第10話 10
「いいえ。僕は長生きなんかしたくなかった。これでいいんです」
キヨアキの口調に迷いはなかった。
「なんでそこまで言い切れるん」
「だって、僕の祖父も、父も、髪が薄い、っていうか、はっきり言ってハゲてるんですよ。しかも三十代前半から。おまけに僕は祖父や父にそっくりだと皆から言われますから、確実に同じようになるはずです」
「つまり、ハゲんの嫌やし、若いうちに死にたい、と。何やそれ」
「当事者には切実な問題なんです」
「そやけど、ハゲなんかカツラとか植毛とかあるし、スキンヘッドでもええやんか。うちの爺さんとオトンなんか、耳に毛ぇ生えてんねんぞ。見たことないか?耳の穴にびっしり剛毛生えてるおっさん、それがうちのオトンや。我が親ながらドン引きやで。しかもそれが自分の将来カウントダウンや。なあ、間違ってたらごめんやけど、自分、もしかして、いじめられてた事あんのちゃう?」
一瞬の沈黙の後、キヨアキは「なぜそんな事を言うんですか?」と問い返した。
「いやもう単純に、あの女の子を、いじめられたままで死なせたらあかんて、そこまで親身になる理由は何やろうと思って」
「そうですか」と言って、キヨアキはかすかに笑った。
「これは僕の持論ですけど、一度でもいじめられた事のある人間には、何か印のようなものがついていて、一生消えないんじゃないかな。だからあなたも、僕の印に気づいた」
「いや、そういうわけではないけど」
「言い訳はいりません。確かに僕はいじめられていた。中学校に入ってからです。たとえばあなたの同級生、三浦さんみたいにはっきりした理由があれば、まだましだったかもしれない。でも僕はただ単に、僕が僕だからという理由でいじめられた。そのせいで中学は一年生の秋から行っていないし、高校も通えなかった。それでも大検を受けて、地元から遠く離れた大学に入りました」
「それでええやん」
「僕としては全てリセットしたつもりだったけれど、現実はそう甘くない。中高をとばして大学に通うのは、自動車教習所抜きで高速を走るようなものです。はっきり言って心の折れそうな事の連続でした。そして僕は、僕じゃない人と間違えて殺された。正直言って、これで完全にリセットできる、という解放感があります」
「完全に、リセット?」
「何のいいところもなかった人生を終わらせて、次に転生するんです。まっさらな人生をやり直すんだ」
「いや、もうリセットできてるやん。大学入ったんやろ?心折れそうやとか言うけど、俺なんか毎日折れまくりやで。客はわがままばっかり言うし、上司は細かいし、先輩クセ強いし、電子レンジつぶれたし」
「あなたは何があっても大丈夫です。強い人ですから。一緒にいてよく判りました。でも僕は駄目なんです。些細な事で、とにかくすぐに落ちてしまう。僕はもうこれ以上、落ちるのは嫌なんです」
これまでの冷静さとはうって変わって、振り絞るような口調でそう言うと、キヨアキは敦をおいて駈け出した。
「うわ、待てや!お前、自分だけ繊細な人間で逃げ切るつもりかコラ!」
慌てて敦はキヨアキの後を追った。捕まえてどつき回す、ほどのことはないが、言ってやりたい事はある。いやその前に、このまま放っていかれては、大阪に戻れなくなってしまう。
キヨアキの逃げ足は速く、見る間にマンションの敷地を抜けると、二車線の車道を越えてその向こう、公園らしい緑地の並木道を走ってゆく。それを追って車道に出た敦を、強烈な光が照らした。
一瞬、足がすくむ。
光のくる先を確かめようとしたが、何かが激しくぶつかる感覚があって、気がつくと敦は宙に浮かんでいた。その下に見えたのは、250ccの黒いバイクにまたがった巫女だ。
襷で袖をたくし上げ、緋袴の足元はライダーブーツ。右足を軸に車体を反転させて停まり、こちらを見上げている。
ヘルメットはつけず、分厚いゴーグルをかけていたが、その底に光る冷たい瞳が敦の視線と交錯する。朱をさした唇の両端をわずかに上げて、彼女は笑っていた。
「マジでドSや」
その言葉を口にする余裕もなく、敦の意識は途絶えた。
アラームが鳴っている。
腕を伸ばして枕元の携帯をつかみ、アラームを止めると敦は起き上がった。
Tシャツにトランクスといういつもの格好だが、右太腿の白い絆創膏がやけに目立つ。
昨夜、仕事帰りに医者に行き、切開して膿を出してもらい、抗生物質と痛み止めをもらって帰ってきたが、その甲斐あって、もうほとんど痛まない。
ここから三十分はほぼ自動操縦。身支度を整え、シリアルに牛乳をかけたものとアイスコーヒーで朝食。食器を洗い、ついでに歯を磨いて家を出る。
