第9話 09
「よかった。無事でしたね」
「何やこれ。どうなってんねん」
「彼女が落ちてきた衝撃を、自転車が吸収してくれたんでしょう」
「へ?そうなん?もし自転車なかったら、俺はどうなってたんや?」
「たぶん、大変なことに」
「それ知ってて、俺にこんな事やらせたんか?」
「いえ、ついさっき、もしかしたら、って思ったんです。だから、気をつけてって、言いましたよね」
「アホ!遅いんじゃ!」
それ以上何を言う気力もなく、敦は少女を抱きかかえ、四苦八苦して自転車のバリケードを抜けた。
「この子、どこに連れてったらええんや?」
「とりあえず、人目につかないところに」
「・・・ほな、あの階段にしよか」
二人は先ほど上ったマンションの外階段へと向かった。敦はそこで少女を下ろすと、階段の三段目に座らせた。ぐったりと、目を閉じたままの彼女が倒れてしまわないよう、壁際に身体を寄せておく。
「ちょっと、忘れ物してるわよ」
その声に振り向くと、白猫メルとまおくんが立っていた。まおくんは背負っていた少女のリュックサックを下ろすと、「はいどうぞ」と差し出す。それを受取りながら、敦はキヨアキに文句をつける。
「これ、自分が持ってた・・・」
言い終わらないうちに、周囲がほの明るくなった。かと思うと鋭い光が差し込み、その光源は見る間に中空へと駆け上って、圧倒的な光と熱をもたらした。だがそれも一瞬のことで、光の中心はそのまま天を滑落してゆくと、最後にオレンジの残像をゆらめかせて消え、辺りは再び夜の闇へと沈んだ。
その短く、かつ急激な光の移ろいにつれて、捉えどころのない風が渦巻き、揺れ、吹き抜けていった。そして地の底から湧き上がるような、大気の唸りともいうべき音の塊が辺りを包みこみ、やがて現れた時と同じくらい唐突に消えていった。
「今の、何?」
まおくんから受け取ったリュックサックを手にしたまま、敦は誰に、というでもなく問いかけたが、この場でそれに答えられるのはキヨアキだけだった。
「時間が流れたんです」
「時間が、流れた?」
「八月三十二日が、今の一瞬で、過ぎてゆきました」
「へ?今のあれ、一日やったん?」
キヨアキは頷くと、腕時計を見た。
「さっきまで我々は八月三十二日の、午前零時をわずかに過ぎたところにいました。そして今は、八月三十二日、午後十一時五十九分」
「そうか、まあ、とにかく、間に合ったわけやな」
細かい所はよく判らないが、結果オーライだと判断して、敦は手にしていたリュックサックを少女の脇に置いた。
「ほな、この子は九月一日になったら目を覚ますわけやな」
「そうです」
「そやけど、この階段をまた上がって行かへんという保証はどこにあるねん?」
「それは・・・」と言いよどむキヨアキを制するように、「あたしがついてる」とメルが宣言した。
「は?お前が?」
「あたしはこの子と一緒に、家までついて行く。でもって、そのまま飼い猫になるから」
「まあ、それはお前の勝手やけど、そもそもお前、どっかの飼い猫とちゃうんか」
「そうよ。今夜はちょっと散歩に出てきただけ。でも、この子には猫が必要だから、あたしがついて行く。あたしのママはきっと泣くわ。メルちゃんが迷子になって帰ってこないって。それは判ってる。チラシとかいっぱい作って、近所のポストに入れまくって、スーパーとかパン屋さんとか、図書館やクリーニング屋さんにも貼ってもらうんだわ。そう思うと、とても悲しいけど、あたしはもうママのところには帰らない。この子と一緒に行く」
「そういう事するし、猫は犬より恩知らずやとか言われるんやろ」
「かもね。でも猫って人間が思ってるよりずっと、色んな事考えてて、色んな役目があるの。ママならきっとわかってくれると思う」
メルは座っている少女の膝に飛びのってうずくまると、「じゃあね」と言った。
「お、おう、ほなな」
敦は中途半端に頷くと、少女とメルに背を向けた。傍ではキヨアキが「お元気で」と言っている。そして歩き出すと途端に、まおくんが「だっこ」とまとわりついてくる。
「あーはいはい」と、適当にいなしながら、敦はこの後どうすれば大阪まで帰れるのかと考えていた。
「だっこ。だっこして」
「すまんな、おっちゃん、大阪帰らんならんし」
「だっこして。まおくんジュースかお水飲むの」
「はい?あ、ジュース?」
すっかり忘れていた。そもそも何故まおくんが自分たちと会話できるのかといえば、脱水症状で死に瀕しているからなのだ。
「あかん、どないしよ。九月一日まで、あとどれくらい時間あるねん」
「時計じゃ一分切ってますけど、実際のところ僕らがどのくらい動けるかは、何とも・・・」
キヨアキの煮え切らない返事を聞くうち、脂汗が額ににじむ。今夜だけでどれほどの汗をかいた事か、そう思いながら額を拭った時、閃くものがあった。
「そや、あの巫女さんとこ行ったらええんや」
さっき牛車でここへ来る前、穢れを祓えだの何だの言われて、シャワーを浴びたではないか。あそこなら水があるはずだ。
「とりあえず、アポをとらんと」
敦は駈け出すと、一番近くに停まっていた白い軽自動車のサイドミラーをひっつかんだ。
「もしもーし!すいません!もしもし?」
大声で呼びかけてみるが、返事はない。
「何やってるんですか」
追いついたキヨアキは、呆れたような顔つきをしている。
