4Fx2 看板
全てが緑色の物質に覆われているこの場所は、確実にホテルのワンフロアよりも広そうだ。
だが、あちこちに緑の壁が複雑にせり出していて、その全容がつかみにくい。
皆と相談した結果、球を探しつつも、ここからの出口を見つけ出すべきじゃないかということで、意見が一致した。
妊婦である小糸さんはここで休ませ、残りの4人がそれぞれ四手に分かれてこの場所を探索することとなった。
僕が調べることになったエリアは、あの台座の近辺だ。
台座の裏側に幾重にも壁が入り組んだ箇所があり、もしかしたらそこからどこかにつながる出口が見つかるんじゃないかと淡い期待を抱いていたのだ。
壁に囲まれた迷路のような道を進み、ときにボルダリングのように壁を登ってみせた。
これまで、まさか腕の力だけで壁をよじ登るなんてことができるとは思ってはいなかった。
だが、自分の身体が思いのほか軽く、壁の表面にあるコブを次々とつかんでは、割とすんなり上へと進んで行くことができたのだ。
自分にこんな隠れた才能があったなんて……と、つい思い上がってしまいそうになるが、腰から下があったらこのような芸当は無理だと考えると、こんな能力いらないから下半身を返して、とも思う。
しかしそんな順調な探索行だったにもかかわらず、球を見つけることもなく、出口なども特に見当たらず、このエリアでは目ぼしい収穫は結局ひとつもなかった。
僕が失望に暮れて集合場所に戻ると、そこには既にクミ以外のメンバーが集まっていた。
特に誰もこれといった発見はなかっただろうことは、皆の表情を見れば察しがつく。
僕に対しても「何か見つかった?」などと問う人はいない。
「クミちゃんはまだなんですかね」
そう僕が言いつつひと息つこうとすると、小糸さんが後ろを振り返って、少し離れた場所にある緑の壁を指差す。
「多分まだあの辺に――」
その途端、壁の陰からクミがひょこっと顔を出した。
「皆さーん、ちょっといいですかー?」
皆がクミの元に集まると、彼女は壁の上のほうを指してみせた。
「あれ見てください。何か埋まってますよね?」
5メートルぐらいの高さだろうか、たしかに緑色の物質に板のようなものが半分ほど埋もれている。
板には紐がついていて、上から吊り下げられているようにも見える。
「あれは看板かな。吊り看板か。スライムで汚れてて何書いてあるのか読めないが」
先輩、あれはスライムじゃないですけど。
スライムっていうのはもっと柔らかくて……あ、もしかしてこの緑色の物質って、乾いて固まったスライム?
「汚れ落とせればいいけど、あそこじゃ届かないよねー」
うさぎが残念そうにぼやいているが――
いや、果たしてそうだろうか?
もしかしたらあそこにたどり着くことは可能なのでは?
