神生みという外法

「いやあ、あんな奴と縁が出来なくて本当に良かったわ」


 須佐の言葉を適当に聞き流しながら、津雲は仁魁炎ジンカイエンが持ち込んだ報告書に目を通す。

 マイルズベイル界への仕入れから戻って三日ほどが過ぎたが、須佐が言うのはそのことばかりだ。遠回しに自分への仕事を急げと言っているのかと思ったが、どうやらそんな意図もないらしい。


「あの黒づくめが満足する神になるかのう?」

「さあ。あの二神ふたり、天使に人望がないことを除けばなかなか上手いこと地上から信仰を集めてたしね。黒づくめが望む恐怖と畏怖の象徴みたいなことにはならないと思うけど」

「くはっ! 上辺だけ聞いて連れ帰るからそうなる。しかしそれだと文句をつけてきやせんかね」

「そしたら二神を返してもらって、次はスパゲッティ・モンスターかピンクのユニコーンでも渡すことにするさ」

「えげつないのう」


 あの黒づくめよりは数段マシさと言えば、違いないわいと返してくる。

 津雲は報告書を二度読み直した後、念入りに破ってゴミ箱に放り込んだ。仁魁炎はずいぶんと詳細に調べ上げてくれたものだ。手を借りたのは烏のヌシであったそうだ。謝礼は奮発しないといけない。

 今日は店は休みだ。七臥古物店のスタッフは全員だ動かないととならない案件だからだ。豊島にも仕事を頼んでいる。現地で合流することになるだろう。

 リルの気配を感じて、津雲は炬燵から這い出した。


「そうだ。あんたはどうするね、須佐の爺さん」

「どうするとは?」

「これから人力で神を造ろうとしている馬鹿どもの所に乗り込むんだが」

「ほう!」

「人が神を造ろうなんて時は、どうしたって血なまぐさくなるのが相場だ。あんたの欲しがる神様が手に入るかは分からんが、来るか?」

「おう、面白そうじゃ。見に行くとしようかの」


 楽しそうに応じて、腕を回す須佐。

 最大戦力と労働力を労せずして確保できた。津雲もまた内心でほくそ笑むのだった。






 人が神を造ろうとするのは、取り立てて不思議なことではない。

 神の加護によって、自分が誰かより先に行こう、高みに昇ろうとする者は少なくない。今ある神への信仰によって神に者がいる一方、自分だけを見てくれると考える者が現れたのも自然の流れと言えた。

 もちろん考えるだけならばただの妄想で済む。問題は今回のように、それを実行に移すことだ。


「山奥、法人登録なしの宗教、壁に囲まれた建物。後ろ暗い三要件をここまで綺麗に満たしているのも珍しいなあ」

「むしろこれでよく今まで摘発されなかったものだ」


 樹の上で様子を見る七臥古物店の面々。壁の向こうには住居らしい建物のほか、どことなく禍々しさを感じさせる施設がある。神造りをしているのはあの建物か。

 神とは、言ってしまえばだ。つまり、器とエネルギーさえあればその存在を神であると世界に誤認させることが出来る。永い時をかけて作り上げられた『神造りの秘法』とやらはそういう仕組みらしい。

 世界を誤認させ、あまつさえ何か権能を持つことができればしめたもの、あとはそこに一定の信仰を供給してやれば、新しい神様が誕生するというわけだ。


「上手いことを考えるもんじゃなあ。人ってやつは本当に芸が細かいというか」


 津雲たちに同行している須佐が、説明を受けて感心したように頷く。

 彼は自然災害の化身として人からの信仰を結集された結果、意思と人の姿を得た存在であるらしい。その前後に造られた神話が、彼の現在を形作っていると言ってもいい。

 彼という存在の根本が自然に依っているのか、人の信仰に依っているのかは議論が分かれるところだろう。

 別の世界の神々の話になってくると、どのようにして発生したのかは不明だ。そもそも須佐だって、本当に本人の言っているように存在が始まったとも限らないのだ。


「で、津雲坊つくぼう。一体何を待っとるんじゃ?」

「囮さ」

「囮?」

「おう。あの敷地の中にどれだけの人間がいると思う? その合間を縫ってターゲットを探し出すのは骨だし、見つかったら騒がしい。今回は囮が十分に相手の耳目を麻痺させてくれるだろうさ」

