5Fx1 蝙蝠
僕がその時見たのは、先輩が宙に浮いている姿だった。
* * * * * * * * * * * *
下半身を失った僕は、とりあえず部屋の灯りを点けようと、ベッド脇にあるスウィッチを何度も押してみたものの、何も起こらなかった。
机の上に置いてあった携帯電話を引っつかみ、隣りの部屋の先輩に電話をかけてみたが、まるで繋がらない。
繋がらないのは先輩にだけではなかった。
そもそもこの機械がもはや電話として機能していないようだ。
このホテルではフロントへの電話機は個々の部屋ではなく、フロア毎に廊下に設置しているらしい。
少なくとも部屋を出る必要があるなら、もう直接会って助けを求めたほうがいいんじゃないか、という気持ちになっていた。
そもそも電話で「腰から下がなくなっちゃったんですけど」と言われても意味がわからないではないか。
目の前で言われてもわからないかも知れないが。
とにかく部屋を出ようと僕はベッドを降りる。それから匍匐前進の要領で入口のドアへと向かった。
当たり前のことだが、足がないというのはなかなか不便である。
まだ慣れていないのもあるけれども、ドアまでの数メートルがとても遠く感じる。
ようやくドアにたどり着くと、上半身を起こして両手でレバー式のドアノブをつかみ、後ろに体を倒す方法でドアを開ける。
あらゆる動きが初めての試みで、細かい試行錯誤の連続である。
部屋の外に出ると、夜も点いているはずの廊下の灯りは消えていた。
やはり停電しているのだろうか。
僕は隣りの504号室へと這うように向かい、寝そべった状態のままドアを激しくノックした。
「先輩!開けてください!」
しばらく叩いたが、何の反応もない。
もしかすると先輩自身にも何か異変が起きたのだろうか……
しかしここで、僕はある可能性に思い至った。
先ほどからの状況から考えて、おそらくこのホテルは今電気が止まっているに違いない。
すると電気でロックをかける仕組みであるこのドアは、現在普通に開けることができるのではないか、と。
僕はドアノブをつかむと前方に倒れるように体重をかけた。すると――やはり予想どおりドアはカチャリと音を立てて開いたのだった。
部屋の作りとして、バスルームに遮られるために、ドアを開けてすぐにベッドを見通すことはできない。
僕は夜這いと勘違いされても構わない、むしろ下半身もないのに夜這いするやつって何なのという気持ちで、おそるおそる部屋を這っていった。
進む途中で、ベッドのほうから何か音が聞こえてくるのに気がついた。バッサバッサという、シーツを干す際に扇ぐ音のようだ。まさか先輩……お漏……
しかしベッドのほうを見上げると、そこには予想だにしなかった光景があった――
先輩が宙に浮いていたのである。
厳密に言うと、浮くというより飛んでいるというのが正しいだろうか。
上下黒の下着を身につけた先輩の背中から大きな黒いコウモリの翼のようなものが生えていて、その羽ばたきによって、彼女はベッドの上に浮かんでいたのである。
先ほどから聞こえていたのは、まさにその羽ばたきの音だった。
先輩は意識を失っているようだ、というかまだ寝てるだけなのかも知れない。
両手両足をダランと下げ、空中でその体は小刻みに上下している。
僕はただポカンとその姿を見つめることしかできなかった。
今の状態の僕に一体何が可能だろうか?とりあえずは先輩の目を覚まさせること、それ以外に思いつかなかった。
大声で叫ぼうと大きく息を吸い込んだ時――その羽ばたきが突然停止した。
浮揚力を失った先輩の体はドスンとベッドの上へと落下し、それと同時に「ぐげっ」と変な声が聞こえた。
「つつ……何だよ……」
「先輩……」
彼女はビクッとして、あたりをキョロキョロするが、ベッドの下に僕を見つけてホッとしたようだった。
「何だよお前、心霊レコードかと思っただろ……なんか背中が……ん?何だこれ!?」
本来は僕が助けを求めるべくここに来たのだが、なんか色々とっ散らかっていて、何から説明すればいいのかわからなくなってきた。
宇宙人襲来を伝えに来たら、目の前で交通事故が発生したような感じか。
とりあえずは、先輩に僕の今の状態を伝えようと――
「ひいいいぃぃぃぃっ!!」
僕の後方で女性の叫びが聞こえた。
空いているドアから入ってきたのか、ひとりの妊婦が怯えた表情で僕を指差している。
妊婦とすぐにわかったのは、お腹が膨らんでいたのもあるが、マタニティマークがでっかくプリントされたロングTシャツを着ていたということもある。そんなTシャツ売ってるのか。
「テケテケ!!」
この人は一体何を言ってるのか?テケテケって……たしか都市伝説に出てくる下半身のない妖怪……それ僕じゃねえの!