僕は周囲を見回し、このエリア全体を視神経デバイスでスキャンする。そしてその画像データを、脳内クラウドへとトランスファーして解析を急がせた。やがて看板への最適ルートが、妄想ARとして視覚化される。
「こう行ってこう行ってこうだ!」
僕は指揮者のように登攀ルートを宙に描いた。
皆が、僕の一連の動きを怪訝な表情で見ていたが、今は気にしないことにする。
僕は先ほど会得したボルダリング技術を駆使して、看板の場所へ向けて壁を登っていった。
途中、幾度か落下しそうになるも、歯をくいしばり、いい位置のコブを探してはそれをつかんで、身体を着実に上へ上へと運んで行く。
それを何度も繰り返して、ようやく看板のある場所までたどり着いた。
始めは「このテケテケ、一体何しようとしてんの?」というムードだったし、次第に僕の意図がわかってくると「あそこまで行くの無理じゃね?」という感じが濃厚になっていったが、やがて看板に近づいていくにつれそれは徐々に声援へと変わっていき、ついにゴールへたどり着くと下から大きな拍手が沸き起こった。
あの、人を褒めないことに定評のある先輩さえも、「よくやったな」という顔をしている気がするので、僕は満足である。
しかしつい忘れてしまいそうになったが、僕がここに来たそもそもの目的は、看板の字を読み取るためだった。
僕は看板をつかむと、その表面を爪でガリガリとこすり始める。
思ったより簡単に、こびりついた緑の物質は看板から剥がれていった。
これは順調だぞ、と思った途端――
「!?」
看板をつかんだ左手がガクンと下がった。
力を入れすぎて、看板を吊り下げている片方の紐が切れてしまったらしい。
バランスを崩して下に落ちそうになった僕は、もう一方の右手で看板の上部をつかむ。
「あわっ!!」
すると半分ほど埋もれていた看板が、壁からスポッと抜けた。
再び壁にへばりつこうと急いで腕を伸ばしたが、その手は間に合わずに空をつかんでしまう。
慌てて体勢を変え、看板にしがみついた。
「キャーッ!!」
下から誰かの悲鳴が上がる。きっとクミだ。前も聞いたし。
ここでついに、一本の紐だけで、僕と看板が吊り下げられている状態となってしまった。
もはやここからはもう壁には手が届かない。
僕は必死に看板にしがみついていたが、やがてもう片方の紐も無情にもブチっと切れた。
「看板離せ!」
先輩が叫ぶ。
僕は看板を突き放すと、そのまま下へと落下していった。
「ミチスケェーッ!!」
うさぎも叫んでいる。
下で待ち構えていたのは、先輩とクミだった。
2人で手を組んで、両腕で落下する僕を受け止めようとしている。
「頭押さえて!」
クミの声に、慌てて自分の頭に手をやる。
僕の身体は仰向けの状態で、彼女たちの腕の上にドスンと落ちた。
2人はそれと同時に膝を曲げ、衝撃を吸収する。
そして低い姿勢のまま、僕を床へと転がした。
寝そべって緑色の天井を眺めている。
ケガはなさそうだ。
身体が少し痛むが、これはゴツゴツした地面のせいだろう。
先輩とクミの機転で助かったのだ。
彼女たちには感謝しか……え?クミ?
「うああああぁぁぁぁ!!」
突如、強烈な目まいと吐き気が襲いかかってきた。
僕は地面のデコボコも構わずその場でのたうち回る。
小糸さんがクミに支えられながら駆け寄って来た。
そして彼女は、両手で僕の首をギュッとつかむ。
僕は……首を絞められている……
寄せては返す波のように襲いかかる苦しみの中で「僕はこのまま首を絞められて殺されるんだろうか?」という思いに囚われていった。
今にも闇の奥へと引きずられそうな儚い意識が、あの心優しい小糸さんの顔を歪めて見せている。
……僕は殺されるようなことをしただろうか?……いや、もうここに存在することが死に値する罪に違いないのだ……むしろこの苦しみが続くのなら、いっそ殺してくれ……
やがて潮が引くように目まいが収まってきて、安らかで心地よい感覚が全身を包んだ。
ああ、僕は天に召され、永遠の安らかな眠りに抱かれたのだ……
「あ、良くなったみたい」
目を開けると、珍しいものでも見るかのように、猫の目がこちらを見つめていた。
うさぎの横で、小糸さんが優しく微笑みながら、僕の首に手を当てている。
体調の回復と共に、混濁していた意識もはっきりしてきて、ようやく状況がつかめてきた。