「すげえ囮がおるんじゃな」

「おう。何しろ俺たちより人数が多いからな」

「ほ?」


 そんなことを話していると、遠くからエンジンの音が聞こえてきた。ひとつやふたつではない。かなりの数だ。

 後ろを見ると、申し訳程度に整えられた道を、何台もの車が走ってくる。警察の車だ。全てが大型車輛で、警察のロゴなどもない。サイレンもないのは、これが完全な奇襲作戦であるからだ。


「お、豊島さんだ。ちょっと挨拶してくる。皆は侵入するポイントに先に向かってて」

「了解。ツクモも急げよ」


 少し離れたところで先頭の車輛が止まる。建物から見えないようにという配慮だろう。

 中から降りて来たのは見慣れた人物だった。津雲は上っていた樹の幹から飛び降りると、豊島の方に向かった。







「豊島さん、ありがとね」

「いや、構わない店主。私だけの力ではないから」

「んじゃ、力を貸してくれた方たちに伝えておいてくれるかな。七臥古物店はそのお力添えに心から感謝していますと。ついでに名簿とか作っておいてくれると嬉しい」

「名簿?」

「うちのお客や、その候補がいらっしゃるかもしれないでしょ?」

「なるほど。承った」


 にこやかな津雲に対して、豊島はあくまで冷静だ。少しは精神的な落ち着きを身に着けたのだろうか。

 ともあれ、ここからは別行動だ。

 集まりつつある気配から身を隠すように距離を取り、告げる。


「じゃ、最初は出来るだけ騒いでもらって。こちらの用件が済んだら、その旨をお伝えするので」

「最初から突入しては駄目なのか」

「ええ。危険なんで。厄介なのがいるかもしれなくて」

「厄介なの?」

「未完成の神様」


 津雲の言葉に、豊島は何かを諦めたかのように大きくふぅと息を吐いた。

 目頭を軽く揉んで、気分を落ち着けているようだ。


「……何だろうな。聞いただけで絶対にアウトだって分かる、それ」

「ま、そういうわけなので」

「分かった。声がかかるまで絶対に突入はさせない」


 力強く頷く豊島。

 方針の確認が出来たので、そのまま立ち去ることにする。

 と。


「店主」

「何か?」

「先日は済まなかった」


 豊島の言葉に、津雲は思わずくすりと笑みを漏らした。


「な、何か可笑しかったか?」

「いやいや。そういう話はこんなところじゃなくて、ちゃんと店でしたほうがいいんじゃないかなって。煎餅と茶くらいは出しますよ」

「それもそうか。……ご一同の無事を祈る」

「どうもどうも」


 背を向けて木々の間に身を隠した直後、豊島に挨拶する声が聞こえる。

 津雲はそのまま林の中を抜けて、リルたちの待つ侵入地点へと向かうのだった。






 ざりざりしたものが、頬に触れている。

 目を開けると、五号と呼ばれた白い子狐が頬を舐めていた。


「ぅ」


 頭を上げると、側頭部の奥にがつんと殴られたような痛みを感じる。どうやら薬を盛られたらしい。


「この部屋」


 見覚えはある。と言うより、思い出したくもない場所だ。

 壁や床、場所によっては天井にも飛び散っている赤黒い染み。五号の頸に着けられた鋼の首輪と、こちらの頸に着けられている首輪がじゃらじゃらと長い鎖で繋がれている。


「五号。次はお前か」

「キュウン」


 甘えるようにすり寄ってくる五号を優しく抱き上げ、毛並を撫でる。

 一号と呼ばれた一匹の狐には、六匹の子狐がいた。そのうち、毛並が白いのは母の一号とこの五号だけだった。

 敷地の中で飼われている狐の親子に、こっそりと餌をやったこともある。

 宗教団体『天鎖行神会』。両親の入信に併せて連れて来られ、五年にもなるか。

 息子は神の器か、その礎になる行に入ると言われて敷地の端にある建物へと放り込まれて半年。

 覚えているだけで一人、そして撫でている五号の兄弟を一匹、その手にかけた。


「教母め。次は五号を殺せと言うのか」


 いや、あるいは五号に食われろということか。

 この部屋に運び込まれ、首輪と鎖で繋がれる。されることはそれだけだ。水も、食糧も、供給されることは一切ない。どちらかが死ぬまで、そしてその血肉を少しでも食らうまでこの空間から解放されることはない。

