4Fx15 宗教
車窓を流れてゆく田園風景を、少女はただ見つめていた。初夏の青空の下、水田の稲穂は緑になびき、山々が遠くでその淡い稜線を連ねている。
乗客もまばらな列車のボックス席に、学校制服を着た女子中学生と、その母親が向かい合って座っていた。
母親はおもむろに少女の手を取り、胸中の心苦しさを隠せないまま、そっと言葉を添える。
「ごめんなさいね。わたしのせいで……」
仲の良い友人への別れの挨拶もままならない状況での、突然の出立だった。
携帯電話や電子メールが普及し始めたといっても、子供たちが日常的にそれを使い出すにはまだ至らない時代である。
深夜にもかかわらず少女は数人の友人の自宅へと電話をかけ、突然いなくなることへの謝罪とこれまで仲良くしてくれたことへの感謝の言葉を一方的に述べた。すでに就寝したという理由で本人への取次ぎを断られた場合は、その家族へと言づてを頼んだ。
翌日早朝の出発であったし、行き先を伝えることもその後連絡を取ることさえ禁じられていたので、今はその電話連絡でしか彼女の言葉を伝えるチャンスがなかったのだ。
思春期に差しかかろうという繊細な時期において、親しい友人たちとの唐突な別れは心を引き裂かれる思いだったが、少女は口をついて溢れそうな恨み言をグッと飲み込み、意志を持った強い眼で母親を見据えた。
「私は当然まだまだ世間知らずな子供です。でももう色んなことを理解できる年齢だとは思っています……何があったのか、ちゃんと話してくれませんか?」
母親は少女の大人びた物言いに少し驚いたように目を
「そうですね……分かりました。どこから話せばいいでしょう――」
大正初期、長野のとある農家の嫁が神がかりとなった。その嫁の名を初江と云う。
初江がその農家に嫁いで間もない頃、突如就寝中に、何かが取り憑いたかのように不可解な言葉を語り出し、ある日を境にその奇怪な挙動が毎夜続いた。初江自身、睡眠時のことを一切覚えておらず、始めは単なる寝言と考えて放置していたものの、幾日経過してもそれが一向に治まらないために、家族たちも次第に気味悪がるようになった。近隣の医者に相談しても特に解決策は見当たらず、じきに初江はひとり離れで寝ることを強いられ、やがて夜だけでなく日中でさえも家族から疎んじられるようになっていった。さらにはその噂は村中に広がり、他の村人たちからも不気味なものを見るような目を向けられていたのだ。
彼女自身、じきに眠ることを恐れるようになり、それは結果として慢性的な寝不足へとつながっていく。ある日、初江が農作業の合間の休憩のために田んぼの畦に腰掛けていると、抗えない睡魔に襲われていつの間にか眠ってしまい、そこで例の「寝言」が発現したのだった。話には聞いていたがそれを初めて目にした周囲の者たちは、彼女の鬼気迫る姿に怯え、子供の中には泣き出す者もあった。
そんなところに、どこから来たとも知れぬひとりの見すぼらしい老婆が通りかかった。老婆のまとう装束は山伏のそれであったが、その袈裟は長年の修行によってかひどく薄汚れていて、あちこちに穴の空いたぼろぼろの身なりである。老婆は、錯乱したかに見える初江へと恐れる様子もなく近づくと、耳を傾けてその言葉を聞き取る素振りを見せた。やがてその皺に覆われた顔が驚愕の表情に変化し、初江に対しうやうやしく手を合わせる。そして声をしぼり出すように、しわがれた叫びを上げたのだった。「これは……神のお言葉なり!」
その後、初江はこの田んぼでの一件により心神を打ちひしがれたのか暫く寝込んでしまい、彼女が床に伏せっている間、離れへと居座った
家族たちは、もはや厄介者となった初江の世話を自ら望んでやってくれるのをいいことに、うす汚ない見目姿をした老婆の滞在を、数日のあいだ黙認していた。だが、やがて初江の体調が回復すると、老婆に対しこの家を早々に出て行くよう、家族たちは初江から伝えることを命じたのだった。しかし、優婆夷にひとかたならぬ恩義を感じ、すでに家族の中に居場所をなくしていた初江は、そこで優婆夷と共に家を出ることを思い定める。そしてある晩、家族の誰にも告げずに二人でその農家を後にしたのであった。
