、あの狭さではテケ松は途中までしか進めないだろう。縦穴まで向かうのはチビ化した猫娘だけだな」
それを聞いたうさぎは小糸さんにしがみつくと、泣き顔になって「やだやだ絶対やだ」と駄々をこね始めた。さすがに少しうさぎのことが可哀想になり、僕は彼女を庇うかのように疑問を投げかける。
「うさぎちゃんひとりで行かせるんですか?もしスライムが襲ってきたら……」
「何、目的を果たしたらすぐに戻ってくればいい」
ん?目的?
壁の向こう側に渡るのではないのか?
「穴にドクミが作った爆弾を放り込むんだよ。縦穴がどの程度の深さなのか、途中で折れ曲がってるかは分からないが、とにかくあの穴に爆弾を――」
「小人化したうさぎしか入れないような場所であれば、水筒を爆弾にする手はありますけど、穴に爆弾を放り込むのはあまりお勧めできません」
そう言い切ったのはクミだった。
「一応、ある程度の衝撃には耐え得るように製作するつもりですが、穴の深さが分からない以上、落下による衝撃がどの程度のものか想定がつかないのです。うさぎが逃げる前に爆発してしまう危険性があります。いや、最大で10メートル程度の高さから落とすことを考えておけばいいんでしょうけど、それをテストする時間もリソースも――」
「穴の深さは事前に確認するとして、起爆はどうするつもりだ?時限式?」
差し挟まれた先輩の質問に、クミは空で方程式を解くかのように頭上へと目線を巡らせる。
「そうですねえ……やっぱりマコさんは“二の矢”も考えてますよね?」
二の矢?何だそれ?
先輩はニヤリと悪巧みめいた笑みを浮かべると、手元にあるルークの駒を掴み、それを盤の中央に据えた。
「よく分かったな、ドクミ。そう、天井穴からの爆破が不足ならば、もう一つの爆弾で下の壁も爆破する。出来るだけ一気に勝負を決めたいからな」
中途半端な壁の破壊は、スライム側を無駄に挑発するだけとなることを先輩は懸念しているようだ。壁の穴(パスタ屋ではない)が開通しなければ、攻め込まれても防戦一方にならざるを得ない。ただ、先程の爆発については特に何の反応もなく、それが少し不気味ではあった。
ルークの駒はやはりクミのつもりのようだ。彼女が第二の爆弾のセッティング担当ということだろう。
なお、今回の作戦会議にチェス一式(ホビーコーナーでたまたま見つけたやつ)を用いている理由は、先輩によれば“ムード作り”だそうである。大したことのない作戦でも、それっぽくなるはず、だそうだ。
「起爆の方法についてはリモートも考えたんですが――」クミが思案顔のまま考えを口にする「ラジコンカーを見つけたのでそれをアレンジしたりして――でも天井の穴に設置する爆弾については距離も読めないし、そもそも厚い壁越しでのコントロールが必要になる。それだと電波が確実に届くのか心配です。有線式にするとしても相当な長さのケーブルが必要で……やはりタイマー式が妥当ですかね」
「なるほどな」ソファーにふんぞり返っていた先輩がそこで身を乗り出す「で、二つの爆弾を作るのにどれぐらいかかる?」
「そうですねえ……まだ若干の調整は必要ですが、爆弾は試作品があるし……丸一日あれば何とか……あ、一日というのはおよそ十時間程度を意味しています」
クミは、今の状況においては認識に齟齬を招きがちな“一日”の概念を厳密に言い直した。
「あの、ひとつよろしいですか?」
小糸さんが僕のほうを見て右手を挙げている。また僕のことを司会者だと思っているのだろうか?先輩中心に話が進んでいることは明白なのに……と思いつつも仕方なく僕は小糸さんに発言を促した。
「天井の穴への爆弾のセッティングは、釣り糸で縛った爆弾を釣り竿にぶら下げて、こうリールを使って下ろしていけばいいと思うんです。フィッシングコーナーにありましたから」
「釣り竿を使わなくても、ロープで縛った爆弾を下ろせばよくないですか?」
僕の疑問に、小糸さんは怯えた顔のうさぎをチラリと見てから答える。
「そうなるとその作業は、縦穴まで行けるうさぎさんがやることになりますよね?」
たしかにそれをうさぎに任せるのは心配である。爆弾を穴の底へと一気に落としかねない。
ロープを穴のヘリに引っ掛けて、離れたところから下ろしていくやり方もあるとは思うが、これはこれで爆弾に与える衝撃や振動が心配である。
「うさぎさんは釣り糸を結んだ爆弾と釣り竿の先を穴の上まで持っていくだけです。それをテケ松さんがリールで下ろしていけば――」
「ただ、それだと釣り竿が爆弾の重さに耐えられないんじゃないですかね?クミちゃん、爆弾ってどのぐらいの重さかな?」