外は快晴で、今日も暑くなりそうだ。十分ほど歩いて駅まで行き、いつもの電車のいつもの車両に乗る。うまい具合にドア脇の空間を確保すると、壁にもたれて携帯を取り出す。この時間にニュースをチェックし、世間の動きを多少は把握するのだが、政治、経済よりもスポーツ新聞系のネタを見る時間の方が長かった。
まあ大体、ネットのニュースは見出しで引っ張っておいて、中味はさほどでもない、というものが多い。だから「新手のミステリーサークル?一夜のうちに謎の自転車オブジェ出現」というニュースも、大して期待せずに見たのだった。
「埼玉県草加市の公団住宅敷地内において、駐輪場の自転車約三十台を一カ所に積み上げるといういたずらが発生し、住民を困惑させている。
いたずらは昨夜十一時五十分から本日零時十分という、きわめて短時間のうちに行われたとみられるが、目撃者はおろか、物音を耳にした住民すらいないとの事。しかも自転車の半分近くは変形しているという。また、同じ時間帯に現場付近で乗用車の窓が割られ、中で眠っていた幼児が保護されており、警察では二件の関連性を含めて捜査している。
ネットでは、新しいタイプのミステリーサークルではないか、という意見も出ているが、真相は定かではない」
敦はこの記事を何度も読み返した。それから別の事件について、おぼろげな記憶を探った。
JR西宮駅、バス乗り場、火。
列車が停まる。ここはいつも降りる駅ではない。しかし敦はそこで下車すると、人の流れに乗って歩き、JRへと乗り換えた。
大阪より西、神戸方面へはふだん、ほとんど向かわない。仕事をはじめ、友達に会うのも映画を見るのも、たいがいは大阪だし、出かけるとしたら神戸よりも京都だった。なので西宮駅など今まで降りたこともなかったが、それでも今朝は来る必要があった。
列車を降り、改札を抜け、北口へ出る。ロータリーのバス乗り場には人が並んでいて、敦はその中にキヨアキの姿を探して歩いた。
いるのか、いないのか。いなければ、それでいいのか。いれば、どうするのか。
やせて色白、背が高く、少し長い髪で、深いマリンブルーに銀色のロゴが入ったTシャツ。首筋には三つ並んだホクロがある。
そんな青年がいるのか、いないのか。
一人ずつ、バス待ちの列に並ぶ人間の姿を確かめながら、敦は足早に歩いた。汗が噴き出してくるのは、暑さのせいか、切羽詰まった気持ちのためか。
そしてもうあと数人というところで、敦は足を止めた。
キヨアキだ。人を寄せつけないような、伏せた目線で手元の携帯をじっと見つめ、耳にはイヤホンをつけて立っている。
しかし、彼にどう声をかけるべきなのだろう。
逃げろ?いきなりそんな事を言えば、こっちの正気を疑われる。
敦はその場に立ちつくした。せっかくここまで来て、俺は何もしないのか?
いや、何もしなくていいのかもしれない。
今ここに、キヨアキが無事でいる。つまり、俺がわざわざ動かなくても、大丈夫という事ではないか?
そう思い、駅へ引き返そうと振り向いた時、彼とすれ違った者がいた。
つん、と鼻をつく匂いに、反射的にそちらを向くと、ショートヘアで黒いワンピースの女が、妙に力のこもった足取りでキヨアキの方へ歩いて行く。
左の肩に大きなトートバッグをかけ、右手には、キャップのないプラスチックのボトル。それを見た時、敦はさっきの匂いが何だったかに気づいた。
とっさに、駈け出して後ろから女の腕をつかむ。
きゃーっ、という悲鳴をあげて彼女は敦を振り払おうとし、その拍子にボトルの中味が地面に流れた。
瞬く間に揮発性の臭気がたちこめ、辺りは騒然とする。キヨアキもまた、顔を上げると、何事かと周囲を見回した。
一瞬、彼と敦の目が合ったが、キヨアキの表情に言葉をつけるなら「は?」といったところで、彼はすぐに手元の携帯に視線を落とした。
「ちょっと!放して下さい!」という苛ついた女の声に、敦は我に返り、「あ、さ、さーせん」と手を緩めると、猛ダッシュでその場を後にした。
ちょうどホームに入ってきた列車に飛び乗り、空いたシートに身を沈める。汗と動悸が収まるまでの間、敦はじっと目を閉じていた。
どの位そうしていたのか、そろそろ大阪駅かと目を開くと、「次は三宮」というアナウンスが流れた。思い切り逆方向である。
どうせ遅刻。観念して携帯を取り出し、思い切って病休のメールを入れることにする。体調不良の伏線はあるのだから、後は池本Bが勝手に話をふくらませてくれるに違いない。
メールを打ち終えて顔を上げ、敦はひとり呟いた。
「とりあえず明石まで行って、明石焼きでも食べよかな」
外には九月一日の、真夏と変わらない陽射しが降り注いでいる。
8月32日 双峰祥子 @nyanpokorin
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