残酷な事実

 ひとしきり泣き喚いた豊島は、ようやくリルからの問いに答えはじめた。

 残念なことに津雲はアメリカに出てしまったらしい。アメリカという普段とは違う環境で、ムードの良い瞬間を見計らって津雲に迫るというリルの壮大な計画は来年に持ち越しとなった。

 あるいは別のタイミングでもいい。むしろ疲れて帰ってくるだろう津雲を出迎えるという形でムードを作ってもいい。


「大体何を考えているか分かるよね」

「まあ、きっといざとなったら何も出来ないのよ。そもそも店主のためにプレゼントする品物を厳選しすぎて遅くなったんだから。こういうのを何て言うんだっけ、本丸デッド?」

「本末転倒ね」


 それはそれとして、豊島のことだ。

 連れて来た先輩が棚に手を置いていたせいで、やってきた客に連れて行かれてしまったと。

 店番を任された立場で早速やらかしたわけだが、この辺りはさほど驚くようなことではない。


「取り敢えず、あんたの先輩だっけ? そいつのことは諦めなさい」

「な、何で?」

「棚に手を置いていたんでしょ? あんたは止めたんでしょ? 自業自得よ。説明された上で手を置いていたなら、もう助ける方法はない。その人は、自分が品物になるというここのルールを受け入れたんだから」

「そんな」


 ジャーイが軽い調子で言い切ると、豊島は頭を抱えた。

 仕入れ班は誰も慰めようとはしない。リルは違うが、この店に関わる者のほとんどは品物として売られてきた側だ。人を品として扱うことを受け入れているのだ。

 こちらに来た者たちは自分たちの境遇を幸せだと信じているから、自ら品物として別の世界に行ったことを甘いなと、そして物好きだなとしか思わない。

 豊島も、木野も。自分たちがこの国の法に守られているという意識があるからか、何とも甘い。


「一瞬見た目が変わった、か。間違いない、この世界で言うインキュバスの一種だろうな」

「インキュバスって、夢の中で」

「そうそう、それ。女の個体がサキュバスで、男の個体がインキュバス。きっと狙った女の理想の姿に化けるんだろうさ。そうして魅了をかけて、連れ去ると」


 豊島もおそらく、一度魅了をかけられかかった。だが、そのインキュバスは豊島が商品ではないことを思い出したのだ。強欲だが、ルールを守る節度はあった。この店では何より大切なことだ。

 そしてリルは、店の最も大切なルールを軽視した豊島を許していない。おそらく今後も永久に許すことはないだろう。それはきっと、津雲以外の全てのスタッフに共通している考えだ。

 だからジャーイも冷たい。彼女は口は悪いが、本来は情の深いとても素敵な女性なのだ。


「トヨシマ。この店で最も大事なルールを教えてやる」

「最も大事なルール……」

「『店主の考えは絶対だ』ということだ。ツクモは優しいから大目に見ているかもしれないが、本来はその決定に異を唱える者など店には必要ないのだ。お前はたしか、霊薬の流通についてツクモに意見していたな?」


 リルが言うと、豊島が強い視線を向けてきた。

 その視線だけで、今の時点でも彼女が納得していないのが分かる。あるいは、木野という協力者を奪わせてしまった責任からの逃避か。

 と、ジャーイが口許にほんの少し笑みを浮かべて言う。彼女はかつて、この世界に売られる前は薬師の修行をしていたらしい。


「霊薬の調合には、この世界では調達できない材料が七種類あるのよ」

「えっ」

「そして、私たちが依頼している薬師では集められない素材が二つ。その二つはこちらの世界であれば比較的簡単に手に入るけど、向こうにはほぼ存在しないとされているのよね」


 言いながらジャーイは、背負っていたリュックサックを静かにカウンターに下ろす。がちゃりと器の擦れ合う音がして、豊島がおそらく気づいた。

 ジャーイはリュックサックから、瓶詰にされた霊薬を取り出していく。十三本の瓶が、カウンターに並べられた。


「向こうとの取り決めは、出来た霊薬は半分ずつ私たちとあちらとで山分けにするということよ。一度に作れるのは二十五個で、持って帰れるのは十三個が限度。ねえ、たった十三個で、どうやってみんなに行き渡らせるの?」

