0Fx0 泥酔

「次カラオケ行こうぜぇ~カラオケぇ~」

 僕はこの時、しとど酔っぱらった女性を支えながら、地方都市の夜の歓楽街を歩いていた。

「先輩、もうぐでんぐでんじゃないですか。明日朝早いんですから、ホテル戻りましょ」

 僕が先輩と呼んだこの泥酔女性は、会社の営業部の3歳年上の先輩で、この春から僕の直属の上司となった人である。名前を亜久津摩子あくつまこという。

 彼女はセミロングの髪を激しくかきむしると、大声でぼやいた。

「明日早起きしなきゃかー予定勝手に変えやがってアンニャロがー!」

「まあしょうがないじゃないですか……」

 僕たちが東京からこの地方都市に出張してきたのは、この都市にある支社が抱える案件の応援のためである。まずは前日の夕方に支社の社員と打合せを行い、翌日朝に客先へ商談のために同行するという段取りだった。

 しかし、別件で急なトラブルが発生したとかで、支社社員との打合せが急遽キャンセルされ、客先訪問の日程を変更するわけにもいかず、事前打合せが明日の早朝に設定されたのである。

 僕と亜久津先輩は、今日の午後に支社に到着した途端この話を聞かされ、やることもなくなって早々に居酒屋へ繰り出したというわけだった。

 先輩はアルコールについては相当強い体質のはずだが、店員に地酒を勧められて「何これ飲みやすい~」などとのたまいつつ、ほぼひとりで一升瓶を空けてしまっていた。

 明日の仕事に支障をきたされてはたまらないと、強引に会計を済ませ、まだ酒を頼もうとするフラフラになった彼女を店の外に連れ出した。

 先輩は黒のスカートスーツでビジネスライクに決めていたが、そこに日本酒を盛大にこぼしたために、非常に酒くさかった。ちなみにスーツは三着持ってきてるので、明日の会議は大丈夫だそうな。一泊だけなのに、女の人とはそういうものなのだろうか。

 ここは既にチェックインを済ませてあるビジネスホテルへ向かいたいところだが、先輩はまともにひとりで立てない状態のくせに、カラオケに連れてけと騒ぎ立てる。そんな彼女に肩を貸しつつ、にぎわう歓楽街の中、僕たちは足を進めていた。


 少し歩いていると、酔っ払った先輩が前方を見ながら、不機嫌な口調でつぶやく。

「何らアイツらぁ、こっちチラチラ見てやがるぜぇ。ケンカ売る気かぁ?」

「いや、あれは違うと思いますが……」

 たしかにこちらに着いてから、やたら周囲の視線を感じることが多いのだが、これには理由がある。

 先輩が美人過ぎるのである。

 東京ではそれほどではないのだけど、地方に来るとその美貌がやたら目立つのだ。

 さらに言えばいわゆるボンキュッボンのナイスバディーの持ち主でもあり、身長も男である僕よりも3㎝ほど高い。

 視線はまずは「何だあの美女は!?」という感じで当然先輩へ向けられる。そしてひととおりの感心の後に「何だその隣にいる美女にふさわしくない冴えない男は?」という感じでおこぼれ視線みたいなのがやってくるのである。

 まあその辺のことは慣れてきたので問題はないし、本来は「僕の上司って美人でしょ~?」と自慢したいところでもあるし、スタイル抜群の美女と一緒に仕事ができることに幸せを感じて毎日ウキウキして出社してもいいぐらいだが、はっきり言ってそうはならない。そうはならないのだ。