それから初江と優婆夷の山中での生活が始まった。季節は晩春の頃であり、長らく修験道の行者として生きてきた優婆夷からすれば、山での食糧調達が最も容易い時期である。さらには、初江が嫁入りの折に実家より隠し持ってきた少しばかりの蓄えもあり、寝食にはさほど困ることはなかった。なお、後で発覚することだが、初江はこの時すでにかつての夫の子を身ごもっていたのだった。
そんな人里を離れた場所での暮らしを続けていたある日、優婆夷は熊除けのために鍋をおたまで打ち鳴らしながら、初江を連れ立って山中を歩いていた。
ところで優婆夷が鍋を叩くその拍子は、何とも不思議なものであった。一般的な感性を持つ者であれば、打楽器を打ち続けろと言われれば、通常はある程度一定の間隔を保って叩くわけだが、この優婆夷は違った。速い拍子で叩いたと思えば時に遅くなり、出鱈目に打ち鳴らしているのかと思えば一定の周期があったりする。さらにはそこに民謡とも祝詞ともつかぬ不思議な歌を乗せるのだ。
道中それを聴かされ続けていた初江は、不意に眩暈のような感覚に襲われてその場にしゃがみ込んだ。心配した優婆夷が声をかけようと手を差し伸べると、俯いた初江からいつもと違う声色の言葉が聞こえてくる。それはまさに彼女が入眠中に憑依状態となった時に発する「神のお告げ」であった。
その際の初江は驚くことに舌の上に神の言葉を乗せながらも、自分の意識を保つことができていたのだ。その発見に興奮した優婆夷は、それから幾日も初江と手探りを重ね、ついに特定の歌と鍋による拍子の組み合わせが、神の召喚に至ることを見い出したのである。その頃には初江の入眠時の憑依もすっかり治まっていた。
優婆夷と初江が幾度も繰り返した「実験」は、とにかく騒々しい音を立てるため、山間深くといえどその音は時に裾野にまで届き、麓の村々で二人のことは次第に語り草となっていった。なお、二人はその時、山伝いに長野からすでに岐阜の辺りへ居を移しており、元々は定住地を持たず流浪の暮らしを旨とする優婆夷ではあったが、身重の初江の腹が大きくなってきて、その場所から動くことが叶わなかったのだ。
秋口に入った頃、麓の村で噂を耳にしたひとりの若い男が、興味本位で優婆夷と初江のやり取りを覗きに来た。優婆夷は男の存在に気づくと、それを見咎め追い返そうとしたが、初江ならぬ「神」が彼を引き留めた。神の言葉は、男の抱える病――肋膜炎を言い当て、日々題目を唱え功徳を積むことで快方へと向かうだろうことを彼に伝えた。村へと戻った男は、半信半疑ながらも勧められたとおりに題目を唱えていると、不思議と日増しに病状は良くなってゆき、ついには医者も驚くほどの回復を見せたのだった。歓喜した男はそのことを村中に触れ回り、じきに優婆夷と初江のもとへ次々と悩みを抱える者が訪れるようになった。
「神のお言葉」は続けざまに奇跡を起こし、悩める村人たちを救っていった。やがて優婆夷と初江の二人は、冬が訪れる前に麓の村へと迎え入れられ、そこで人々に崇められることとなる。神を降ろす際に使われるのが鍋やおたまといった調理器具であることから、初江を通じて神より授けられる言葉は、台所を模して「
「それが『みくりや教』の始まりということですね。大枠は知っていましたが、初めて伺うことも多くありました」
娘の言葉に、母親は軽くため息をついては、車窓に目をやる。
「あなたを出来るだけ巻き込みたくなかったから……これまできちんと説明してきませんでしたね」
そう言って、母親は居住まいを正すように座席に掛け直すと、話を続けた。
「あなたからすれば、初江様は高祖母、珠子様は曽祖母にあたります。それぞれ、ひいひいお祖母さま、ひいお祖母さまのことですね」
「お二人とも、わたしが産まれた頃には、もう亡くなられていたと聞きました」
少女にとっては、初江も珠子もモノクロ写真でしか見たことのない遠い存在である。
「ええ。わたし自身も初江様にはお会いしたことがありません。珠子様についても、幼少の頃に少しお話させていただいた程度です」
さらに少女には、少し気になることがあった。みくりや教の創設に対して重要な役割を担ったにもかかわらず、ここで初めて名前を耳にした人物のことだ。
