七臥古物店は明日も閑古鳥

神去り行かば、客遠ざかり

 二柱ふたりの神による、厄介な仕事が終わってしばらく。

 七臥古物店への客はほぼいなくなっていた。

 元々閑古鳥の表だけではなく、を抱える奥の店もだ。

 厄介な仕事は終わったので、仕入れ班も仕入れに出発した。少し間を空けてしまっていたから、それぞれの商売相手から色々とクレームを入れられていることは想像に難くない。

 そして、店の奥にいるのは津雲と豊島、そして珍しくヴァニラである。

 研修が終わったらしいヴァニラが、何やらリルの代わりを宣言して店の中でちょろちょろしている。

 まあ、看板娘が増えるのはいいことだ。リルと比べるとまだまだ色々と危なっかしい少女に苦笑しつつ、色々と教えてやる。


「それにしても店主。こんなに客が来なくて大丈夫なのか?」


 先日の天鎖行神会の一件で、大きく株を上げたらしい豊島が聞いてくる。彼女が覚えている限りで、これ程の長い期間客が来なかったことはないから、心配になってきたのだろう。


「ミルビウッドの時もそうだったでしょ? 神さんの気配があると、どうも客足が遠のくんだよね」


 変に警戒されるらしい。こちらの世界の常連に聞くと、決まって口を揃えてと言い出すのだ。この店に関わる時は、そういうものだと受け入れる心の広さが必要だ。


「それにしたって限度がないか。もう二週間になるぞ」

「蓄えはちゃんとあるから平気だよ。百年や二百年なら、仕事をせずに遊んでても無くならないくらい」


 さすがに耳長族たち全員の面倒を死ぬまで、と言われると難しいが。

 霊薬ひとつ取っても、ひとつ卸すだけでアタッシェケースでお金が動くような品だ。七臥古物店のスタッフは、それが分かっているから一ヶ月や二ヶ月客が来なくても動揺することもない。


