1Fx0 恋仲

 ホテルに入るなり、先輩はロビーに備え付けてあるソファにドスンと腰を下ろした。

 さほど大きくないホテルではあるが、ロビーはそこそこの広さがあって、一応朝食コーナーなんかも備えている。

 彼女は座った途端、「ふひー」などと声を発しながらいきなりしどけない格好で崩れていた。

 何も言わないが、僕がフロントに行って先輩の部屋の鍵ももらってこいということだろう。

 電子錠用の使い捨てのカードキーのため、外出時に特にフロントへ預ける必要はなかったと思うのだが、ここ最近の出張は古いホテルへの宿泊が多かったので、つい習慣で先輩の分もまとめてフロントへ渡していたのだ。

 僕の部屋が503号室で、先輩は隣りの504号室だった。

 予約したのは僕だが、これはたまたまである。先輩に何かあった時にすぐにでも駆けつける忠実なるしもべだからではない。

 フロントに向かうと、若いカップルがチェックインの手続きをしている最中だった。

 男は髪を若干茶色に染めたさわやかイケメン。女のほうはショートカットの可愛らしい娘。

 二人とも、紙に住所と名前を書く行為の何がそんなに楽しいのかと思うほど、仲むつまじげにキャッキャ言いながら宿泊者カードを記入している。

「あ、マンション名間違えちゃった。きゃは」

「もう、クミはおっちょこちょいだなあ」

「だって長いんだもん。『ロイヤルフラワーガーデンパレスお花茶屋』って長くない?」

「きれいな花に囲まれてるって感じでクミに合ってるよ」

「もう、マサヒロってばぁ。人前で恥ずかしいよぉ」

「フフフ」

「んもぉ……フフフ」

 何か自分の中でモヤモヤしたものが湧きあがるのを感じる。

 僕は、今目の前で繰り広げられている光景の扱いを、よく分かんないバンドの全然興味ないPVを眺めている、というスタンスで切り抜けようとしていた。

 そうなのだ。彼・彼女らは、僕と違う世界の住人なのだ。

 僕とは全く異なる環境で生まれ育ち、全く違うものを見聞きしてきた、全く僕とは相容れない存在なのだ。

 しかし――本当は自分でも分かっている。その感情自身が、ただただ羨ましいくせに、そんな気持ちを持ってしまう自分を認めたくないという、ちっぽけでみすぼらしい自尊心が発動させた自己防衛機能のしわざだということを。

 人間関係(特に女性がらみ)によって傷つくことを恐れるあまり、まるで己があらかじめそこから別の次元に存在するかの如く自己規定することで、現実からの逃避を小賢しく正当化しようとする欺瞞が習い性となった臆病で卑怯で惰弱でヘタレな僕がうわあああああああぁぁぁぁ

「あ、お客様、御用がおありでしたらどうぞ」

 ホテルのフロントの人がそのカップル越しに声をかけてきた。

 僕はそこで本来自分がやるべきこと――すなわち鍵の受け取り――を思い出したのだ。

 突発性自己嫌悪症候群にさいなまれていた僕を救ってくれたのはフロントの人――あなただよ、ありがとう。

「えーと503の武松です。それから504の――」

「あれ?もしかして……ミチスケ君?」

 突然僕に声をかけてきたのは件のイケメンだった。

 僕はおそらく呆けた顔をしながらまじまじと彼を見つめた――全然見覚えのない顔だ。

 僕を下の名前で呼んだことから考えると、親戚だろうか?それとも子供の頃の近所の誰かとか……

「あの……」

「俺、五味ですよ。五味昌弘ごみまさひろ

「あ……囲碁クラブの……」

 高校生の頃、僕が所属していた近所の囲碁クラブに入会してきた中学生がいた。それが五味君だ。

 当時彼はこんなルックスではなかった。坊主頭に眼鏡をかけた真面目そうな中学生だったのだ。しかし言われてみれば少し面影があるような気がする。

「あの五味君かあ……全然わかんなかった」

「いやあ、でもミチスケ君は、あんま変わってないですね」

 僕がその囲碁クラブに入会したのは小学生の頃で、囲碁が趣味で既に入会していた父親に半ば強制的に入れられた形だった。

 父はいわゆる下手の横好きというやつで、あまり強くはなかったのだが、子供の頃から始めれば相当上達するのではないかという考えで息子に夢を託してみたらしい。

 なお、僕がクラブの中で下の名前――ミチスケ――と呼ばれていたのは、父親と区別するためである。

 しかしながら、期待の息子も結果的としてあまり囲碁の才能は持ち合わせていなかった。

 それでも、囲碁クラブに通えば友達にも会えるしお菓子ももらえるということで、小学生の頃はクラブに頻繁に顔を出していたし、中学以降もそのうちなんだか居心地もよくなって、ズルズルと高校生ぐらいまでは通い続けていた。

