4Fx10 溶解
僕たちは、レジの辺りを囲むように存在する大きな緑色の壁の前に立ち尽くしていた。
壁に触れてみると、たしかにうさぎが言うように相当硬い気がする。
その硬さはDIYコーナーの壁の比ではなく、うさぎに確認してもらう以前に、そもそも削ることさえできないのではないかと思うほどだ。試しにノミを突き刺そうとしてみたが、やはりまるで刺さらない。先輩のマイバールでも無理なようだ。
さらに表面はデコボコが少なく、ニスでも塗られているかのようにツルツルしている。
壁を見上げると、それは上に向かって広がるように伸び、そのまま高さ10メートルはある天井へと繋がっているのがわかる。逆円錐型というべきだろうか、まるでキノコの柄の部分が途中からなだらかに傘へと変わっている感じだ。つまり上に行くほど壁は手前側への傾斜がキツくなり、天井近くではほとんど水平となる。
この一日余りの経験に過ぎないのに、壁を見ると、ついどのように攻略すべきか考える習慣がついてしまった僕だが、この壁だけはさすがにどうやっても登れるとは思えなかった。
「ね?うさぎが言ったとおりカッチカチでしょ?」
うさぎの態度はなぜか自慢げである。
「いやあ……これに穴開けんのは無理だなー」
先輩は壁を見上げつつ、ぼやきを口にしては、手に持った缶をプシュッと開けた。
「先輩、何ですかそれ?」
「あ、これビール」
先輩はここに来る途中、また酒をくすねてきたようだ。
「でも酔わないんじゃ……」
「ほら、ノンアルコールビールってあるだろ。あれをリアルなビールでやるわけよ。気分だよ。気分」
そう、のたまっては、缶に口をつけると――
「ヌルっ!マズっ!」
彼女は壁にかけるようにビールをドボドボと捨てた後、缶をグシャッとつぶし、思い切り遠くへそれを投げた。向こうから缶が転がるカランカランという音が聞こえる。
「冷えてないって分かり切ってるじゃないですか……」
「でもビール飲みたいって気分だったんだよ!そういう時ってあるだろ?なあ?」
先輩は「なあ?」をうっかりうさぎに向けてしまい、ポカンとしている子供を見て、ただ「うん」とうなずいた。
少しして、小糸さんとクミの2人も、この場所に到着した。彼女たちに壁の強固さを伝えると、二人とも一様に少し難しい表情を浮かべていた。
この後は、今いる場所からそれぞれ出発して、各エリアを探索する予定となった。今回はうさぎも加わることで、この探索によってホームセンター内の現在確認できる場所は、全て網羅したことになる。
もし、これで球が見つからなければ、次はこの立ち塞がる壁を突破しなければならないはずだ。
しかし、この壁は……
「あ、そこなんか濡れてる……」
クミがさっき先輩がビールをかけた壁の辺りを指している。小糸さんも興味深そうにそこを眺めた。
「ちょっと泡立ってますね……まさか、おしっ――」
「いやそれは先輩がビールを捨てた跡です」
クミはしゃがみ込むと、壁の濡れた箇所を指でこすり始めた。小糸さんがなぜか少し慌てる。
「クミさん、それおしっ――」
「ビールです」
クミは僕らに向けて、今壁をこすっていた人差し指を立てて見せた。指の腹が少し緑色になっているのがわかる。
つまり、ビールによって壁が溶けたのだ。
クミは人差し指と親指をこすりながら何か考えている様子だ。
「うーん……ビールだと、水に溶けたのか有機溶剤なのか判断がつかないなあ……この辺でお酒売り場ってありましたっけ?」
「お、すぐそこだぞ」
さすが先輩は即答した。
2人は共に酒が売られている場所に向かい、すぐに瓶やペットボトルを抱えて戻ってきた。彼女たちが持ってきたのは、ウォッカとミネラルウォーターだった。
ウォッカは、度数96%を誇る、ほとんどの成分がアルコールとなるスピリタスという酒らしい。
クミは、壁に水とウォッカをそれぞれかけてみせた。
少し待ってから、双方の場所を確認する。
まず水のほうを指でこすってみたが、指の色は変わらない。壁が水で溶けることはないようだ。
続いてウォッカのほうを試すと――
皆から「おおー」というどよめきが起こった。
クミの指にたっぷりと緑色の物質がついている。少し溶けた抹茶アイスクリームの表面を、指でなぞったような感じか。
「やっぱりアルコールみたいな有機溶剤に溶ける物質みたいですね」
クミはそう言いながら、残りのウォッカで指の汚れを洗い流していた。
僕も壁にウォッカをかけつつ、ノミでそこを削ってみた。たしかに少しは削れるようにはなったが、思ったほどは掘り進めない。壁の表面はうまく溶けたけれども、5センチほど進んだ辺りで溶ける量が一気に減ってしまったような気がする。
この壁は、成分の違う物質が層になってできているのだろうか?