「もっと、たくさん作ってもらえば」

「向こうにある材料の全てが、安定して手に入ると思ってる? 病気や怪我を、瞬く間に治してしまうような薬の材料なのよ」


 ジャーイの声は段々と冷たくなっていく。

 彼女は、師匠である薬師から霊薬の材料と引き換えに売られた。奴隷商人がこの店に迷い込まなければ、そして先代店主が引き取ってくれなければ彼女の現在は随分と悲惨だったことだろう。

 ジャーイは自分を救ってくれたこの店に心から感謝しているし、霊薬の確保は彼女にとって店への小さな恩返しの一つでもある。

 だからこそ、霊薬の材料にまつわる話題は彼女のタブーを踏み抜く行為なのだ。

 

「それにね。私たちが卸してる材料に代わるものが手に入るようになれば、あっという間にこの店は霊薬を供給する販路を失うのよ。あまり簡単に言ってほしくないわね」


 ジャーイを奴隷商人に売った薬師は、後に七臥古物店のスタッフたちによって復讐された。店の者たちは、仲間の仇に容赦しない。

 霊薬を店に卸している薬師は、ジャーイの兄弟子だ。だからこそ、リルやジャーイに対して遠慮がある。貴重な材料を大量に持ち込んでくれる恩と、師の仇という怨み。ジャーイへの同情と、その復讐への理解。そういった感情の諸々が、霊薬の山分けを実現している。

 とはいえ、半分の霊薬でも十分大きな利益を得ているようで、薬師の方から金銭的な苦情が出たことはない。


「店主は」

「なあに?」

「店主はそんな話、一言も」

「材料の話とか、あなた言われたら信じた?」


 ジャーイの問いに、豊島は返事を返すことが出来なかった。彼女にも自覚があるのだ、津雲が言ったなら、それを言い訳だと決めつけただろうと。

 リルはジャーイの肩を叩いた。これ以上は必要ない。リルの意図が分かったのだろう、ジャーイはひとつ頷いて笑みを見せた。


「この店はルールを守る者には寛大だが、守れない者には常に厳しい。本当はツクモがタイミングを見て伝えたのだろうがな。取り敢えずこれが授業料だ、持って行け」


 リルは、カウンターに並んだ霊薬を一瓶、豊島に握らせた。

 驚いた顔でこちらを見てくる豊島に、口角だけを上げて告げる。


「成分を分析するもよし、自分で使うもよし。今日のインキュバスがいつかもう一度現れた時に、その先輩とやらがもしも生きていたら、買い戻して使ってやるのもいいんじゃないか」

「先輩に、使う?」

「ああ。インキュバスが連れて行った以上、それはもう濃厚にもてなされるだろうからな。これまでの人生の全てがどうでも良くなったとしても何も不思議じゃない」


 男性だとサキュバス相手に同じことが起きる。

 店のスタッフは全員が対策として強い魔除けを持っているので、魅了の類に影響されることはない。

 あるいは、津雲から預かった代理の木札が、彼女の正気を最後まで守ってくれたのかもしれない。


「先輩を助ける、手伝いをしてはもらえないだろうか」

「無理だな。そもそもそいつらの世界に行く方法がない」

「何故!?」

「扉の向こうには無数の世界があるんだぞ? この世界以外で生まれていたなら、生まれた世界に行くことくらいは出来るけど。ここにはインキュバスなんかと縁のある奴は一人もいないぞ」

「じゃ、じゃあ先輩は!」

「だから言っているじゃないか」


 もう忘れたのか? とリルは首を傾げてみせた。

 豊島の目が揺れる。絶望に。だがリルは口にした。残酷な事実を、端的に。


「諦めなって。こちらから手を出せる段階は既に終わっているんだ」







 豊島は、今回の事件をどのように報告すればいいのか、ずっと思い悩んでいた。

 木野の失踪については、豊島は明確に自分のせいだと思っている。

 甘く考えすぎていたのだ。その見通しや考えの甘さを、痛烈に叩きつけられた。もうこの仕事を辞めてしまいたいという想いと、あるいはいつか木野の命を救えるのではないかという可能性。