僕の問いかけにクミは「2〜3kgぐらい」と答えた。
「ふむふむ、その程度の重さなら釣り糸は太めのものを使えば大丈夫かな。天井の空洞の正確な寸法の調査なんかも必要ですね。あとは釣り竿を補強して――そのへんは僕がやりましょう」
ようやくやる意義のある仕事を獲得できて僕は少し満足していた。あの虚しい壁削り作業は、クミの爆弾一発により苦行RPGのレベル上げ作業以下に堕したのだ。これでやっと一
「結局、うさぎは穴に入らないとダメなの?」
悲しげに訴えるうさぎのことを「やることが終わったらすぐに戻ってきていいから」などと小糸さんが優しく宥めている。
あの悪魔お姉さんの中に、いたいけな子供の気持ちへ寄り添うような、そんな麗しい感情が存在した故かどうかは分からないが、ともかくうさぎを安心させるような言葉を先輩は口にした。
「猫娘の体はロープで結んでおいて、穴の外にいるあたしがその先を握っておく。最悪何かあった時に素早く穴から引っ張り出せるようにな」
「その、僕のほうは……」
先輩が「ん?そういえばコイツもいたな」という感じで僕を見た。僕のことも忘れずに引っ張り出して欲しい。
「ああ、テケ松もロープに繋いでおくよ。要はお前らはアレだな。鵜飼いの鵜」
うさぎがポカンとした顔で先輩を見上げる。
「ウカイノウッ?」
その後、小糸さんが伝統的な漁法と作戦の安全性を根気よく説明してくれたお陰で、うさぎは爆弾設置作業を渋々承諾してくれたようだった。
次に打つ手はこれで決まったと考えていいだろう。僕はこの会議が終わったら、再び眠りにつきたいと考えていた。側で耳にする小糸さんのうさぎへの語り口は、子守歌のように僕を甘いまどろみの沼へ引きずり込もうとした。
だが「この会議が終わったら俺は寝るんだ」は、“眠れないフラグ”であるとでもいうのだろうか。安息の冷蔵庫への道のりはまだ遠いと言わざるを得なかった……
「爆破がうまくいったとして――」
先輩はおもむろにチェス盤上に手を伸ばすと、敵側の白いポーンを次々と薙ぎ倒していった。
「問題はその後だ」
壁爆破の目的は、壁の向こう側への到達である。
次の階へ向かうための鍵である“球”が、そこに存在する可能性に賭けているからだ。
だが、その向こう側は、我々に幾度も襲いかかってきた、あの粘性を持つ半個体生命体の巣窟であることも予想されていた。
「つまり……スライムとの戦闘になるということですか?」
「まあ、そうだな――」
僕の問いかけに先輩が随分と面倒くさそうな表情で答える。喋ることが面倒くさいのか、これからの戦いが面倒くさいのか、どちらともとれる顔で先輩は続けた。
「向こう側にはスライム共がウジャウジャいる可能性が高い。壁に穴が空いたら、それはもう地獄の釜の蓋を開けたようなもんだな」
言いたいことは何となく分かるが、それはお盆休みという意味ではないのか?だが、僕はこれまでの経験則により、先輩の揚げ足を取って自分の身を危険に晒すようなことはしない。
先輩は再びソファーの背もたれへと寄りかかると、右足のくるぶしを左膝の上に乗せて4の字に脚を組み、尊大な態度で腕組みしては「う〜む」と唸ってみせた。
「武器らしい武器といえるのは、とりあえず水鉄砲ぐらいか……」
「爆弾もう一個作りましょうか?」
クミが「ご一緒にポテトはいかがですか?」ぐらいのタッチで、兵器開発を提案した。
彼女が作ろうとしているのはアルコールの爆弾で、通常入れる釘などの代わりに、酒で満たしたゴム風船を格納することを考えているらしい。
「製作にそんなに時間はかからないと思いますが、先程申し上げた所要時間にプラス2〜3時間を――」
先輩が「分かった分かった。細けえことはいいんだよ」とばかりに右手を振った。
するとまた小糸さんが僕のほうを見ながら手を挙げている。「許可なく喋ってもらっていいんで……」と懇願気味にこぼしつつ発言を促した。
「カー用品売場で見つけたんですけど、高圧洗浄機っていうんですか?車に勢いよく水を吹きかけて洗うやつです。水道じゃなくてタンク式のもあったので、そこにお酒を入れてブシャーっと――」
「お、それいいじゃん」
「うさぎもそれやりたい!」
近い思考回路を持つOLと小学生が思わず乗り気になったが、その一方でクミが渋い顔で小糸さんを見ていた。
「キアリさん、それって電気で動くんですか?」
「あ、すみません……そこはちゃんと確認できてません……」
「電動だと高圧の出力は恐らく乾電池の電力でまかなえるものではないと思うので、多分充電式か直接コンセントにつなぐ筈なんですが、ここに電源は――」
「発電機とかないのかな?」