僕はどうやら、落下と同時にまたクミの毒にやられ、再び小糸さんに助けられたようだ。
小糸さんが僕の首を押さえていた手を、ゆっくりと離していく。
「クミさんの腕が首すじに当たったようですね」
「あの……ごめんなさい……咄嗟だったんで……」
クミが少し離れたところで申し訳なさそうな顔で謝っている。
たしかに状況的に仕方がなかったと思う。
あの時、妊婦の小糸さんや子供であるうさぎが落下する僕を受け止めるなんてことはできない。
やはり先輩とクミに頼むしかないのだ。
「いや、僕のほうこそクミちゃんにはお礼を言わなきゃ。助けてくれてありがとう」
でももう君には触りたくないけどね、などという言い草は付け加えず、僕は紳士的に応対した。
クミが少し笑顔を見せてくれたのでホッとする。
ホントは可愛いのに、見た目が毒キノコだなんてかわいそう過ぎると思う。
まあ見た目だけでもないけど……
「あたしも助けたんだけどな」
先輩も細かく恩を着せてくるのを忘れない。
「あ、あざっす」
「この『DIY』ってどういう意味?」
うさぎが看板に書かれた文字を読んで、僕らに問いかける。
先ほど、僕と共に落下した吊り看板は、ほとんど表面の緑色の物質を削り落とすことができたのだが、そこに書いてあったのはたったのアルファベット三文字だったのだ。
「それは『 Dangerously Incompetent Youth』すなわち『やべえぐらい役立たずな若ぞう』という意味だ」
「先輩、子供に嘘を教えないでください」
それとも、先輩は僕のことを言ってるのだろうか?
まあいい、それはそれとしても、子供には正しい知識を与えねばならないのだ。何だその使命感。
「それは一般的には『Do It Yourself』直訳すれば『自分でやってみよう』ってことだね。家具なんかを既製品を業者から買うんじゃなくて、自分で作ってみることを言うんだよ」
と、ちゃんと説明したにもかかわらず、当のうさぎは質問したくせに既に興味を失ったのか、クミにじゃれついている。
あ、うさぎもクミの毒に耐性があるのか、とその時気づかされた。
やはりこれで「クミの毒、男だけNG説」は、さらに補強されることとなった。
ていうか、質問したんだから、うさぎは人の話をちゃんと聞けよ。
「これは私たちへのメッセージということでしょうか?」
「え?『DIY』がですか?」
「ええ、『自分たちで何とかしなさい』という」
しかし、この状況下で自分たちの力で活路を見出さなければならないのは当然だろうし、そんなメッセージを送られても「まあ、そうっすね」としか言いようがない。
仮に小糸さんの想定が正しいとして、だとすればメッセージの主は誰なのか?
その人は僕たちのドタバタをモニター越しに眺め、「自分たちで何とかしろよ、クックックッ」などとほざきながら、ブランデーグラスを傾けたりしてるのだろうか?
ただ、僕には、この「DIY」について、全く別の想定があった。
それについて、裏づけが取れればいいのだが……
しかし看板を落としたのはいいが、この先一体どうすればいいのか。
先輩は寝心地のいい場所を見つけたらしく、また片肘をついて寝そべっている。
うさぎとクミは、何が楽しいのかキャッキャ言っては、じゃれ合っていた。
こんな状況で、のん気な人たちだ。
そんな中、小糸さんは妊娠した身体を押して、丹念に壁を調べていた。
僕は彼女が転んだりしないか心配だったので、小糸さんについて回った。
勘違いしてもらうと困るのだが、これはストーカーでなく
「テケ松さん」壁を調べていた小糸さんが振り返る「ここ、気になりませんか?」
気になるのはもっぱら自分の呼び方だが、今はそんなことより彼女の指す壁の辺りを見た。
何の変哲もない緑色のゴツゴツした壁にしか見えない。
「ちょっと離れて見たほうがいいのかしら」
後ろに下がろうとする小糸さんの背後に回る。この辺、僕は小回りの効く男である。
「ああーっ!そこ誰かいるー!」
突然、うさぎが後ろからから叫んだ。
振り返ると、彼女はまさに小糸さんが示したあたりの壁を指差している。
一体そこに何が?
僕たちは、一見何もないその壁を見つめていた。
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