「な、ならしばらく閉めてしまえばいいのではないか? 仕入れスタッフが戻ってくるのは分かるが、ここでぼんやりしているのも」

「いやあ、そうしたいのは山々なんだけど」


 津雲は軽く溜息をついた。何となく予感がする。


「こういう時を狙ってくるお客もいるから、困っちゃうんだよね、これが」


 がらら、と表の戸が開けられる音が聞こえてきた。豊島とヴァニラがちらりとこちらを見るが、苦笑いを浮かべて手をぷらぷらと振る。

 話したように、神の気配の残滓が消えるまで普通の客はこの店に寄りつかない。

 ならば、入ってきたのは普通ではないということになる。

 勝手知ったる様子で、すたすたと足音が一直線にこちらに向かってきた。


「はァい♪」

「いらっしゃい。そろそろ来る頃だと思っていたよ」

「あら、津雲ちゃん。そっか、代替わりしたんだったわね」

「祖父さんの葬式にも祖母さんの葬式にも来てくれたろうに」

「永いこと生きてるとね。別れがたい人との別れほど、覚えておきたくないものなのよ。津雲ちゃんもあと百二十年もしたら分かると思うわ」

「俺は今のところ、寿命を弄るつもりはないんだけどな」

「あら、それだとリルちゃんが可哀想だわ」

「それは、うん。お互いに色々定まったら、ね」


 入って来たのは、黒いドレスの女性だった。肌は病的なまでに白く、だからこそ少し前に入り浸っていたとは印象が異なる。

 津雲と気安い会話を交わした後、あらと言いながら形のよい眉をしかめる。


「この気配、須佐様とアイツが来てた?」

「そ。黒づくめが来たからか変に因果が絡んでね。須佐の爺さんが久々に」

「そっか。須佐様は元気?」

「元気だったよ」


 女性は提げてきた鞄から香水らしき瓶を取り出すと、周囲に数回振り撒いた。

 柔らかな芳香が辺りに広がり、この部屋に充満していた何かが空中に散っていく感覚を覚える。神二柱ふたりの神威というやつだろう。


「ありがとう高千穂の姐さん。ちょうどいい、紹介しよう」

「警察の豊島です」

「リルが居ない時の店主の補佐を仰せつかったヴァニラです。よろしく、魔女さま」

「あら」


 ヴァニラの挨拶に、高千穂が目を大きく見開いた。

 さすがにミルビウッドの巫女だっただけあって、超常的な存在を見抜く目は鋭いらしい。

 豊島が首を傾げている。今度は二人に高千穂を紹介しなくてはならない。


「豊島さん、ヴァニラ。こちら高千穂季理絵さん。元々はこの国の外から流れてきた魔女だそうで、本名は別にあるよ」

「初めまして、お二人とも。今はキリエ・タカチホと名乗っているわ。タカチホでもキリエでも、好きな方で呼んでちょうだいね」

「魔女?」

「ええ。西洋で魔女狩りが起きた時に、多くの仲間が世界中に散ったのだけど、私は大陸を横断してこちらにやって来たの」


 魔女だけあって、高千穂は妙に色っぽい。豊島もヴァニラも、何やら顔を赤くしている。

 まあ、二人が高千穂によって新たな価値観に目覚めても津雲にはあまり関係がない。話を進めることにする。


「今日は何を仕入れに来たんだい? 生薬系と鉱物系とどちら出そうか」

「そうねぇ。今日は生薬をもらおうかしら」

「りょーかい。ヴァニラ、ちょっと棚から離れてくれ」


 高千穂の要望に合わせて、棚を操作する。露出している棚が下に沈んで、しばらくしてから別の色をした棚がせり上がってくる。


「左から西洋系、アジア系、日本系、異世界系の生薬類だね。後はご自由に」

「ありがとう、津雲ちゃん♪」


 小躍りしそうな足取りで棚に向かう高千穂。目を離したわけでもないのに、いつの間にか提げていた鞄がスーパーにある買い物かごに変わっている。

 豊島もヴァニラも途中で気づいたようで、かごを指差しながら何かを言いたげにこちらを見てくる。


「人様を指差すのはマナー違反」


 津雲もまた、口元に悪戯っ子のような笑みを浮かべるのだった。






 順調にかごに商品を入れていた高千穂だったが、突然その手が止まった。買い物かごを一旦カウンターに置いて、棚の隅から隅まで確認し始める。

 何か足りないものでもあったのだろうか。津雲は買い物かごの中身を取り出しながら、用意しておいた袋に詰めていく。

 斜め後ろには豊島とヴァニラがついている。彼女が何を入れたのか、興味津々の様子だ。


「コウモリの羽、これは定番だな」

「ギミス《イモリ》の干物、こっちの世界にもあるのね?」

「うお、何だそれ」

「これはバジリスクの肝だな。不用意に触れると、手が腐って溶け落ちるから間違っても触らないように」

「ま、またまたぁ」

「残念だけど、これは冗談じゃないんで」

「えぅっ」


 奇妙な悲鳴を上げる豊島に構わず、ガーゴイルの目玉や折れた吸血鬼の牙など、いまいち用途の分かりにくい品を手際よく入れていく。

 そんな中、妙に気になる袋が三つ。羽毛を詰め込んだ袋で、産地がバラバラなのだ。


「ペガサスの羽毛、ガルーダの羽毛、孔雀明王の羽毛。今回随分と羽毛の種類を分けるんだね?」