僕が思いつきで口を挟むと、クミは「この何も分かってない社会の最底辺で残飯をあさるゴミ虫め」という目で僕を見ては(※個人の感想です)、軽く溜息をついてみせた。
「キャンプ用品の売場に発電機があることは確認しましたが、残念ながらそれはガソリンで動かすものでした。ここにはガソリンは存在しません。カセットコンロ用のボンベで発電する機器が販売されていると聞いたことはあるんですけど、残念ながらそれも置いてなかったです」
「ガソリンの代わりに酒を入れるっていうのはダメなのか?映画で観たことあるけど」
先輩もまた適当な思いつきで食い下がった。今回どれだけ酒頼みなのか。ちなみに僕もその場面をSF映画で観た記憶があるが、たしか車のエンジンをかけた途端に部品がぶっ飛んで壊れてしまった筈だ。
「ガソリンにエチルアルコール――エタノールを混ぜて使うという話は聞いたことがありますが、エタノール単体では無理だと思いますね。それと――」理系の星からやって来たプリンセスは、なおも話を続けた「乾電池の電力をAC電源に変換できないかとも考えたんですけど、やっぱり電気工学のほうは疎くて私には無理みたいです。せいぜい爆弾の着火装置を作るぐらいで……」
時限式の着火装置は、キッチンタイマーを改造して作ったそうである。テレビを分解して取り出したトライアックなる半導体を使ってどうこうと説明を受けたものの、僕にはチンプンカンプンだったが、そんなスキルレベルを持ってしても無理なことはあるのだろう。まあ当たり前だが。
「高圧洗浄機が使えれば、こんな身重の私でも皆さんの力になれると思ったんですが……」
小糸さんは、自分のアイデアが失効したかも知れないことに、分かりやすく肩を落としている。
僕からすれば、先輩を空に飛ばしたことだけでも充分功労賞を貰える働きだったとは思うが、そんな小糸さんにクミはフォローの手を差し伸べた。
「いや、確認しないと分かりませんが、手動のものもあるかも知れません。電動よりは威力は落ちると思いますけど……あと高圧にこだわらなければ、キャンプ用品売場に電池式のポータブルシャワーがありました。実際使おうと思ってたんですけどね。勿論本来の用途で」
クミの身体を覆う紫色の鱗粉は、ゴシゴシ洗っても皮膚から止めどなく湧いて出て来るとのことだったので、シャワーを浴びる意味などないのではないだろうか。と思ったが、彼女を怒らせてビンタでもされたら地獄の苦しみを味わうことになるので、そんなことは決して口にしない。
クミの言葉を聞いた小糸さんの表情がにわかに明るい色に変わり、クミの代案提示に対する感謝とキャンプ用品マスターへの絶賛が少しの間続いた。
恐縮しきりのクミが言葉を返す。
「いやいや、キアリさんの提案がなければ、シャワーのそんな使い途思いつきませんでしたよ」
「で、ドクミよ――」先輩がチェスの駒を指でクルクル回しつつ「シャワーに使う酒はどうするんだ?何かに入れとくのか?」
「本来のシャワー用途だと、ポリタンクに水を入れておくみたいですが」
僕はナイスアイデアとばかり、クミの答えに付け加える。
「手に持って運ぶのは大変なので、背負うのがいいかな。探せばそれ用のベルトがあるかも知れない」
「はあ?」
チェスの駒をタバコのように二本指で挟んでは、先輩が「ケンカ売っとんのかワレ」みたいな形相でこちらを見ている。
「妊婦にそんなもん背負って敵と戦えってか?」
先輩は駒を指で挟んだまま僕を差した。よく見るとそれは先程僕の役に使われたポーンだ。
「代わりにお前が背負え」
「あ、あの……僕が背負うと、もう動けないっていうか……」
例によって先輩が醸すオーバーキル気味な威圧感に怯える僕に、小糸さんが助け舟を出してくれた。
「私なんですけど、あまり動かなければ戦えると思うんです。水圧は落ちるかも知れないんですが、シャワーのホースを延長したり。それと……タンクにいちいち詰め込むのも大変なので、一箇所にお酒が貯めてあるっていうのはどうでしょう?バスタブみたいなのを置いて」
「ああ、そうだな。それがあれば水鉄砲への補充にも便利だな。バスタブってどこかにあったっけ?」
小糸さんの発言が先輩の気を逸らしたみたいで、僕はホッとしていた。
小糸さんがうさぎにバスタブという言葉の意味を説明しているさなか、クミがおもむろに僕の後方を指差した。
「バスタブはあの辺で見た気がします。でも、運ぶには重いんじゃないですかね?私とマコさんで運ぶしか――」
かつて存在していた“男手”。それは下半身と共に失われてしまったのだ。
「プールは?プールじゃダメ?」