「奥のほうに行くと、なかなか溶けないみたいです……このやり方で穴掘りを進めるとしたら、一体どれだけ時間がかかるのか……」
「じゃあ明日からのテケ松の作業はそれな」
根気のいる単調な作業を一番嫌がる先輩が、例によってそれを僕に押しつけてきた。
今やってみた感じだと、それなりの大きさを掘るとして、一時間に1センチぐらいは進められるだろうか。寝る時間以外を作業に充てたとして、大体1日15センチぐらい掘り進められることになる。壁の厚さはわからないが、仮に5メートルぐらいとすれば、34日かかる計算となる。作業を交代制にして1日24センチとした場合でも、21日はかかる。
どうやっても、しばらくはここで生活しなければならないわけだ。食べなくても生きられるので、無理なことではないだろうが……
「ここを掘り進めていくとすると、あと一ヶ月はかかるでしょうねえ……」
「あの――」
小糸さんが不安そうに声を上げた。
「私、今妊娠八ヶ月目後半なんです……だから早めに家に戻りたくて……」
「え、そんな時期に……」
クミが少し驚いた表情で小糸さんを見る。
「……たしかに私がバカでした。夫の浮気にカッとなって家を飛び出したわけなんですけど、私は本当に考えの至らぬどうしようもない女です。
34歳にもなっているのに、大人になりきれてないのです。もはや私だけの身体じゃないってことが、わかってなかったんです。
ホテルの部屋でひとり考えた結果、次の日の朝一番に家に戻ろうと考えました。そして元気な赤ちゃんを産もうと決意したんです。
父親の女癖が悪かろうが、母親が軽率であろうが、この子には何の罪もないのです。
でも……そんな矢先……こんなことになってしまって……」
小糸さんはそう言うと、首をうなだれた。
少し間、皆の沈黙が続く。
つまりは、ここからの脱出に、そんなに時間がかけられないということだ。まさかこの世界で出産というわけにもいかないだろう。
ついでに意外だったのは、小糸さんの年齢だ。先輩と僕の間ぐらいかと思っていた。まあ、先輩は10万27歳なので、僕より年上であれば大体の人はその間に収まるわけだが。
クミが心配そうに小糸さんに声をかける。
「その……体調のほうは……」
「この世界に来てから、身体のダルさとか手足のむくみといった妊婦特有の体調不良は不思議となくなりました。お腹の重さは感じるので、身体を動かすと多少疲れやすくはあるんですが、体調だけはすごくいいんです」
やはりそれも内臓が異次元にあるからだろうか?彼女が前に言ったように、お腹の子が一体どうなっているのかも謎ではあるが、今の状況では調べようもない……
「ここを突破できる方法が他にあるか、私ちょっと考えてみます」
クミの言葉が少し頼もしく感じる。やはり彼女の発言に、リケジョ的な重みがあるからだろうか。リケジョ的な重みって何だ。
とりあえずは、これ以上の壁の調査は一旦中止し、それぞれの担当エリアで球の探索をすることになった。そこで球が見つかってしまえば、この壁を何とかする必要はなくなるのだ。
皆が一斉にそれぞれの持ち場へ出発したが、うさぎだけは壁の上のほうをひとり見つめていた。
「うさぎちゃん、どうしたの?」
「えーと……ううん、何でもない」
うさぎはそう言うと、担当の文房具売り場へと駆けだしていった。
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