「ミチスケ君はまだ囲碁を?」

「いや、僕は――」

 中学生ともなると、皆が次第に勝負を意識するようになり、より研鑽を積んで強くなろうとする者と自分の能力に限界を感じてやめていってしまう者に分かれていく。

 そんな中、僕はどっちつかずのままクラブを続けていたのだが、その宙ぶらりん状態に終止符を打ってくれたのは、誰あろうこの五味君である。

 僕が高二の頃、彼は中三でその囲碁クラブに入会してきた。半年前にネットで囲碁に興味を持って、そこから独学で勉強したらしい。

 僕はこの時、先輩面して彼に指導でもするつもりで対局に臨んだのだが、グウの音も出ないほどに惨敗した。この後も彼に何度か勝負を挑んだのだけれど、いずれの試合でも完膚なきまでに叩きのめされたのだ。

 十年近いキャリアの人間が、始めてから半年程度の初心者に全く歯が立たない状況。僕の目の前に絶望的な才能の差という壁が立ち塞がったのだ。

 まだその頃少しばかりは残っていた自信さえ粉々に打ち砕かれた僕は、受験勉強に専念したいという表向きの理由を告げて、そのクラブを退会した。

「――クラブをやめてからは、全然……五味君のほうは?」

「俺も高校に入ったあたりでやめちゃいました」

「え、そうなんだ。強かったのに」

「なんか高校生活に忙しくて集中できなくなっちゃったっていうか――」

 ああそういうことか。

 僕は勝手に納得してしまった。

 つまり彼は「高校デビュー」したに違いない。

 あの頃の五味君は、僕とは才能の差さえあれ、たしかに「こっち側」の人間だった。

 だが高校生となった彼は、囲碁などという地味でかつルール知らない女子率90%以上(多分)を誇る意味不明でモテからほど遠い趣味なんかとは縁を切り、ルックスやらキャラクターやらを完璧に整えてあの輝かしいステージに上っていったのだ。多分きっと。

 でも僕自身も囲碁をやめてはいるが、大学デビューどころか社会人デビューさえおぼつかないのはどういうことか。

「マサヒロって囲碁やってたんだぁ。全然知らなかったぁ」

 五味君と一緒にいた女の子が、そこで彼に声をかける。

 そんな冴えない男とばっか喋ってないで私もかまってよう、ということに違いない。

 僕のいつもの被害妄想を差し引いても、この推測はきっと当たっている。

 それにしても可愛い娘である。

 ショートヘアでちょっと媚びた感じもするけどキュートな笑顔。

 喋り方もちょっと媚びた感じもするけど舌ったらずでプリティー。

 フリフリのミニスカートもちょっと媚びた感じもするけどとってもコケティッシュ。

 どこかけなしているように聞こえてしまったとすれば、これは僕の中の「酸っぱいブドウ装置」が発動しただけなので気にしないでほしい。

「あ、こっちは同じ大学の……ていうか俺の彼女のクミです」

 クミと呼ばれた女の子が、五味君と顔を見合せ、いや~ん恥ずかしい~という感じで、でんでん太鼓のような動きを見せる。

 まだつきあって間もないのだろう。

 「彼女」として紹介されたのが、嬉し恥ずかしといったところか。

 まさに爆破案件といえよう。

「俺と彼女は、今日からこっちに旅行に来てて――」

 明日の金曜日は市内観光をした後、そのまま近くの温泉地に向かってそこで一泊するそうだ。

 可愛い彼女と二人で温泉旅行かよ!クソが!……などという黒い感情は握りつぶした上で、僕は学生たちのお手本となるような社会人像を提示してみせることにした。

「僕のほうはビジネスでね。こちらのクライアントに対してアライアンスも視野に入れたアプローチを――」

「武松ー!」

「はいー!」

 背中のほうから聞こえるロビーで呼ぶ先輩の声に、ロクロを回してる最中だろうが何だろうが反射的に返事をしてしまう、まさに訓練された犬である僕。

「ああ、あの人は僕の会社の先輩で――」

 と、五味君を見ると、彼はぽっかりと口を開けて僕の後方をじっと見つめている。

 何事かと振り返ると、まさに酔っぱらった先輩がストッキングを脱いでいる最中だった。

「ちょっと先輩!ここは部屋じゃないですよ!」

 僕はだいぶ見慣れてきたとはいうものの、やはり先輩が時折見せる「痴態」はとても刺激的で、この思い出を持って帰って誰もいない個室にこもりたい、と思わせてくれる類のものである。

 五味君も同様に先輩の「瘴気」にやられたのか、呆けた表情で茫然と立ち尽くしている。彼もまた「性欲のカマタリ」といえるだろう。

 しかしそんな五味君に気づいた彼女が「んもぉ」とばかり彼に軽くひじ鉄を食らわした。

 あ、これはドラマとかでよく見るやつだ。他の女に見とれる彼氏に、彼女がやきもち妬くやつ。実在したんだ。

「武松ー水ぅー!」

「今持って行きますからー!」

 そして、僕はなんだか唖然としている二人へのあいさつもそこそこに、フロントから電子錠用のカードキー二枚を受け取ると、ミネラルウォーターを買うべく自販機へと急いだ。

 なお、五味君と話すのは、これが最後となった。

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