「ねえねえ、お姉さん。俺たちと呑みいかない?」

 先ほどから先輩に視線を送ってきたガラの悪そうな連中が声をかけてきた。僕の存在は取るに足らないものとして全く無視されているようである。

「やだね」

 もっと穏便な言い方があるだろうに、彼女は彼らの誘いをすげなく一蹴した。一瞬険悪な空気が流れた気がしたが、それでもめげずに男たちのひとりが食い下がる。

「ねえ、そう言わずにさあ」

 そこで先輩は彼らを追い払うように手を振って「シッシッ」と言ってみせた。さらに――

「おのれの男根は勝手におのれで慰めれろぉぉ。この性欲のカマタリがぁぁ」

 「性欲のカマタリ」は僕も言われたことがあった。あれは、自分をオカズにしたことがあるのか?と先輩に問われた時のことだ。もちろん「ありません」と答えた。実はある。

 しかしなぜそこまでチンピラを煽る必要があるのか。先輩よ。

 彼女のこの言動は男たちのプライドをいたく傷つけたようだった。

「ああ?俺らなめてんのか?おらぁ!」

 男のひとりが“オラオラ系”のきっと語源であるだろう言葉を忠実に口にした。

 このいたたまれない空気に、僕は身の危険を感じてオロオロするばかりだった。

 そんな中、先輩は厄介そうに軽くため息をついた後、僕のほうに顔も向けずに話しかける。

「おい武松ぅ」

「はい?」

「こいつらに分からせてやりな」

「は?何をですか?」

 先輩の無茶ぶりがまた始まった。

 なお、言い忘れていたが、僕は武松道資たけまつみちすけ、今の会社に入って3年目であり、まだ魔法使いになるには6年の猶予がある。この状況下でなぜ自己紹介しているかというと、先輩が急に僕の名前を呼んだからである。

 それにしても先輩は僕に対して彼らに何を分からせてやれと言ってるのか。

 男たちの人数は五人。皆が皆「今までいろいろ悪さしてきました。どうぞよろしく」といった顔をしている。

 今の流れで、僕が次に何か言うのではないかと彼らはこの無力な男に注目しているところだった。

 僕は恐怖と緊張にとらわれたまま、とりあえず何か言葉を発しようと口を開く。

「あの……すみません……僕たち明日朝早いので……」

「じゃあお前は帰っていいよ」

 男のひとりに即座にそう返されて、ここで「じゃお先します」とひとり立ち去るのもアリなのではないか、そう考えた矢先、ひとりブチギレた者がいた。

「『帰っていい』らとぉぉぉぉ?!」

 キレたのは先輩だった。

 一体今の発言の何が彼女の怒りを買ったのか、さっぱり分からない。

 しかし、実はこういったことは僕にとってはよくあることなのだ。

 酔っているために拍車がかかっているということもあるが、どこに先輩の地雷があるのか読めないため、日々ビクビクしながら仕事をしなければならない。

 そして、怒った時がめっちゃ怖い。

 先輩の怒りの迫力は、まるで鬼か悪魔が乗り移ったかの如くで、怒りのオーラが目に見えるかのように感じさえする。

 怒られたら泣くどころか、お漏らしまでさせそうな恐怖を相手に与えるのだ。実際僕も替えのパンツをコンビニに買いに行ったことがあった。まあ、あの時は机を突然バンと叩かれてビックリしてちょっと出ちゃったという感じだったが。

 ちなみに、チンピラたちにからまれる前からずっと、先輩は僕にもたれかかっていた。ここまでのやり取りを、先輩はその状態のままおこなっていたのだ。大変迷惑な話である。

 先輩の体温が上昇していくのを感じる。彼女の中にある原子炉が、核融合を起こし始めたのだ。このままでは僕にも被害が及ぶのは間違いない。この人のことをかなぐり捨てて逃げだすべきなのではないだろうか……

 ふと男たちを見ると、誰も彼もが完全におびえた顔つきとなっていた。もはや彼らからは戦意を感じない。

 先輩が与える恐怖は、きっと生理に訴える動物的なものであり、彼らのような本能のおもむくまま生きる知性の足りぬ者に対しては、より一層効果的なのではないだろうか?という説を今思いついた。今度は犬とかに試してもらいたい。本人には絶対言えないが。

「な、何だよ……」

「ちょ、ちょっと白けたな……おい、帰るか……」

「そうだな……そうするか……」

 チンピラたちは都合よく勝手にほうほうの体となって、路地の奥へと去っていった。

 僕はホッとして胸をなでおろす。先輩の体温も下がってきたようだ。

 しかしもしも仮に先輩の神通力めいた怒りのパワーが相手に効かず、襲いかかってこられたらどうすべきだったのか?