「優婆夷という方はどうなったのですか?」
「優婆夷様は昭和の御代を迎える前に、忽然と姿を消されたと伝えられています。当時すでに二百歳を越えていたなどという伝説もありますが、その御身を隠された時点で、ご自分の役割は終えられたとのお考えだったのかも知れません。その頃には『みくりや』も、次の段階に入っていましたから――」
時代も昭和に入り、みくりや教もその発祥の地である岐阜を拠点として、徐々に全国へと信者を増やしつつあった。すでに優婆夷はその姿を消していたが、初江は優婆夷の助力が無くとも神を降ろすことができるようになっていた。
かつての鍋とおたまによる「演奏」は、今や信者にとっての修練のひとつとなっており、それは「
昭和も幾年かを数え、日本に戦争の足音が聞こえてきた頃、成人した珠子は教団の有能な幹部のひとりを婿として迎え入れた。やがて娘が誕生し、その子は
その頃、国家による宗教への大規模な弾圧が始まったのだ。
まずはその本丸である出口王仁三郎率いる大本教より大量の検挙者が出た。大本のように政治介入の意図もなく、信者の数も数段劣るみくりやであったが、大本弾圧の煽りを食らう形で、教団内から数名の者たちが逮捕されていった。そもそもは、神のお告げによって、来たる大戦での日本の敗戦を予言しており、それが官憲の耳に入ったことで目をつけられたのだった。
表舞台にはほとんど現れることのなくなった初江や、出産したばかりで教団経営の実務からは一時的に離れていた珠子は何とか逮捕を免れたものの、みくりやを中心となって切り盛りしていた珠子の夫が教団の実質的な首謀者であると目され、官憲に捕縛されていったのである。
特高の取調べは苛烈を極めたが、それでもみくりやに不利となるような発言を一切拒んだ彼は、その頑なな態度が必要以上に警察側の不興を煽ってしまい、惨たらしい拷問の果てにその命を失った。その他の幹部たちは、大本との繋がりが認められないことで無事釈放はされたが、彼らも一様に全身が殴打によって腫れ上がった痛々しい姿で帰還したのだった。
特高に目を付けられたという評判は教団にとって致命的であり、恐れをなした脱会者が後を絶たず、みくりやの信者数はそこから激減の一途を辿った。
さらにはこの時、みくりやにとってもはや潰滅的といえる災禍が訪れた。教団施設が不審火によって焼失したのである。そして、施設奥にある神殿にて「神との対話」に没頭していた初江が、その火災により焼死してしまったのだ。なお、建物が跡形もなくなる程の激しい炎上であったために、初江の遺体は焼け跡から見つかることはなかった。
放火事件である疑いが濃いにもかかわらず、警察がまともに捜査をおこなった形跡が乏しく、当時よりこの火災自体が特高による工作だったのではないかと疑われている。
そういった不遇な事件を経て、ほぼ同じ時期に夫と母を立て続けに失った珠子だったが、残された者たちのこの先を考えればただ悲嘆に暮れて天を見上げるだけというわけにもゆかず、娘と僅かに残った信者たちを連れて、東京の深川へと移り住むことを決意した。その土地は元々信者より寄進されたもので、さほど広さはないが、かつて夫が教団の東京展開の拠点にしようと考えていた場所である。
岐阜の田舎では悪評が定着化し、みくりやの活動自体もなかなか立ち行かないようになってきており、教団施設を失ったことを機に、再起を賭けて新天地を求めたのだった。
こうして珠子らの東京での共同生活が始まったのだが、この折、移住の時節としては最悪であったと云える。まさに日本が戦争へと突入しようとする直前の頃であり、上京からしばらくして配給制が始まって、食糧の調達も覚束なくなったのだ。岐阜の土地を売却するなどして多少の蓄えはあったし、市場が冷え切っている中で信者たちが何とか職を見つけだしてきては日銭を稼いだりしていたが、それでもぎりぎりまで切り詰めた生活を余儀なくされたのだった。
やがて日本軍による真珠湾攻撃によって戦争の火蓋は切られ、益々その生活は苦しくなってゆく。衣類や手ぬぐいさえも切符制による配給となり、厨神楽に使われる金属製の打楽器も、武器の素材とするために軍部に没収されていった。