 思わず声をかけると、高千穂もこちらの様子を気にしていたのか律儀に答えてくれる。


「あ、そうなのよ。羽毛ならどれでも一緒だって言うがいるから、一回ちゃんと違いを見せてあげないといけないの」

「姐さんまた弟子を取ったのか」

「そりゃ、ね。数少ない楽しみだもの」


 くすくすと上品に笑っていたが、高千穂は探し出せなかった様子で手ぶらでカウンターに戻ってきた。困った顔になっている。


「うーん。おかしいわねえ、今日辺り欲しい物が揃うって暗示だったんだけど」

「何か無いものでもあった?」

「ええ。リルちゃんたちは今日戻るのかしら?」

「んー? 仕入れ班は三班とも出払ってるなあ。あと二日か三日はどの班も戻って来ないと思うけど」


 余程のアクシデントがない限り、などとは付け加えない。その辺りは高千穂もよく分かっている。津雲の祖母を八重ちゃんと呼ぶような人物だ。この店への理解も十分に深い。

 が、高千穂は不思議そうに首を傾げたままだ。


「一番大事なものがないのよ。おかしいなあ、星を読み違えるなんてね」

「何が必要なんだ?」

「インキュバスの角。こればっかりは他の材料で替えられないのよ」

「インキュバス? そう言えばこの前店に来たらしいけど」

「あら」


 その時に店に居なかったことを思い出し、津雲は頭を掻いた。同時に、豊島が顔を曇らせる。

 インキュバスがやってきて、豊島の先輩を買い受けて行った。店のルールに基づくと、文句の言えない案件なのだが。


「何か買い物をして行ったのかしら?」

「ああ。そういやあれだ、代価っつってこんなモン寄越したんだ」


 カウンターの棚のひとつを開けて、ちびた銅貨を取り出す。

 どう考えても人の値段としては安すぎる。豊島が足元を見られたというのもそうだが、この店を馬鹿にしていると言ってもいい。


「あらあら。これはまた、八重ちゃんだったら怒りそうね」

「俺だって留守じゃなきゃ叩き出してた」

「留守だったのね。だからかしら。本当はここにインキュバスの角があったことになってるのよ、津雲ちゃん?」

「そうだねえ」


 顎に手を当てて考える。

 豊島とその先輩の件については、津雲が豊島に委託した店番の間に起こった。そういう意味では、津雲に責任がない話でもない。

 自業自得である事実や、津雲が居たら止められたかなどを勘案しつつ、決断する。


「高千穂の姐さん。これの持ち主、追えるかな?」

「あら?」

「ちょうどいいから、角を仕入れに行こう」


 津雲はカウンターの中から木札を出すと、驚いた様子の豊島に手渡した。

 今の豊島なら、店番くらいなら出来るだろうと判断したのだ。前とは違ってヴァニラも居るし、彼女は絶対に棚に手を置いたりしない。


「豊島さん。すぐに戻ってくるから店番よろしく。変な客が来たら、待たせておいて構わないよ」

「えっ、店主!? わ、私には」


 木札を返そうとしたり、ヴァニラに預けようとしたりとオロオロする豊島。もちろんヴァニラは受け取らないが、どうするの? と視線だけを津雲に向けてくる。


「あんたは俺に謝った。俺は許した。だからもう一度信じてみようと思った。そういうことだよ。無理だと思うなら別に構わないけど、どうする?」


 豊島は木札を胸に押し抱いて、無言で頭を下げてきた。

 受けてくれたと判断して、津雲は高千穂とをくぐるのだった。






 およそ、インキュバスやサキュバス辺りが扉を使って堂々と津雲たちの世界にやって来られるようになっているということは、その世界は既に退廃と背徳で崩壊寸前になっているのが相場だ。

 名も知らぬ神が、無数のサキュバスに絡みつかれて息も絶え絶えになっている。

 逆側を見れば天使が正気を失った目で叫び声を上げていた。首から下はぬらぬらした肉の塊に包まれている。

 勤勉なインキュバスとサキュバスが、あちらこちらでをしている。

 津雲は生来、高千穂は十分な対策をしているので目を合わせられても魅了などされはしないが、この手の邪悪は目が合うたびに正気を喪失していく。


「こっちよ、津雲ちゃん」

「ほいほい」


 フリーになったサキュバスがこちらを誘惑するように流し目を向けてきたので、その目をじっと見つめる。サキュバスがこちらの目を覗き込んできて、


「!?」


 そのまま仰向けにひっくり返った。浮いているから頭をぶつけることはなさそうだが。

 目から軽く殺気を叩き込んでやっただけだ。そちらに耐性のないサキュバスやインキュバスにはこれが効くのだ。


「ふふ、津雲ちゃんを直接魅了しようとしたのね。知らないって凄いわぁ♪」

「何言ってるのさ。高千穂の姐さんよりはえげつなくないからね」


 高千穂は特に何かをしているわけではない。預かった銅貨を道標にして、目的地へと向かっているだけだ。

 しかし、彼女のドレスに憑いている不可視の使い魔たちが、彼女に悪意を見せたインキュバスの角を半ば自動的に刈り取っているのだ。先ほどから角だけが飛んできて鞄に入るという事態になっている。

