4Fx19 収縮

 僕が落ちたのは案の定と言うべきかマットの上だった。

 クッションは相当厚めにはなっているものの、高い所から落ちればそれなりに痛い。

 しかしそれが気にならないほど、僕は目の前で展開されたあり得ない光景に見入っていた。

 黒く輝く翼を背中から左右へと大きく広げ、宙空にその肢体を浮かべて不敵に笑う半裸の女。

 その姿は息を呑むほどに神々しくもあり、一方でどこかしら凶々しい邪悪さを纏っているようにも感じた。

「せ、先輩、飛べるようになったんですね」

 マットの上に寝そべったまま、僕はまるで工夫のない一言を述べる。気の利いたことが言える状況ではない。むしろここでどんな気の利いたことが言えるというのか。「おやおや、あなたの重力は今頃ベッドでお休みですか」とでも言えばいいのか。

 小糸さんが厨神楽をまだ続けている。もしかしたら先輩が飛び続けられるのは、鍋を叩いている間だけなのかも知れないとも思う。

 そのとき突如後ろから「ひっ」という短い悲鳴が聞こえてきた。クミの声だ。何事かと彼女のほうを振り返ると——高さ50センチほどの白い物体が、クミへと向かってゆっくりと進んでいるのが見える。その後ろ姿はパンダのぬいぐるみのように思えた。それがヨチヨチと二足歩行で歩いている。

「それ何?おもちゃ?」

 クミは僕の問いかけがまるで聞こえていない様子で、唖然とした表情のままその人形らしきものを見つめていた。ヒョコヒョコと前進するそのおもちゃは、例によってホビーコーナーからのうさぎの収穫物だろうか。先輩が宙に浮かんでいるというこの特異な状況下に余計な要素はややこしくなるから持ち込まないでほしい、などと考えていると、それはクミのほうへと向かう途中でコテンと転ぶようにして倒れた。すると――

「んがー!この服歩きにくいんだけど!」

 転んだ人形が子供の声を上げた気がした。いや、今どきのぬいぐるみであれば、言葉をしゃべるものもあるだろう。転んだら地面に手をついて再び立ちあがるぬいぐるみも……まああるだろう。立ちあがった後にほこりを払うために膝をパンパンしたりするぬいぐるみも……もしかしたらあるかも知れない。こちらを振り返って「あれ、ミチスケいたんだ」と言うぬいぐるみも……あるわけがない。

 よく見ればそれはパンダの人形ではなく、幼児に着せる類の着ぐるみだった。顔の部分が切り抜かれていて、そこから幼い顔がのぞいている。パンダのくせに猫のような眼——その顔はまさにうさぎのものだった。

 たしかうさぎは身長130〜140センチぐらいの筈である。当然今の僕よりも高い。その身体が50センチ足らずの着ぐるみの中に収まっている。一体これはどういうことなのか。

「えーと……うさぎちゃんなの?」

 そのうさぎらしき生き物は僕の問いに答えようとしてか一旦こちらを見たものの、すぐさま上へとその目線を移した。反射的にそれを追うように僕もその方向へ目を向ける。すると頭上からバサバサッと音を立てて黒い影が下りてくるのが見えた。

 ここで唐突に、重篤なる悪疫に罹患せし中学生男子風に言えば――漆黒の翼を湛えし悪逆の堕天使せんぱいが、この腐敗した世界へと舞い降りんとしていたのである。

 しかし彼女は宙空より華麗に着地するかに思えたものの、地上2メートル程の高さで突如慌てふためくように両手両足で宙をかき始めた。急に浮力が失われてしまったのだろうか。下着姿の先輩は、ナイトプールで溺れるビキニギャル(陰キャなりの想像)の如き様相のまま床の上へと落下していく。着地の際、咄嗟に受け身をとったが、それでも尻を激しく打ちつけた様子だった。

 堕天使は漆黒の黒下着に包まれし臀部をさすりながら、もう片方の手で漆黒の黒髪をかきあげると、顔をしかめて漆黒の黒言葉を吐いた。

「クッソ……」

 チビうさぎがケラケラと笑っている。

「マコセンかっこ悪い〜」

「うっせーな、まだ操縦に慣れてねーんだよ」

「着陸はやはり難しいんですね」

 いつの間にか小糸さんがそばに立っていた。右手におたま、左手に鍋を携えている。厨神楽はやめてしまったようだ。

「ギャー!何でやめちゃうのー⁉︎」

 チビうさぎが叫びながら慌てたように走り去っていく。それを見た小糸さんが「あら、ごめんなさい」と自分の口に手をやった。

 僕が状況をうまく把握できずに戸惑っていると、きっと頭の回転寿司が皿消失レベルの速さを誇るクミが、小糸さんに対し的確な質問を投げかける。

「つまりうさぎは、キアリさんが鍋を叩いてないと元の姿に戻ってしまうということでしょうか?」

「ええ。でもあんなに慌てなくても……10分ぐらいは大丈夫かと――」

「あのー、えーと、それはつまり――」

 飲み込みの悪い僕はまるで要領を得ない問いかけ方をしてしまうわけだが、それでも優しい小糸さんはこんな鈍重なる市川鈍重郎(※OG)に対し丁寧に説明を施してくれた。ただ少しだけ自己弁護をさせてもらうならば、このような状況――人が空を飛んだり縮んだりする――で、疑問を持つべき点と考えずに受け入れるべき点との線引きがよく分からなくなるのは普通の感覚じゃないんですかどうなんですか。(※OG:主に中年男性が嗜む滑稽な物言い)