そんな困窮を極めた戦中生活の果てに、ついに東京は、米軍による大空襲に見舞われる。焼夷弾の爆撃によって帝都は火の海と化し、数多くの死者が発生した。
珠子らが暮らす深川一帯も一面焼け野原となったが、運よく彼女が信者たちと共同生活をしている家だけは無傷のまま残ったのだった。その建物は川に囲まれた辺鄙な場所にあって、うまい具合に延焼を免れることが出来たのだ。信者らは、かつて火難により身罷った初江が自分たちを守ってくれたものと信じて、天に感謝の祈りを捧げた。
やがて、ようやく日本は終戦を迎えるが、人々の暮らしぶりは依然苦しい状況にあった。そんな中、自分たちも食うや食わずにもかかわらず、珠子の指揮の下、みくりやの信者たちは被災者の救援に奔走したのである。
戦後、地道な慈善活動の甲斐もあって、みくりやはその信者の数を徐々に増やしつつあった。そしてさらに教団が飛躍的に拡大するのは、日本が戦争の痛手から復興し、高度成長期に入った頃である。集団就職によって上京してきた若者たちを、数多く入信させることができたのだ。大都会で孤独に苛まれている若者に対し、みくりやは家族のような存在として彼らを迎え入れていた。加えてこの頃、成人した真名が信者のひとりと婚姻して子をなした。その子供の名を
「ようやくお母さまが生まれましたね」
少女が喜ばしいことを迎えるように、目の前で両手を合わせ、にこやかに笑ってみせた。
「でも、みくりやが東京に来る前に、一度終わりかけたというのは知らなかったです」
「そこから再び立て直すことが出来たのは、ひとえに珠子様の手腕によるものと言っていいでしょう。珠子様は何というか優れた経営の才能をお持ちでした。みくりやは、初江様が種を蒔き、珠子様がそれを育て開花させ、わたしの母である真名様が、その咲いた花を維持させるために尽力した、とでも言えるでしょうか。そして……」
続きを言いかけた彼女は、代替わりに沿う形で花の例えを用いたことを少し後悔していた。それが次の代で枯れてしまうことを暗に示してしまったような気がしたからだ。その気持ちは語らずとも娘に伝わり、少女は視線を車窓の風景へと移してしまう。そこで母親は気を取り直すように、駅のホームで買ったお茶を口にした。今ではあまり見かけないポリ茶瓶である。
「珠子様はみくりやにとって欠くことの出来ない偉大な存在でしたが、わたしがまだ幼い頃に、事故で亡くなりました。静岡の施設へ車で向かう途中、高速道路でトラックの横転に巻き込まれたのです。その時運転していたのが、私の父でありあなたのお祖父さまでした……そうです。私の母も、まさに珠子様と同じ運命を辿ったのです――」
珠子と同様に、若くして母と夫を同時に失った真名に対し、教団を維持する重責が否応なくのし掛かってきた。戦前の頃とは状況が異なり、教主たる母の葬儀は盛大に執り行わなければならず、真名は心痛に堪えながらも中心となってその采配を振るう必要があった。
彼女はそのまま、みくりや三代目の教主の座へと就くことになったわけだが、葬儀の折に信者たちが真名に対して感じた印象は大きく分けて二種類あった。それは母と夫の死という不遇に耐えてでも立派に責務を果たそうとする気丈さと、それとは逆に、肉親の不幸に泣き崩れることもなく教団の運営を手際よくこなしてしまう薄情さである。その印象はみくりやの行く先に、仄暗い影を落とすことになった。
その後の真名は、まずは教団の組織改革に着手した。珠子時代にみくりやは大きく成長したが、教団内部の運営はその速度になかなか着いて行けず、そこに様々な滞りや歪みを生み出していた。真名はそこに大胆にメスを入れたのである。結果、組織内の風通しは良くなり、教団の意思決定も迅速におこなわれるようになった。
だがその一方で、珠子が教主としての強権を以って改革を執行してゆく手際は、その若さ故か特に古参の信者たちからの反発を生み、これまでのやり方に慣れ親しんできた者や、既得権益にしがみついていた者たちからの遺恨を残したのだった。
ところで、恵寿奈にとって、母である真名と親子らしい関わりを持った記憶はほとんど無かった。真名も、珠子と同様に夫を早くから失った後、再婚することも無く教団の運営に全身全霊を捧げてきたのだ。