 相手は人も獣も、健康状態すら問われない。それは自分も同じことで。


「お前のことは殺せないよなあ、五号」


 強烈な餓えと渇きの中、五号の兄弟の狐が噛みついてきたのに逆上して絞め殺したのが最初。

 既に一人と、いつの間にか姿を消していた親狐の一号を食ったと笑った男から、身を護る為に鎖で絞め殺したのがその次。

 何でこんなことになったのか。

 この部屋には、あろうことか強めの暖房がつけられている。早めに渇きを感じさせようというのだろう。


「悪趣味なやつらだ、本当に」


 教母は神を造るための行だ、などと言っていたがそんなことは信じていない。

 こちらを撮影しているカメラで、人と人が、あるいは人と獣が極限状態で殺し合うさまを見て喜んでいるに違いない。

 一度この部屋に入れられた者は、元の区画に戻されることはない。建物の中にある大部屋に運ばれるのだ。少しずつ減っていく同じ立場の者たち。中には自分が本当に神の器になるんだと信じている者もいた。

 聞いた話だと、最初は小動物で、段々と人や大型獣と戦わせられるのだそうだ。

 職員の一人が笑いながら、麻酔が効きすぎて目が覚める前に食われた男の話をしていた。絞め殺してやろうかと思ったが、それをしたのは自分ではなかった。


「あいつら、ちゃんと生きてるかな」


 薬のせいか、前後の記憶がはっきりしない。

 この教団の連中は、どいつもこいつもクズばっかりだ。信じられるのは、教義なんてものを微塵も信じておらず、だからこそここに運び込まれた連中だけ。

 ここか、別の場所に運び込まれていないか。何と繋がれているのか。不安ばかりが募る。

 喉が渇いた。


「違う。駄目だ」


 考えてはいけない。

 五号はこちらを信じてくれているではないか。

 唇を噛む。強く噛むと、滲んできた血が少しだけ口の中を潤してくれた。


「キュ?」

「気にすんな、まだまだ大丈夫だ。喉が渇いたら言えよ」


 血の臭いを嗅ぎ取ったか、五号がこちらを見上げてくる。

 静かにその毛並を撫でると、ささくれ立った気持ちが少しだけ癒やされた。







「つまらないわねえ」


 教母である天善神女あまよしのみこは居並ぶディスプレイを見ながら悪態をついた。


「三十番は早々に食われておしまい。二十六番は勝ったけど死にかけ。でも凄いわね二十六番、あいつあの大きな犬に勝てたんだ。ちゃんと見とけば良かったわ」


 ほぼ裸で人と獣を戦わせるのを神に至るまでの修行と称し、ついでにその映像を好事家に見せて暴利を貪る。

 宗教団体『天鎖行神会』の守護神である大天久得大熊命だいてんくどくおおくまのみことが神の坐に昇ったという行を真似ているだけだ。

 大熊命は霊威を失いつつある。霊獣を食えば回復するというので、元々は人と人の殺し合いだけにしていた行に獣を入れたのだ。


「三十番を食った虎は何人食ったんだっけ? 九人? あと一人食ったら霊獣かしらね」


 ヘッドセットに確認しながら、ディスプレイを眺める。


「んじゃ、ここにしましょ。ったく、和んでるんじゃねえわよ」


 狐を撫でている青年の元へ、虎を向かわせるように指示する。

 イレギュラーだが、構わないだろう。


「五十二番か。そういや、こいつ変にツイてるわよね」


 機械の抽選では、狐、猫、狐の順番だった男だ。二回目は流石に小動物が二度はどうかということで勝手に変更したが、それにしても妙に運の良い。


「ま、いいわ。こいつもこれで死ぬでしょ」


 虎によって鮮血に塗れる様子を、安全な場所から見物できる。

 わくわくしながらその時を待っていた天善の耳に、信徒からの悲鳴じみた声が聞こえた。


『神女様、侵入者です!』








「おいおい、まじか」


 突然扉が開かれる。今回は生き延びられるかと思ったら、のっそりとした動きで大きな虎が入ってきた。

 前脚と口許を真っ赤にしている。既にの後か。

 まじか。再び口をついて出る言葉。背筋に感じるのは本能的な恐怖。


「し、しばらくは襲ってこないだろうな」


 恐ろしい話だが、食後ならすぐに襲ってはこないはず。

 そう期待していたが、そんなに上手くはいかないようだった。


「グルァッ!」


 まだ満腹には遠いのか、こちらに向かって虎が歩いてくる。

 間合いに入ったら跳んでくる。そうは思うが、足は動かない。

 視線がこちらではなく、五号に向いた。


「ふざっ!」