 あちこちからインキュバスの苦悶の声が上がっている。高千穂からだけは自分の行動について論評して欲しくないなと思う津雲である。


「欲しい数、揃っちゃった?」

「そうねえ。数があって困るものじゃないし、このまま行きましょ?」


 ともあれ、こちらの行き先までは付き合ってくれるらしい。その言葉に甘えて、高千穂の後ろについていく。


「そこよ」

「うっわ、こりゃひでぇ」


 津雲は思わず言い切ってしまった。

 まず、女性が正気を留めていない。目からはとめどなく涙を、口からは唾液を溢れさせながら笑っている様は、普通の方法では元に戻る可能性がないと確信させるに十分なものだった。

 インキュバスはその醜悪な本性を露わにしているが、既にその女性には姿の美醜などどうでもいいのだろう。絶え間なく与えられる刺激的なは、それ以外の全てを放棄しても悔いが残らないほどだと聞く。試してみたいとは絶対に思わないが。


「よいしょっと」


 津雲はインキュバスのぶよぶよした首を右手でむんずと掴むと、そのままぐいっと引っ張り上げた。


「な、何をする!?」


 食事を邪魔されたことに怒り出すインキュバスだが、津雲の顔を見て何やら怪訝な顔をした。

 ここに、正気を保っている人間が二人いることが不思議だと思ったのだろう。


「異世界の店の者だ」

「あっ」


 ようやく理解したらしい。津雲と高千穂を交互に見て、とにかく卑屈に頭を下げてきた。


「そ、その節はどうも」

「俺がいない間に、こんなもんで女性を買い叩いて行ったと聞いてな」


 と、ちびた銅貨を弾けば、それはインキュバスの額にずぶりとめり込む。


「痛ってえええ!?」

「うちの店を舐めてもらっちゃ困るぜ、インキュバスの旦那よう。別の世界を相手にした時は、うちの取引は物々交換が基本だ。ちょっとばかりレートが不当だと思うんだがよ」


 津雲が凄むと、インキュバスは怯みながらも反論してくる。

 額にめり込んだ銅貨を抜き取ると、津雲の前に差し出してきた。


「み、店番はこの銅貨で受け入れたぞ!? だから俺は戻れたんじゃねえか」

「そうだな。だから店主の俺が来た。今回は再度の商談だよ」

「商談?」


 津雲はインキュバスを傲然と見下ろす。とても商談をしている相手に向ける類の視線ではないのだが、この手の寄生性の種族には隙を見せてはいけないのが鉄則だ。


「その女性の価値に見合うだけのものを用意しな。出来れば俺たちはこのまま帰るが、出来なければその人は連れて帰るぜ」

「……出来なかった時のデメリットは?」

「一度は店番が売っちまったもんだ。デメリットはなしだ。ただし、連れて帰ると決めた場合は、もうお前の持ち物じゃねえからそのつもりでいろ?」

「い、いいだろう」


 頷いてくるインキュバスを放置して、ひとまず津雲は女性を落ち着かせるべく行動を開始するのだった。






 精神寄生生物であるインキュバスやサキュバスは、自らの食事に肉体的な接触を必ずしも必要とはしない。しかし、逆に効率的に摂取しやすいよう、食材を勝手に作り替えることはある。

 木野という名だったか、インキュバスに獲物とされたこの女性は、首から下をほぼ完全に人とは違うものに改造されていた。脳と精神さえ無事であれば、彼らの食事は生産される。

 津雲が高千穂の方を見ると、彼女は首を横に振った。魔女の力を持ってしても、ここまで変容してしまえば元に戻すことは出来ないらしい。津雲も同感だ。


「こういう時のために保管してあるわけじゃねえんだけど」


 津雲は懐から一本のアンプルを取り出した。仕入れを三つ経由することで手に入る、最上級の霊薬だ。

 津雲の世界では解析出来ないものでも、別の世界であれば解析と質の向上はできる、という好例だ。津雲の店には、スタッフの分と津雲の分が三セットずつ常備されている。今回は津雲用のものだ。