唯一の接点といえるのは、断続的におこなわれた厨神楽の指導である。信者たちに伝えられているのは、実はオリジナルから若干アレンジされた効果の無いやり方で、本来優婆夷から初江に施された方法とは異なっていた。周囲に対しその事実を秘匿したのは、この手法が他の宗派に利用されることを恐れたことと、それが信者たちに与える影響度合いが読めなかったことがその理由であり、それ自体はそもそも優婆夷と初江の間で交わされた取り決めであった。真名から恵寿奈へと伝えられたのは、真の厨神楽と呼べるものであり、それは初江の代からの一子相伝の秘術だったのである。
厨神楽の指導は、常に真名と恵寿奈だけの一対一でおこなわれた。そこでの二人の関係は、母娘というよりもまるで教師と生徒のようであった。その時二人は終始丁寧語で言葉を交わしており、今の自分の娘に対する言葉遣いもその際の名残と云える。
真の厨神楽は、恵寿奈に対して驚くべき効果を見せた。それは、己れの意識を保ちながらも憑依状態となって、別の存在がその者の口を使って語り出す、という現象を可能としたのである。歴代教主である珠子と真名は二人共に、自分とは違う何かが身体に入ってきたような感覚を持つまでには至ったのだが、それが言葉を話すということはなかった。まさに恵寿奈は、初江以来の憑代であることが分かったのだ。
真名はしかし、恵寿奈が「神の言葉」を語り得るという事実を周囲から隠し、恵寿奈本人に対しても固く口止めをした。それは、教団組織と、しいては娘を守るためであった。
現体制に対して不満を持つ者の中に、「復古派」と呼ばれる連中が水面下で動き始めているということを真名は耳にしていた。彼らは、神の言葉を告げることのない珠子や真名らを教主を騙る紛い物と見なし、本来崇めるべき対象は憑代としての才を有していた初江であると主張しているらしい。
恵寿奈に能力のあることが明らかになれば、連中は彼女を祀りあげ、教団の中心へ据えようとするだろう。しかしそれは真名がおおよそ望まない前途であった。
戦争が終わり、日本が復興に向けて邁進していた時代――それは真名が青春期を過ごした頃と重なっている。当時、彼女の目に映る同じ年頃の少女たちは、旧時代の
だが真名にとって、彼女自身が望む自由は存在しなかった。そのとき真名の全てはみくりやに捧げられていたのだ。
特にそれを誰かに強制されたわけではなかったが、次なる教主と周囲から目され、あらゆる苦難に立ち向かう母の背中を見て育った真名は、教団の運営に対する強い責務を一身に感じ、自らをみくりや教へと強く縛り付けていた。みくりやのために、有能な幹部との気の進まない結婚にも踏み切ったし、珠子が亡くなった折には、教団の危機を乗り越えようと自ら先頭に立って指揮を執った。
しかし、そんな振舞いとは裏腹に、娘の恵寿奈には教団には囚われずに自由に自分の人生を歩んで欲しいと願っていたのである。彼女自身が叶えられなかった夢を我が子へと託したのだ。
真名は恵寿奈を、みくりやから出来る限り遠ざけることに腐心した。娘を教団施設へ連れて行くことは決してせず、みくりやの誰とも会わせることをしなかった。信者たちには恵寿奈が知的障害を持つ子供であるかに思わせ、彼らが娘の扱いを不審に感じないよう気を配った。小学校からは教主の息女であるという事実を隠したまま全寮制の学校に入学をさせて、恵寿奈とみくりやの関係を周囲に悟られずに学園生活を送ることが出来るよう配慮した。恵寿奈自身も特に説明がされていないので、自分の出自について語るべき言葉を持っていなかった。表向きは、母親はシングルマザーの会社経営者で、多忙なために娘の教育まで手が回らず、やむを得ず全寮制の学校に入学させた、ということにしていた。ただし、これについては、全てが嘘というわけではない。
そんな恵寿奈も、成長するにつれて自分を取り巻く状況が次第に分かってきたのだった……。
「……わたしは当時よりこれまで、自分がみくりやから遠ざけられたのは、わたし自身が教主の娘として能力不足であるから、さらには……母である真名様に愛されていないから……と考えていました……でもそれは……実際とは違って……」