 一瞬だけ自分じゃないと安心した、そんな自分に対する怒りが、恐怖を忘れさせた。

 五号に飛びついて、虎のダイブからずらす。しかしその代償は小さくなかった。

 背中に猛烈な熱。爪で押さえつけられていると理解したのは、次に感じた重さのせいだった。


「ぐぶっ」


 爪を立てられる。痛い。熱い痛い痛い熱い。

 激痛に散り散りになる意識が、視界の端に見えた白い毛玉に少しだけはっきりする。


「来るな、五号ッ!」


 虎に向かってその小さい体をぶつけようとする子狐に、出せる限りの大声で、告げる。


「俺は、もう、助からない! 俺が、食われて、首輪が、落ちたら」


 重さと、爪が食い込む痛みに耐えながら体を起こす。土まみれの顔を歪めて、五号に笑いかけた。


「お前は、逃げろ。無事に、逃げろよ」


 体にかかる圧が増す。どうにか片膝をついて、虎に顔を向ける。その鼻っ面に向けて拳を構えた。

 意味はなくても、せめて一撃――


「こいつは見事。連れ帰るのはお前に決めたぞ」


 振り抜こうと思った瞬間、目の前の虎がまるで敷物のように何かに踏み潰されたのだった。







「悪趣味ってな、こういうことを言うんだね」


 ぎらぎらしい装飾まみれの服を着た、けばけばしい老女。

 その背後には、熊の皮をかぶった人なのだか、人の形をした熊なのだか分からない何かが座っていた。法力めいた力を感じるから、今日まで当局からの干渉を受けてこなかったのはそこの神もどきのせいだと津雲は理解した。


「何者か! ここをこの天善神女と大天久得大熊命様の聖殿と知っての狼藉か!?」


 キンキンと耳に響く金切り声。

 津雲は片耳に指を突っ込みつつ、怯えた様子の大熊命とやらの方を向いた。


「だいて……なんだって? まあいいや、くまのみことさんよ。お前さん、自分が神になるまで行を極めずに、誰かにやらせようとは一体どういう了見だい?」

「な、にを言うておるか! 貴様、この神々しさが」

「婆さんはちいと黙っとけ。まだ神を名乗るにゃあ色々と足りてねえのはご自覚のようだな。当初はお前さんを別の世界の神様として招きてえって話もあったんだが、残念ながらご依頼主が別の神様をご指名だ」

「別の、だと」


 大熊命が口を開いた。くぐもった声だが人の発音だ。どうやら熊に近くはあるが元は人の身だったようだ。


「おう。狐の霊獣の霊威を親子二匹分。その身に貯め込んだ若いのさ。随分可愛がってやっていたらしい、子の方は自ら進んで食われに行ったそうだ。親の方の霊威は仇を討ってもらった礼らしいぞ。お前さんよりよっぽど見込みがあるわなあ」

「きさま」

「てなわけで、お前さんもこのイカレた宗教団体も、この世にゃ不要の判断だ!」


 津雲が声を上げるや、その背後からリルが飛び出して手に持っていた槍を突き出す。大熊命が反応する暇もない、電光石火の一突きだった。


「グギァァァァァァァッ!」

「あれっ」

「痛いかい? ドルバッヂ界謹製の、神を殺しかけた槍だ。あんたみたいな未満じゃ、触れただけで死にかけるような代物よ。動くんじゃねえぞ」


 不要とはいえ、神への成りかけを討つつもりは津雲にはあまりなかった。

 他の世界の神様が、小間使いとして使うには丁度いい格の低さなのだ。須佐が要らないなら拘束して持ち帰ろうと思っていた。


「なあ、ツクモ?」

「どうした、リル?」

「これ。神殺しになってないかな」

「え」


 見ると、既に大熊命は絶命していた。槍は心臓を貫通していないし、この槍の背負った因果なら精々死ぬほど痛い程度のはず。

 考えられる理由は、それほど多くない。大熊命が神様未満などと言うのもはばかられるほど質が低かったか、あるいは『神殺し』の対象だった蟲神が既に亡いか。


「この宗教団体をこんなに永いこと隠したんだから、質はそこまで低すぎもしねえんだよなあ。とすると、蟲神が死んだのか」


 黒づくめは嫌そうにしていたが、処分するのはもったいないと思っていたはずだ。

 しっかり神様として奉じると思っていたので、神殺しじゃなくて神殺しかけの槍だななんて冗談を言って笑っていたのに。


「まあ、仕方ないなあ」

「そうだな。これは損になるのか、ツクモ?」

「ふうむ」


 頭の中でそろばんを弾く。

 つい先ほどまでは、この槍は津雲が見たことのある神殺しの得物ほどの霊威は持っていなかった。ということは、蟲神が死んだだけでなく、大熊命を突き殺したことで正式に霊威を獲得したと考えられる。