 どんな死者でも一撃復活、と奇妙なキャッチをつけられたこの品は、とある宇宙国家の医療メーカーでもわずかしか作れないとして文字通りの天文学的な額で取引されている。

 その材料である霊薬を卸している代わりに、定期的に少しずつ精製後の品を受け取っているのが七臥古物店だ。


「高千穂の姐さん、よろしく頼むよ」

「任せておいて」


 高千穂が頷くと同時に、木野の叫びが止まる。今の一瞬で眠ったらしい。

 津雲は殺鬼丸そぎまるを取り出すとアンプルを口に咥え、目にも止まらぬ速さで抜き打つ。首から上が体から切り離されて、ふわりと浮かぶ。これも高千穂の術だ。

 鞘にしまうこともせずに殺鬼丸を消して、アンプルの蓋を折る。浮かんでいる木野の頭部を押さえてアンプルの中身を口の中に流し込むと、浮かんでいる生首が光った。


「取って来たぞ、って何だぁ!?」


 ちょうどインキュバスも戻ってきたらしい。秩序の崩壊したこの世界では、どんなものでも拾い放題のはずだ。果たして何を持ってきたのやら。

 光が収まると、五体満足な木野がすやすやと寝息を立てていた。復活した直後は全裸のはずが、高千穂の魔術で全身にシーツを巻かれている。

 津雲はインキュバスの方に目をやった。


「で、持ってきた物はどれだ?」

「へへっ、これだ!」


 インキュバスが差し出してきたのは、二枚の薄汚れた金貨だった。

 なるほど、と津雲は得心した。インキュバスとサキュバスが大量発生してあらゆる秩序の崩壊したここでは、かつて使われていた通貨ならいくらでも拾って来られるということか。

 そして、生物的に彼らには残念ながら物の価値が理解できない。かつて人々が使っていた価値のありそうなものとしか、彼らには知識がないのだ。


「足りんな」

「そうか、残念だなあ」


 インキュバスはへらへらと笑う。どうやらそれ程本気で探すつもりもなかったらしい。ある程度食事を終えた後の食材には、あまり執着がないのも分かっていた。

 だが、木野に対してはまだある程度の執着があるらしい。いや、元に戻ったから執着が再燃したのか。


「やっぱり別の世界はすごいな。形も元に戻ってる」

「もうお前のモノじゃない。気安く見るなよ」

「へへっ、スイマセンネ!」


 下卑た笑みを浮かべ、木野の首から下だったものに座るインキュバス。残滓でも味わうつもりか、あるいは見送りのつもりか。

 木野を背負った津雲は、そちらを見もせずに戻る道を歩き出した。高千穂がそれについてくる。


「っ、う?」


 揺れる動きに意識を揺さぶられたか、木野が反応する。

 起こすつもりはなかったのだが、どうやら目を覚ましてしまったようだ。


「こ、ここは?」

「まだ寝てろ。本調子じゃないはずだ」

「すごく眠い、一体なに、が」


 うつらうつらとしている木野。体が復元されたからといって、すぐに完全復活できるわけでもない。

 と、インキュバスが何とも楽しそうに声をかけてくる。


「よう、こずえ! お前は一体、誰のモノだっけ?」


 精神寄生性の生物の怖いところは、ここだ。肉体的には元に戻せても、受けた刺激の記憶は元に戻せない。それを思い出したら、全てを捨ててそちらに戻る者も出てくる。

 