母親は溢れそうになる感情を堪えるように、最後まで言葉を紡ぐ前にその目を伏せた。
少女は何かを察したかの表情を見せると、そこで母親の手を取り、ゆっくりと彼女に問いかける。
「お祖母さまと会われたのですね?」
母親は何も言わずただ頷いてみせた。
少しの時間沈黙が続き、二人の間に列車の走行音だけが流れている。やがて車窓からの景色は、山間の木々の緑へと変わっていった。
しばらく手を握られていた母親は、その手をやさしく少女の膝の上に戻すと、心を決めたように顔を上げ再びその口を開いた。
「……真名様は、わたしにその本当の想いを語ってくれました。わたしはずっと誤解していたのです。真名様はわたしに対し、心から詫びてくださいました。そしてベッドの上の真名様と手を取って、二人で涙したのです……」
「……ベッドの上……ですか?」
娘が疑問を口にすると、母親は少し悲しげな表情を浮かべた。
「ええ……病院のベッドです……真名様はすでに末期がんの状態で、余命幾ばくもないとのことでした……真名様とお会いしたのは――」そう言いながら、思い返すように窓の外を見る「――かつてあなたを連れて行ったとき――十年ぶりでしょうか……このたび、真名様がわたしを呼び出したのは、あの方がこの世を去る前に、わたしたち親子に伝えなければならないことがあったからなのです」
「親子というと……私にも……」
「ええ……すなわち『逃げなさい』ということを……」
娘は目を見開き、膝の上のこぶしを強く握りしめた。
「『逃げる』って何から……」
「そのことをあなたに理解してもらうには、もう少し話を進めなければならないでしょう――」
やがて恵寿奈は高校を卒業し、地方の国立大学の薬学部へ入学する。そこで知り合った医学部の学生と交際が始まり、卒業後数年してから二人は結婚することになった。
結婚に際して、恵寿奈はそこで初めて彼に対し自分がみくりや教主の娘であることを明らかにした。その頃のみくりや教は、既にしてある程度一般に名の知られる規模になっており、彼は恵寿奈の告白に一度は驚きの様子を見せたものの、そのことが自分の感情や二人の今後の生活に影響を与えることは無いと断言し、彼女の全てを受け入れた。
二人共に大学病院に職を得ていたので、結婚後もそのまま大学のあるその地方に暮らしていたが、やがて恵寿奈は懐妊し、それをきっかけに仕事をやめて家庭へと入ることになった。こうして、結婚生活も軌道に乗り、穏やかで幸せな日々が約束されたものと彼女が考えていた矢先、禍しき黒衣をまとった運命が恵寿奈の下へと訪れたのだった。
医師である夫が、虚血性心不全により突然死したのである。
婚姻して間もない夫との死別は、「みくりやの女」にとって三代続いた悲劇であった。彼女は失意の淵に突き落とされ、しばらくは何も手につかない状態であったが、これから産まれてくる子供のことを考えると、そのままでいるわけにもいかず、恵寿奈は生活を立て直すべく気持ちの踏ん切りをつけた。
彼女はまずは出身地である東京へ戻ることを決意した。周囲からは反対されたし、特に生まれた土地に思い入れがあるというわけではないが、夫との思い出の詰まったこの地を出て、心機一転やり直したいという気構えの表れだった。
このとき、一年に一度ほど近況報告の手紙を送るだけの関係となっていた真名から、恵寿奈の銀行口座に振込をした旨の連絡が届いた。母親を頼りにするのは気が進まなかったが、せっかくなので出産費用の一部にでも充てようと考えて確認すると、そこには数年生活できるほどの大金が振り込まれていたのだった。当時の彼女は驚きのあまり返金しようか悩んだが、今考えるとその頃のみくりやの隆盛を思えば、それほど大した金額ではなかったのかも知れない。
その後恵寿奈は上京して、無事娘を出産した。だが、真名には金銭的なサポートに対するお礼を手紙で送っただけで、直接会ったのは、さらにそこから数年後になる。彼女は娘にあまり手がかからなくなると、やがて薬局に仕事を得て、それから今まで子供と二人だけで生活をしてきたのだった。