「いやあ奥さん、安心しな。こいつは悪いテケテケじゃねえよ」
先輩が珍しくフォローしてくれた。
いやこれはフォローなのか。
そもそも僕がテケテケと化したことを先輩は何の説明もなしに受け入れてしまっているみたいだ。
いやいやいや僕は妖怪になったわけではない。
多分。
おそらく。
「あの……先輩……僕目が覚めたら腰から下がなくなってて……」
「ああ、そうみたいだな。お前、床に這いつくばってるから、なんかヘンだなって思ったよ」
そんだけ!?このことは誰もが驚愕すべき異常な事態じゃないんですか!?
「そういえば、あたしも背中に何か……」
先輩の関心は、すぐに自分自身に移った。
もう少し僕への心配とかそういうのはないのだろうか?
僕は釈然としないながらも、説明を加える。
「それ、翼です。コウモリみたいなの。さっき先輩飛んでました」
「そっか……」
先輩が微妙な表情をしているのがわかる。
多分色々問題が渋滞し過ぎなのだ。
最終的に、ここはお互い理不尽なことが降りかかって大変だな、というところに落ち着くのだろうか?
僕に言わせてもらえばそれは違う。
腰から下を失う災難と背中に翼が生える災難が釣り合うわけがないだろが!
下半身ないほうが悲惨だろが!
妊婦の人が相変わらず怯えた表情で立ちすくんでいる。
ひっつめ頭に髪を束ねた、よく見るときれいな人だ。
そうだ。この人はなんでここにいるんだっけ?
彼女は説明を求められていることを雰囲気で察知したのか、一旦深呼吸をした後おもむろに語り始めた。
「私は
いやいやそういうことを聞きたかったわけではない。彼女がなぜこの部屋に来たのかとかそういうことが――
「で、奥さんは体の変化とかはないの?翼が生えたりテケったりとか」
妊婦の人――小糸さん――の話をつまんなそうに聞いていたかに思えた先輩が、思いついたように問いかける。テケったりって何だ?
「えーと、そういうのは特に……気のせいか少しお腹が大きくなったような感じもしますけど。成長したのかしら?……あ!」
自分のお腹をさすりながら話をしていた彼女が、何かを思い出したのか声を上げる。
「そういえば、女の人の悲鳴が聞こえたんです。私それで目を覚まして……怖いのでしばらくは布団にくるまってじっとしてたんですけど、そのうち声や物音が聞こえてきたので、勇気を振り絞ってここに……」
たしかに僕も女の悲鳴を聞いた気がする。
声を上げたのは、間違いなく先輩ではないだろう。
何しろ宙に浮いてても寝てたし、もっと女の子っぽい声だったような……
「じゃ、調べに行こうか」
先輩はそう言うとベッドを降り、すっくと立ち上がった。
カーテン越しに漏れる淡い光が、月明かりにしては妙に明るすぎる気がする。
そんな光に照らさられる、黒下着をまとい黒い翼を生やした先輩を僕ははるか下から見上げていた。
彼女の姿は、もはや昔よく言われた「エロかっこいい」を超えて「エロ神々しい」という領域に達しているのではないか。
こんな状況だというのに、床に這いつくばりながら僕はただただ先輩に見とれていたのだった。
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