 退職届か、報告書か。どちらを提出するべきか頭を抱えて悩んでから、豊島は直属の上司である富口の席に向かった。


「おや、どうしたんだね豊島くん」

「課長、実は」


 声を潜めて、覚えている限りを伝える。 

 木野が商品として連れ去られて、もう戻って来られる見込みがないと伝えると、富口は二回頷いて、沈痛な面持ちで言った。


「そうか、木野くんが。彼女は優秀だったんだがな、残念なことだ。ご家族には私からお伝えしよう」


 その、あまりにも淡泊なリアクションに豊島は絶句する。

 彼女が期待していたのは、もっと大きな反応だった。何とか木野を助ける手段はないかと動くとか、そういった。

 しかし、実際の反応はいとも簡単に諦めるというもの。あまりにも冷えていた。

 呆然とする豊島に、富口はくしゃりと表情を変えた。


「不思議かい?」

「はい。課長なら、先輩を助けようと動いてくださるものと」


 それが苦笑いだと分かったのは、豊島が言った言葉に肩を震わせたからだ。


「説明は受けたのだろう? 木野くんが連れていかれた場所に、我々はどうしたって行くことは出来ないんだ。出来ないことをしようとは思わないな」

「人身売買をネタに出来ませんか。いざとなれば店舗の接収だって」

「残念だが、七臥古物店に対しては誰も動かない。私に対しても他の誰かに対しても、その話は二度としない方が良いな」

「そう、ですか」


 肩を落とす豊島に、かけられる声は優しい。


「木野くんのような事例は、担当が変わると大体一度はある話だ。担当自身が行ってしまうこともあったし、君の前任の時は確か後輩がいなくなったはずだな」

「じゃ、じゃあ」

「めぐり合わせのようなものらしい。そして我々は店と、いなくなった誰かに負い目を持つ。恐ろしいこともあるが、得られる恩恵も確かにある。違うかね?」


 豊島は答えられなかった。鞄の中にある霊薬は、彼女にとっては確かに恩恵だったからだ。

 しかし、その処遇はまだ決められていないでいる。自分で使うのか、分析に回すのか。心では常に分析に回すつもりだったが、不思議とそれを実行することが出来ないでいる。


「いなくなった連中は、あの店の人身売買を突こうとしたと聞く。君と木野くんはどうだったのかね?」

「先輩は、人身売買を現行犯で、と。私は、わたし、は。れ、霊薬の流通をと」

「なるほど、霊薬ね。分析には今までに三個くらい回っていると思うが、残念ながらいまだに材料の特定には至っていなかったはず」

「分析に、回って?」

「うん。店主殿のご厚意で譲ってもらったことがあるんだ。だが、どうしてもこの世にあるとは思えない材料が存在するとかで、流通計画は頓挫している」

「そ、そんな」

「あちらはあちらで、今入ってくる数以上を流通させることは出来ないそうだ。霊薬を求める好事家はかなりいてね。あっと言う間に売れてしまうから、買えない人も多いと聞く」


 富口は慰めようとしているのだとは分かるが、しかしその言葉一つひとつが刃となって豊島をさいなむ。

 むしろ、始末書や報告書を出せと言われたほうがまだマシだった。

 自分に過失が何もないと言われている。それをもって、古物店にとっては豊島の意見など反抗ですらなかったのだと気づく。


「それに、だ。我々は彼らを罪に問えない理由がある」

「理由?」

「そうだ。もしも私たちがあの店を接収しようとしたら、あの店のスタッフは全員で例の扉に飛び込むだろう。そして扉は閉じられ、二度と開かなくなる」


 その話は、初めて耳にする話だ。

 今日何度目かの絶句をしている豊島に、富口は分かりやすく伝えてくる。


「あの店は、ただ店主の好意によってこの世界に存在する。彼らはあの場所に店があってもなくても構わないんだ」

「まさか」

「だが、あの店に大なり小なり世話になった要人は数知れない。国内国外を問わずに、膨大な人数がいる。その方々が店の接収など許さないよ」


 豊島は、思わず天井を仰いだ。

 あの店は、色々なものに守られているのだ。自分のクビや命など、賭け金にすらなりはしない。

 退職届を出すという考えは、既に豊島の中にはかけらもなかった。

 見極めるのだ。七臥津雲という男を。そしていつか、譲歩を引き出す。そうやって彼に勝つのだと決めた。


「分かりました。それでは取り急ぎ報告書を書き上げます」

「待ってるよ」


 そうでなければ、木野は。インキュバスに連れて行かれた彼女は、本当にあの小さな銅貨一枚の価値しかなかったことになってしまうのだから。

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