列車が途中駅に停まると共に、車内アナウンスが流れた。車両の切り離し作業により、しばらくの間この駅にとどまるとのことだ。
少女は、そう言えば自分たちが一体どこへ向かっているのか全く聞かされていないことを思い出した。切符も全て母親が購入してそのまま預かっていたために、彼女はただ後ろをついて行くだけだったのだ。
少女がそれを問いかけようと母親を見ると――母親は驚愕したような怯えたような表情をして窓の外を見ていた。
何事かと慌てて少女も同じ方向を見たが、そこには駅のホームと駅看板、その向こう側には緑色の田んぼが広がるばかりであった。
「お母さま……一体何が……」
娘の問いかけにも構わず、母親は傍に置いていたバッグを開くと、その中を急ぐ様子であさり始めた。そして、切符と現金数万円、さらにメモを取り出して少女に手渡した。
「希愛理さん」母親は娘の手を握り、真剣な面持ちで見つめる「あなたは先にここに行ってなさい。このメモに書いてある人を訪ねるのです。私は後で必ずそこへ向かいます」
「え、お母さま、どうして……」
そう言い残すと、ついて来ようとする娘を強く制して、母親は列車を降りていった。
列車はその後すぐに出発したが、改札を出て行く彼女を車窓越しに見たのが、娘にとって母親を見た最後となった。
少女はひとりになった心細さを抱えながらも、ようやくメモに書いてある住所へと辿り着いた。
そこは駅からタクシーで三十分以上はかかる山々と農地に囲まれた場所で、メモが示す住所には大きな古い農家屋敷が建っていた。
辺りはすっかり夕焼けに染まっており、建屋の玄関へ向かって広い敷地を歩いていると、少女はこのまま追い返されたらどうしようという不安で一杯だった。
玄関に着いてインターホンを押すと、女性と思われる声が帰ってきたので、おそるおそる自分の名を名乗り、さらにメモに書いてあった見知らぬ名前を告げた。少し待っていると、扉が開いて、中年の婦人が中から顔を覗かせた。
「ひゃー、大ババさまが言う通り、ホントに女の子が会いに来たよ」
さらに後ろから数人が「どれどれ?」とやって来ては、少女を見るたび皆驚いてみせるのだった。
「百歳越えた婆様に、子供が一体どういう用事なの?」
「おいこら、女の子に色々訊いても困るだけだからやめとけって言われてんだろ」
「とにかく大ババさまは、来たらすぐに連れて来いって」
……百歳越えた婆様?
たしかにメモに書かれた名前は、古風な女性のものだったが、そこまでの老齢とはさすがに少女も想像していなかった。
少女は、屋敷へ上げられ、そのまま奥座敷へと通された。
家人と思われる人たちが去ると、二十畳はある大部屋の真ん中に、少女はぽつんと放置された。ひとりきりにされてしまったと思い、周囲をキョロキョロと見回すと、数メートル先に何か置物が置いてある。しかし、それはよく見ると人間であった。
皺くちゃの小さな老婆が、座布団の上にちんまりと座っているのが分かった。
「いやーよく来なさった」
老婆はよく通る声を少女にかける。
……このおばあさんが百歳を越えている人?
少女のイメージの中では、百歳の老人ともなれば、こんなにはっきりと言葉を発しないものだった。少し驚きつつも少女は老婆に言葉を返す。
「あの、私は――」
「知ってるよ。希愛理ちゃんだろ?」
たしかに少女はこの老婆を頼るように言われて来たのだ。あらかじめこちらの名前を知っていても、おかしくないはずだと少女は思う。
「じゃあ、母のことも……」
「ああ、もっとその前から知っておるぞ。珠子の娘の真名の娘の恵寿奈の娘がお前さんだ」
「あの、あなたは一体……」
やはりこの老婆はみくりやの関係者なのだろうか?少女がそれを問おうとした矢先、老婆が口を開いた。
「お前さんが聞いてる名前はね、わたしの本当の名前じゃない。訳あって別の名前を名乗っているんだよ」
それを聞いた少女は、急に何かを悟ったのかその目を大きく見開いた。そして息を呑むようにして老婆へと問いかける。
「……では、本当の名前は……」
「初江だよ」
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