「神様未満一匹と神殺しかけの槍と、神殺しの槍一本。比べるなら、差し引き得の方が強いかな、うん」

「そうか、それなら良かった!」


 リルが花咲くような笑顔を見せる。

 めでたく神殺しとなった槍を、部屋の出入り口に置いてある台車に放り込んでから、思い出す。


「あ、いけね。さっきの偉そうな婆さん逃げたな」

「あっ」








「警察まで!? ああくそ、忌々しい!」


 他に誰も知らない地下道を歩きながら、天善神女はそんな悪態をついた。

 聖殿を出たところで、信者たちと警官隊が敷地の入口でもみ合いになっているのを見かけた。突入まで時間がないと悟った彼女はあらかじめ掘らせてあった地下道に飛び込んだ。ここを出れば車が来た道とは逆側に出る。そちらには直通の道はないから、警察もマークしていないはず。

 地下道を掘った信徒たちは、既に二回前の行で獣たちの腹の中だ。その獣は大熊命がぺろりと平らげたから、この地下道は大熊命さえ知らない。


「あたしさえ生きていれば、またやり直せる。そうだ、次は政治家に売り込もう」


 こんな思いをしなくて済むような、新しいプランを妄想しながら歩く。

 随分と歩いた。もう少ししたら出口だ。出来上がった時に一度だけ歩いたことがある。もう少しのはずだ。


「逃がすわけにはいかんぞ、毒婦」


 そんな声が聞こえた。思わず辺りを見回すが、誰もいない。当たり前だ、いるはずがない。

 言い知れぬ不安を感じながら、歩くのを再開する。

 厳かな声だった。大熊命も発したことのないような、重く、威厳に満ちた声。


「あれ、おかしい」


 もうすぐ出口と思って歩いていたはずが、何故だかいつまで経っても出口にたどり着かないことに気づく。

 道はわずかに下がる方向に角度がついている。だからこそ老いた足でもそれなりに順調に歩いてこられたが。

 振り返ると、山を登るような角度の一本道。戻ろうかと一瞬だけ思うが、戻っても捕まるだけだとそのまま進むことを選ぶ。


「おかしい、おかしい。出口はもうすぐのはず。何だこれ、何が起きてる」


 ぶつぶつと呟きながら歩く。地下道はまだまだ続いているように見える。何が起きているのか。


「もうこの先には誰も残っちゃいないが、お前さんみたいなのが彷徨うなら十分だろう」


 再びの声。

 周囲を見るが、誰もいない。そして、戻る道が途中から大きな岩で塞がれているのが見えた。


「こ、ここはどこだい。誰があそこを塞いだんだい、この道はどこへ行くんだい!」

「ここは坂さ。あそこを塞いだのはわしの親父さ。この先にあるのは、昔わしが住んでいたところさ」

「な、なんだいそりゃ」

「ちいとズレれば、黄泉に落ちるぜ。気をつけるんだな」


 声が止む。


「ちょっと! 何なんだい、それだけじゃ分からないだろう!」


 返事はなかった。

 声の主の不親切への怒りを活力に、天善神女は再び歩き出す。

 どこまでも、どこまでも。

 体が疲れなくなっていることに、いつまでも気づかないまま。






 何やら妙な薬を飲まされた。しばらくすると背中の痛みが綺麗に治った。背中に傷跡が残ったらしいのだが、これは神に成り上がった切っ掛けであるとかで消えないものだと言われた。