 これについては僕は答えを持っている。

 当然迎え撃つのである。僕が、でなくて先輩が。

 彼女は合気道の有段者なのだそうだ。その実力の程を実際に目にしたことはないが、チンピラ数人程度なら簡単にのしてしまえるだろう、と僕は信じて疑わない。今は酔っぱらっているので、酔拳を使うはずである。ただ僕は真っ先に逃げますが。

 美人で強く、さらには頭も切れる。先輩はそんなスーパーウーマンなのである。表向きは。

 その本来の性格をよく知らない会社の上層部や顧客には、彼女は大変受けがいい。その美貌と押しの強さとかしこさを武器にして、抜群の営業成績を上げ、若くして異例の出世も遂げた。

 ただ、実態をよく知る営業部内では、御しづらい腫れ物扱いとなっていることも事実である。今回先輩が主任となるにあたって、当然部下がいなきゃなーということであてがわれたのが僕だ。

 僕の部内での地位は、はっきり言って新入社員よりもバイトの女の子よりも低い。営業部カーストの最下層にいると言ってもいい。そんなどうなってもいい存在である僕に、先輩の部下という過酷な仕事を押しつけるべく、白羽の矢が立てられたのだ。

 「あのじゃじゃ馬を乗りこなせるのはお前だけ」などと営業部の他の先輩たちからはからかい気味に言われ、部長からは「彼女から学ぶことは多いだろう。君の成長にとって、これは大変いいチャンスだ」などと上っ面なキレイゴトで片づけられる始末。実際はよく言って先輩の世話係、悪く言うと下僕である。


 宿泊先へ向かう道中、そんな先輩もようやく怒りが収まってきたように思えた頃、突如目の前を何かが横切っていくのが見えた。

「ボウリング!?」

 黒い球だった。まさにボウリングで使われるぐらいの大きさだ。それが右の路地から左の路地へと目の前をゴロゴロと転がっていったのだ。

「先輩、今の見ました?」

「ふあ?」

 よく分からない反応の先輩を尻目に、ボールの行き先の路地を覗き込んでみたが、それは既に消えていた。反対側も見てみたが、ボウリングの投球フォームを決めている人間はいない、というか誰もいない。

 先輩はその時、少しふさぎ込むようなそぶりを見せた。そんな様子の彼女を見るのは初めてだったので、どうしたのか問おうとすると――

「そうらな……ホテルに帰るとするかぁ」

「え!?カラオケ行かないんですか?」

 これは少し意外だった。これまでの先輩であれば、一旦言い出したら聞かないからである。僕の中では、先輩が歌う昭和のアイドル歌謡に合わせて、マシンのようにタンバリンを叩く覚悟はできていたのだが。

「……う~ん……なんか嫌な予感がすんらよな~……だから気分があんまり乗らん……」

「嫌な……予感ですか……」

 やはりさっきの黒い球だろうか?黒猫が目の前を横切ったら不吉、という話は聞いたことがあるけれども、黒い球は聞いたことがない。彼女がこんな状態になるのは珍しいが、しかし今晩はこれで解放されるかと思うと少し心が弾んだ。

 さらにここまで黙っていたことがある。それは先輩に肩を貸して歩いている間中、ずっと先輩のふくよかな胸が自分の肩に当たっていたことだ。このこともいろんな意味で弾んだ。

 季節も6月ともなれば、日中の日差しが夜の冷え込みを和らげ、時折通るそよ風が、酔って火照った頬をやさしく撫でてゆく。

 そして僕たちは、歓楽街の外れに建つ今夜宿泊する何ということもないビジネスホテルにたどり着いたのだ。

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