 木野が背後を向く気配、だが吐き出された言葉は、およそインキュバスが期待していたものとは異なっていた。


! 何だお前は!?」

「えっ」


 津雲も一人でインキュバスやサキュバスから人を助けには来ない。それは、彼らの精神を戻す手段が津雲自身にはないからだ。

 しかし、ここにはもう一人がいる。高千穂は、あらあらと微笑みながら木野を寝かせる。そうしてのち、インキュバスに向いて言うのだ。


「彼女が七臥古物店に入ってから、治るまでの記憶と時間を、彼女の中から切り離したのよ。便利でしょ?」

「便利でしょって……。それじゃ、その女は」

「ええ、ここに来る前の状態そのままよ」


 津雲は二人の会話を聞きながら、ぽつりと告げた。


「手ぇ、出したな?」

「ヒッ!?」

「すいませんが高千穂の姐さん。ちょっと今両手が塞がっているんで、お願いできますか」


 高千穂は津雲が言い終わるか言い終わらないかのうちに、いいわよと答えた。


「ちょうどいいから、これを上げましょう」

「な、何だそれ」

「彼女の記憶と、時間♪」


 やめろ、と言わせる暇も与えなかった。

 インキュバスが聞くに堪えない騒音を上げ始めたので、津雲と高千穂は足早にその場を後にするのだった。







「先輩!? こずえ先輩!」


 戻ってきた津雲と高千穂を待ち受けていたのは、変わらず豊島とヴァニラだけだった。

 豊島は津雲を押しのけるようにして、木野の体を抱きしめた。高千穂が術を解いたらしく、木野も目を覚ます。


「う。しのぶ?」

「先輩! 良かった! 本当に良かった!」

「ったく、何泣いてるのさ。うう、何だか頭が重いよ」

「ど、どれだけ心配したと思ってるんですか!」


 しがみついて泣き続ける豊島に、何も覚えていない木野も困惑しきりだ。

 高千穂の方を見ると、お手上げのジェスチャー。仕方ない。


「二人への説明は、後でこちらがやっておきます。今日はどうもありがとうございました」

「いいのよ、津雲ちゃん。用事があれば、いつでも呼んでくれていいんだからね」

「そうですね。呼ぶ前に高千穂の姐さんがお見えにならなければ、必ず」

「そういうとこ、八重ちゃんにそっくりね。また来るわ、お世話様」


 高千穂はウインクをひとつ残すと、律儀にドアから出て行った。彼女が購入した袋はなくなっているので、おそらく回収して行ったのだろう。

 そこまで確認したところで、大事なことを忘れていたことに気づく。


「あ、いけね」

「どうしたの、店主?」

「高千穂の姐さんの支払い、今日はどっちだろ」


 確認を忘れていた。現金の場合もあるし、彼女が造った魔法の薬である場合もある。霊薬は造れないらしいのだが、極めて有用な薬ばかりだ。別の世界の客が高値で買っていくこともある。

 一時期、霊薬を自力で造れないのが悔しいと、大量に霊薬を買い占めて分析と研究に時間を投じたと祖母から聞いたことがある。だが、彼女から霊薬が卸されたと聞いたことはないから、失敗したのか飽きたのか。

 ともあれ、金庫と棚を後でチェックしておかなくては。支払いが足りない心配はないのだが、何が増えたのか確認しないわけにもいかない。


「それにしても、泣き止む様子がないなあ」


 わあわあと、感情のままに泣きわめく豊島。落ち着く様子が一切ない。よほど嬉しかったのだろう。だが、木野自身は記憶と時間を失っているから当事者意識がまったくないのだ。そろそろ面倒になってきているか、イライラしてきているかのどちらかだろう。

 このまま今日は閉めてしまったほうがいいだろうか。そんなことを考えている津雲の袖を、ちょいちょいとヴァニラが引いてきた。


「ヴァニラ? どうしたんだい?」

「店主。客、来なかった」

「ん? おお、おうおう」


 一瞬何を言われたのか分からなかったが、すぐに思い出す。そうだ、豊島とヴァニラに店番を頼んでいたのだった。

 豊島の号泣する様子に、すっかり忘れていた津雲である。木札もまだ持ったままなのだろうな、と視線をそちらに向けると。


「ああっ、もう! 鬱陶しいよしのぶ!? 何だってのさ!」


 木野がちょうど爆発したところだった。

 これには豊島も黙ってはいない。


「な、何て言いぐさですか! どれだけこの店と上司に迷惑かけたと思っているんですか!? 大体ね、先輩は――」


 と、そこまでまくしたてたところで豊島の動きが止まった。

 顔を突き合わせていた木野だけでなく、津雲とヴァニラも一斉に疑問符を浮かべる。

 錆びた機械のように、不自然な動きで振り返ってくる豊島。顔を真っ青にして、半笑いのような呆けたような顔で津雲を見てきた。はっきり言って、怖い。


「店主?」

「どうしたの」

「ええとだな。こずえ先輩、殉職した扱いになってるはずなんだが」

「は? 殉職? 私が?」


 こういう場合はどうすればいいんだろうか、と気まずそうに言ってくる豊島と、何を冗談を言っているんだと本気にしていない木野。津雲は力強く頷いて、置いてある電話を取った。


「高千穂の姐さぁん! 特大の案件だ! 戻ってきてくれぇぇっ!」


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