 小糸さんによれば、要するに厨神楽によって先輩が飛べるようになっただけでなく、何故かうさぎの身体も縮んでしまったということだった。先輩とうさぎのその特殊な状態は、小糸さんの「演奏」の間継続するが、それをやめると徐々に元の状態へと戻っていくらしい。何故うさぎが慌てふためいていたかというと、あのまま元のサイズに戻ってしまうと、着ぐるみがはち切れてしまうからということだった。つまりは身体のサイズが変わる度にいちいち着替えが必要だということになる。

「慣れてくれば厨神楽がなくとも飛べたり小さくなったりできると思います。高祖母がそうでしたし」

 小糸さんはその根拠はよく分からないが、相変わらずの自信満々な口調で断言をした。不思議と小糸さんがそう言うんだからきっとそうなのだろうと思えてくる。

 なお、彼女の説明を聞いていて、僕はひとつの謎の解明へと辿り着いていた。5階にいた時から少しばかり不思議に思っていたことだ。まあ、この度の山ほどある不思議現象のひとつに過ぎないけれども。

「それであの、ホテルの部屋で――」

「要するにそういうことだ」

 先輩が突然話に割って入ってきて、キッパリと言い切った。小糸さんが「そういうことなのです」とばかり頷いている。この人たちは僕に話をさせる気がないのか。

「たしかうさぎは誰もいない部屋から出てきて……」

「ああ、猫娘はあの時サイズダウンした状態でベッドと壁の隙間に挟まっていたってわけだ」

 クミの言葉に対して先輩はあっさりと説明を返した。それは僕が出した推論と同じだ。

 しかし目覚めにつれて身体のサイズが戻るのであれば、あの細い隙間で窮屈どころでない状態に陥るのではないだろうか。もしかするとベッドは部屋に固定されているのではなく、動かせるものだったのかも知れない。今となっては確認する術はないが。

「本当はさ、ドクミだけを驚かそうとしてたんだよ。あたしが空飛んで小さい猫娘がやってきたらドクミが『ギャー』とかいうやつ。それでその時の経験や反省点を活かしつつ第二弾としてテケ松を驚かすっていう段取りだったんだけど、どっかで寝てると思ってたテケ松が出て来ちゃったんだよな……つうか、寝てろよ」

 先輩が舌打ちしながら僕を睨みつける。

 いやいやいやいや、僕は今理不尽この上ない怒られ方をしているぞ。しかもそんなしょうもないドッキリみたいなものを二回に分けて入念にやる必要があるのか。

 僕が抗議の意味を込めて「先輩は今の状況分かってんすか」的なことを言おうとすると、小糸さんがスルッと問いを挟んできた。

「あのーテケ松さんはどこにいらしたんでしょうか?この近辺には見当たらなかったので」

「え、えーと、その、家電売り場に……」

「ん?そこは見たけどお前はいなかったぞ?」

 怪訝そうな顔をした先輩の言葉に「たしかに」とばかり小糸さんが頷いてみせる。

「あの、僕は、冷蔵庫の中に入ってまして……」

 どこか詰問じみた先輩の口調に気圧されて、悪いことをしていたというわけでもないのにおずおずとした態度で答えてしまう。

「……なるほど冷蔵庫か。そこは盲点だったな。ドラム式洗濯機の中は見たんだけどな」

 先輩は納得したように語りつつも、ふと気配を感じたのか背後に目線を送る。そこにはTシャツとハーフパンツに着替えたうさぎが、元のサイズになって戻ってきていた。

「うさぎは電子レンジと炊飯ジャーの中も見たよ」

 小糸さんがうさぎを「着眼点は良かったが惜しかった」と慰めていたが、子供というものはそのように育てていくべきなのだろうか。そもそもサイズ的に僕が入るのは無理だろ。

 その後、先輩とうさぎの能力開花とクミの爆弾開発の成功を踏まえて、ここへ来てから何度目かの作戦会議を本部にて開催することとなった。

 僕にとっては依然睡眠の時間であったわけだが、そんなことは誰も気に留めてないし、それを言い出せる空気でもなかったので、僕はちょこまかと皆の後ろをついていくしかなかった。

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