どうやらうさぎが言っているのは、空気で膨らませる子供用のプールのことらしい。もはや常連となったホビーコーナーで見つけたそうだ。
うさぎの提案は見事採用され、この会議でのアイデア採用数において僕と並ぶ栄誉を手にした。ちなみに僕の採用されたアイデアは「釣り竿は補強したほうがいい」である。
「でもさ、酒が貯めてあるんだったらさ、バケツでこうすくってスライムにバシャーッてぶっかければよくね?」
多分それをやるのは先輩ご本人だけだが、お好きにどうぞという感じで、これも“採用”である。
そこで何か思いついたのか先輩は組んだ脚を戻し、自分の両膝をバシーンと音を立てて叩いた。それから身を乗り出して黒いキングを手に取ると、それを敵側である白いキングの前に決然とした面持ちで置いてみせる。そして会議の面々の顔をゆっくりと見渡した後、このホームセンター世界に向けて力強く宣言した。
「これでチェックメイトだ」
多分だが、先輩はずっとこのセリフが言いたかったに違いない。
バケツが先輩を勝利の確信へと導いたのか、それともそろそろ先輩が打合せに飽きてきたのかは分からないが、この勝利宣言により今の会議をお開きにしようということになった。
ちょうど眠気がピークに差し掛かろうという段階にきていたので、ようやくあの幸せの白い箱に戻れるという成り行きに心が躍った。
最後に今後の各々の作業分担や段取りを確認し、クミの爆弾製作のリードタイムを最大限に考慮して、爆破決行は今から16時間後に決定した。睡眠については、その時刻に合うように各自適宜調整して取るということになる。
やっと会議も終わり、一同解散となるや否や、僕は家電売場へ向かうべく、そそくさと“本部”を後にした。去り際にクミが先輩に何やら話しかけているのが見えたが、僕には関係ないものと決め込んで、あの愛しい冷蔵庫へと脇目もふらずに向かっていった。
「テケ松!!」
遠くで先輩が僕を呼んでいる気がする。気のせいだろうか。気のせいに違いない。これは日常的にパワハラを受けるストレスにより、歪んでしまった精神状態が生み出す幻聴なのだ。そうに決まっている。
「おい、テケ松!!戻ってこい!!」
しつこい幻聴だが、世の中には放っておけない幻聴もある。僕は「はあ〜」と大きな溜息をつくと、先輩の従順なるしもべ妖精としての使命をまっとうすべく、“本部”へと引き返していった。
「ドクミが採寸が必要だって言うからさ」
戻った僕に先輩からかけられた言葉は、一部納得がいかないものだった。
クミが爆弾を製作する上で、あらかじめ天井の隙間の縦幅を知る必要があることは分かる。当然そこに引っかかって穴に投入出来ないと困るからだ。
問題は採寸をする人選である。
まず小糸さんは有無を言わせず除外だ。妊婦に腹這いをさせる訳にはいかないし、何より先輩が飛んでいる間鍋を叩く必要がある。先輩については背中の翼が邪魔をして入れなかったと本人が語っていた。うさぎは本番での潜入メンバーではあるが、ちゃんと採寸なんてことが出来るのか心許ない。
残るは僕とクミである。
結局腹這いで進むわけで、この場合下半身の有無は関係ない。つまり僕をわざわざ呼び戻さなくても、クミがそれをやるという選択肢もあったのではないだろうか?
しかし僕とクミでは今回のミッションへの貢献度が段違いである。本来であれば自分の立場を自覚して、「言われたことは何でもやらせていただきます」という態度であるべきなのだろうが、この時の僕は眠いところを呼び戻されたことで不機嫌の極みであった。
「あの……その採寸はクミちゃんじゃダメだったんですか?」
「ああ?」
また先輩が阿修羅モードにシフトチェンジし、一瞬にして僕は自分の発言を後悔した。さすがに殴られることはないだろうが無意識に身を固くすると、先輩がぼそりと一言口にした。
「重さだよ」
なるほど僕は、先輩による天井への運搬を計算に入れてなかった。
僕やうさぎであれば抱えて飛ぶことが出来るが、クミの重さでは難しいというところだろう。
クミを見るとやはり女の子だと言うべきか、重めな扱いをされた恥ずかしさと先輩に説明されないと分からない僕の無神経に対する苛立ちで、こちらを睨んでいるような気がする。恐らく女性というものは、風呂を覗いた犯人にこういう顔をするのかも知れない。
こうして採寸オーディションに見事勝ち抜いた僕は、先輩に抱えられて天井へと飛ぶことが決定した。
安息の冷蔵庫への道のりは、またひとつ遠ざかった。
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