「何て、巫女さんは鏡があったら連絡できるんちゃうんか」
「それは、
「せやけど、巫女さんかて、あの女の子だけ助けてまおくんは放っとくのはおかしいんちゃうか?」
「あの女の子は、僕が倭可由様にお願いを立てて、しかるべき手順を踏んで、あなたを呼び出してもらったんです。今のあなたみたいに思いつきじゃない」
「思いつき?そんなん・・・」
言い返そうとする間にも、まおくんは「お水飲む。ジュースかお水」と繰り返す。
「あーもう!あの巫女さん、絶対気づいてんのにスルーしてるわ。もしもーし!」
サイドミラーに何度叫んでも、鏡には深夜のマンションが映るだけで、何の変化も浮かばない。
キヨアキは背後から「さっきの、あの自転車の山が崩れたのは、たぶん倭可由様が手を貸してくれたんだと思います。でなければ、あなたはとても無傷ではいられなかったはずです」と言った。
「それは、つまり、彼女が俺に特別な感情を?」
「いえ、そうじゃなくて、たぶん今、倭可由様は疲れていて、僕らと話をする余裕はないだろうと」
「何やねんもう!」
苛立ちのあまり軽自動車の窓ガラスを拳で殴ってしまうが、痛むのはこちらの手だけだ。「ちくしょ」と唸りながら、もう一度軽くガラスを叩いた時、敦の視線はあるものに釘付けになった。
ドリンクホルダーに置かれた、スポーツドリンクのペットボトル。
容量五百ミリリットル。
「よっしゃ!まおくん、ええもん見つけたぞ!」
そう叫ぶなり、敦は足元に落ちていたこ石ころで力任せにガラスを叩いたが、何の変化もない。
「あかん、こんなもんちゃうし」
敦は軽自動車から離れると、花壇の仕切りに並べられているコンクリートブロックを手にとった。助走をつけ、大きく肩を引いてから、角を思い切りガラスに叩きつける。
わずかに、軋むような音をたてて亀裂が生じた。
「もう一発!」
こんどは両手でブロックを持ち、亀裂めがけて打ち下ろすと、わずかに穴が開き、三度目でついにガラスは砕けた。そこから腕をつっこんでロックを外してドアを引く。ドリンクホルダーからペットボトルをつかみとると、まおくんに差し出した。
「ほら、さらやぞ。思いっきり飲めや」
「ふた開けて」
「ふた?こんなんも開けられへんのかい」
急いでキャップを緩めてやると、まおくんは飛びつくように敦の手からペッとボトルを奪い取り、一気に飲み始めた。しかしその重さをうまく支えられず、あふれたスポーツドリンクは勢いよくまおくんの喉元を伝って流れてゆく。
「あかんあかん、何もったいない事してるねん」
慌てて敦が手を添えてやると、ようやくまおくんは落ち着いて喉の渇きを癒し始めた。
「はーあ、これほとんど哺乳瓶のノリやな。ジャリは何やっても手がかかるわホンマ」
敦のぼやきなど関係なく、まおくんは心ゆくまでスポーツドリンクを飲むと、「げふ」と大きなゲップをしてから、「もういい」とペットボトルを手放した。中にはまだ少しだけ残っている。
「ほなこれ、ふたしとくし、まおくん持っとけや」
「もういい。まおくんねんねする」
そう言ううちにも、まおくんの瞼はほとんど閉じてゆき、足元はふらつき始める。敦は慌ててペットボトルを脇に挟むと、まおくんを抱きとめた。
「何やねん、いきなり寝落ちすんなや」
「水分補給したから、もう大丈夫なんでしょうかね」と、キヨアキも覗き込む。
「そやけど、こいつをあの部屋に戻したとしても、オカンはいつ帰ってくるねん」
もしかすると、五分後にも帰宅するのかもしれない。あるいは、あと一日。その間、まおくんは何もない部屋で待ち続けるのだ。
「ええわ。ここに寝かせとこ」
「ここって、車の中、ですか?」
「そや。いくら何でもこの車見たら、誰かが警察呼ぶやろ?そしたらまおくんの事も見つけてくれるわ。後ろのドア開けてんか」
言われて、キヨアキは車の後部ドアを開けた。
「ガラスとか、落ちてへんやろな」
キヨアキは後部シートを一通り撫でまわしてから、「大丈夫だと思います」と答える。彼と入れ替わるように、敦は寝入ってしまったまおくんを後部シートに横たえた。飲み残しのペットボトルは足元に置き、ドアは開いたままにしておく。
「これで俺は、車上荒らしの前科一般や」
「自転車の器物損壊もカウントされると思いますよ」
「それは自分もやろ。とにかく、早いとこ逃げろっちゅう事やな」
敦は軽自動車から離れると、マンションの敷地を出るべく歩き始めた。キヨアキもすぐについてくる。
「なあ、ここ埼玉やろ?新幹線の始発で大阪帰ったら、ギリギリ会社間に合うと思うんやけど、東京駅までどうしたらええやろ」
「心配しなくても、倭可由様がしかるべき方法で帰らせてくれるはずです」
「そうなん?ほな、また巫女さんのいた家まで戻るのんか」
ちょっとした距離があったように思うが、まあ朝まではまだ時間がありそうだ。ちょっとした解放感に包まれて、敦の足取りは軽くなった。
「俺は大阪戻って、ほんで自分は、ええと、どうするんや?」
「僕は生まれ変わる。転生するんです」
一点の疑いもない口調で、キヨアキはそう答えた。
「なあ、そやけど自分、ホンマは死にたなかった、いうか、もっと長生きしたかったんちゃうんか?」
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