「あの、簡単には信じられないんですが」

「だろうね」


 店へと戻るという店主を名乗る男の車に同乗させてもらい、説明を受ける。

 自分の身は人ではなくなってしまったという。五号たちは霊獣と呼ばれる特別な獣なのだとか、その血肉を取り入れた自分は狐の神様に近づいたのだとか。

 天鎖行神会の話の続きかと聞いたら、そういう話でもないと言われて困惑は深まるばかりだ。


「俺、どうすればいいんです?」

「人として生活するのは、残念ながらもう難しいかな」


 会は警察の手が入って壊滅状態らしい。そこで行われていた非人道的な儀式についても明らかにされるだろうこと。

 生き延びた仲間たちが、誰と誰がいないと言うだろう。そこに自分がいなければ確かに食われたと思われてしまうだろう。状況証拠で死んだことにされてしまう。


「そういうことじゃ、ないんだなあ」


 店主の言葉に、助手席に座っていたリルという女性が手鏡を手渡してくる。

 覗き込んで、理由を理解する。


「き、狐? 顔が、狐になってる!?」

「ま、そういうわけ」


 白い狐の顔。いつの間にこの顔になったのか、記憶をさらってみてもまったく思い出せない。


『ね、げんきだして』

『そうだよ、げんきだして。わたしたちがいっしょだよ』

「え?」


 聞こえてくる別の声に、辺りを見回す。車に乗っているのは三人だけ。三人と、後は。

 一緒に保護してきた、子狐二匹。


「二号、五号?」

『そうだよ』

『かみさま、おめでと』


 舌足らずな声で祝福してくる二匹の声。


「ま。どう生きていくかは自分で決めるといい。どこかの稲荷神社で隠れ住むか、神様として崇めてくれる場所に移住するか」

「その、崇めてくれる場所って」

「異世界☆」

「……あの、一気に信じられなくなったんですが」


 特殊メイクとドッキリじゃないのか、これは。

 どう考えても触った感触がある顔を、強く引っ張ってみる。

 それでもまだ、何となく自分に起きている非日常を信じることは出来ないままだった。


『やだ?』

「え?」

『そのかお、やだ?』


 五号がこちらを見上げてくる。何となく寂しそうな顔。

 そうだ、血肉を吸った狐で、白毛だというなら。


「嫌じゃないよ。心配しないで」

『うん』


 ぐりぐりと頭を押し付けてくる五号の体を撫でてやっていると。

 自分の今を受け入れようと、心に決めることが出来た気がした。







「また随分と無茶したね、爺さん」

「いやあ、疲れたわい」

「もうこっちに地縁ねえんだから、気をつけないと」

「それでもあれよ、まだ場所は残っとったからな。繋ぐだけなら出来たわ」


 須佐が疲労困憊といった体で店の床に座っている。

 この疲労は、こちらで休んでも治ることはない。の向こう、今の彼らの居場所に戻らなければ。しかし、戻ればすぐに治る類の疲れでもある。


「この子狐を二匹、連れていくんじゃな?」

「はい」


 須佐の体調を考慮して、というわけではないが。出発は即時行われることとなった。新しく生まれた狐面の神は、こちらの世界の両親とは絶縁したと断言したのも大きい。

 聞いてみると、両親は先ほどの天鎖行神会とやらの信徒になったそうで、息子があの血なまぐさい儀式に向かうことを喜んでいたのだとか。

 それは縁を切りたくなるなと納得したので、津雲は特に止めなかった。


「では、元気で」

「ええ。まだまだ世の中には知らないことがいっぱいあるものですね」


 握手を求められたので、応じる。

 力は強くなかったが、決意が感じられた。感情の決着がついていると分かった。


「そりゃそうです。こんな場所に店を構えてますがね、まだまだこちらの世界も知らないことが多いんですよ」

「そうなんですか」

「ええ。これは慣れている先輩としてのアドバイスですが」

「はい?」

「楽しんだ者勝ち、です」

「楽しんだ者勝ち」

「はい」


 手が離れる。牙を剥いてみせているが、笑っているのだろう。まだその顔に慣れていないのだ、仕方ない。


「そうします、ありがとう」

「世話になったな、津雲坊つくぼう

「代価は次、婿さんが来る時に持たせてくれればいいよ」

「悪いの」


 ゆっくりと立ち上がり、ふらふらしながら須佐がを開ける。


「ほれ、掴まれ」

「はい」


 狐神が須佐の手を掴み、子狐二匹が狐神の頭にしがみつく。

 須佐が倒れ込むように扉の向こうに消えて、それに続くように狐たちも去って行った。が静かに閉まる。


「よし、これで万事完了だ! お疲れ様!」


 津雲の言葉に、歓声が上がった。






 ざりざりしたものが、頬に触れている。

 目を開けると、五号が頬を舐めていた。


「おう、起きたか」


 若々しい声。聞き覚えはあるが、その時は随分としゃがれていたような。

 視線を向けると、須佐と呼ばれていた男。皺も消え、頭髪も真っ黒になっているが、本人だと確かに分かる顔立ち。


「ようこそ、新しい世界へ」


 差し伸べられる手。

 その向こうを、見たことのない大きな鳥が飛んでいた。

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