失われた下半身を求めて
まずい水
5Fx0 喪失
遠くから悲鳴が聞こえた気がした。
壁越しからなのかくぐもってはいるものの、どこか悲痛さを感じさせる女の子の叫び声――ただ僕の意識はこの時まだ暗闇の中にあった。
その悲鳴を夢の中で聞いたのかそれとも現実なのか判然としないまま、僕はぼんやりとした意識の中でようやく自分がベッドの上で眠っていたことを理解し始める……
……ここは……そうだ……いつもの自分の部屋じゃない……えーと……たしか……ビジネスホテルの……
そんな徐々に明けてゆくまどろみの内に――
「うっ……」
突如ひどく大きな喪失感めいた気分に襲われたのを感じた。
何かとても大事なものを失ったような、足下の地面にぽっかり穴が開いたような、そんな感覚……
ほどなくして僕は薄い掛布団の下で無自覚に右手をすべらせる。
自分でも悪い癖だとは思うのだが、僕には不安を感じた時についやってしまう行動があった。
それは――自分のイチモツを触ることだ。
うっかりすると人前でもやってしまいそうになる。というか、やってしまったこともあった。
これはある人に言われたのだが、彼女ができないことで男としての尊厳を失いそうになっている僕が、男性であることの証明として最後の砦であるソレにすがろうとする、みみっちくも下品で最低な振る舞い、だそうだ。
散々な言われようである。
そう言い放った当人は、今頃隣りの部屋でイビキでもかきながら寝ていると思うと一層腹が立つ。
――などと自分の悪癖について内省的に振り返るのは当然いつも事後のことであり、僕はその時無意識のうちに自分の股間へと手を伸ばしていた。しかし――
「?!」
その手が感じたのは固いベッドの感触とそこに敷かれたシーツの手触り……
そこには本来あるべきものがなかったのだ……僕をいつも安堵に導いてくれるあの物体が……
僕は少し慌てつつも自分を落ち着けようと急速に考えを巡らせる。
そうだ……自分は今、あり得ないぐらいアクロバティックな体勢で寝ているに違いない……普段寝相は悪くないほうだと思うけど、昨日それなりに酒を飲んだわけだし……
もしかすると腰を思いきりひねった格好で寝てたんじゃないだろうか?と考えて両手で辺りを探ってみるが、何もないシーツの表面を撫でるばかり。
どこにあるんだ?僕のアレ……いやアレだけじゃないけど……
僕はそこでようやく自分がイチモツばかりを探していたことに気づいて、探索の方向性の見直しを余儀なくされる。
この時やはり僕はまだ寝ぼけていたに違いない。イチモツだけが見当たらないわけではないのだ。
それにしてもイチモツばかりを追い求めるなんて「唾棄すべき男根主義者の最底辺に位置するゴミ」と隣りの部屋でお休みになられているあの方になじられても仕方がないではないか。いやそこまで言われる筋合いはない。
自分自身の体の所在を手で触れて確認する、これも方法のひとつといえるが、自らその部分を動かしてみるというのもまた確認手段のひとつであろう、と当たり前のことを言ってみる。
もちろん動かすのはイチモツではない。まずは足を動かしてみようと思う。当然僕はイチモツを自在に動かせる訓練など受けていないからだ。さっきからイチモツイチモツ言い過ぎな気がする。
まず始めに右足を動かすために力を込めてみた――が、不思議なことにまるで力が入らない。超能力を持ってると信じて目の前の石ころを動かそうと必死になっている虚しさともいうべきだろうか。まるで自分の意志が足に伝わらない感じだ。左足でも試したが、同様の結果だった。
腰をひねろうとしても尻の肉をキュッと締めようとしてもまるで感覚がない。腰から下のコントロールが一切効かない……これは相当深刻な事態ではないだろうか。僕はいよいよあせりを感じ始めていた。
だがそんな危機的状況の中、僕の灰色の脳細胞はひとつの仮説を導きだす。
それは――僕の下半身がベッドに垂直に突き刺さっていて、さらに下半身全体が周りからガッチリ固定されて動けなくなっている状態にある、という想定だ。
なぜだかわからないがベッドの中心に突然穴が空いて、なぜだかわからないが寝ていた僕は足の先からそこに吸い込まれ、なぜだかわからないが腰から下が締め付けられてそのまま動けなくなっている状況ということだ。
全くもってなぜだかわからない。
ただ少なくとも今自分が置かれた状態は、確認してみる必要がある。
僕は掛布団をめくりあげると、腰のあたりを目視で確かめてみた。
部屋には灯りが点いてはいないが、月明かりなのか窓のカーテン越しにぼんやりとした光が差し込んでいて、深夜のこの時間でもベッドの上を望むことができる。
ホテルから提供された薄黄色のナイトウェア――病院で検査する時に着るようなやつ――その裾から本来スネ毛の生えた二本の足が伸びているはずだが、それがどこにも見当たらない。
ここまでは想定どおりだ。腰から下はベッドに突き刺さっているんだからな。
そう自分に言い聞かせると、僕は両手両ひじをベッドの上につき、勢いよく上体を起こそうとした。その時――
僕はなぜかシーツに顔を埋めていた……
一瞬何が起こったのか理解できず、混乱した頭のまま、今の状況を把握しようと努める。
顔を思いきりぶつけたために、少し鼻がジンジンしていた。
やがて自分がベッドの上に腹ばいになって寝そべっていることがわかってきた。僕の体勢は、瞬時にして仰向けからうつ伏せに変化したようだ。
たしかに一瞬宙返りしたような感覚はあった。ただそれは体のバランスを失って転んだような感じも伴っていた。
腕立て伏せの要領で、胸から上をベッドから離してみる。念のため腹の下を覗き込んだが、そこにはただシーツが敷かれているだけだ。僕が提唱した「ベッドの穴仮説」はここに否定された。
だとすれば僕の足はどこにある?
もしかしたら、と足の存在を期待して背中のほうを振り返ってはみたが、そこには枕がぽつねんと置かれているだけだった。
僕はようやく意を決して、恐る恐るナイトウェアの裾から手を差し入れてみる。
すると――コツンとした固い手触りを感じた。
指を広げて確認すると、何かすべすべしたプラスチックの板のようなものに進行を阻まれたようだ。
そこから横に向かって板の端まで手を滑らせていくと、つと脇腹に触感を感じた。
(板が体とつながってる!?)
そのまま腰回りをなぞるように指を進めてみると、一周して元の脇腹の位置にたどり着いた。
その時――僕はこの恐ろしい状況をやっと理解した。
通常自分の腰を指でなぞっていって一周などできるだろうか?普通は下半身に腕が遮られるはず……
僕の身体中から一斉にどっと冷たい汗が吹き出すのを感じた。
そう、まさにヘソから下が板で蓋をされている状態だということなのだ。
そして――僕はこの時ようやく認識した。
自分の腰から下が消え去ってしまったことを――
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