第8話 08
「あーしんど」
唸り声をあげながら、敦は引きずってきた赤い自転車を、さらに自転車の山の上へと押し上げた。
一体何台あるのか、いちいち数えてもいないが、彼とキヨアキが駐輪場から移動させてきた自転車は、円錐に近い形に積み上げられていた。
遠目には現代アートに見えなくもないが、それを感じさせるのは自転車という素材の持つ動的要素と拮抗する静的均衡、ではなく、円錐の上に浮かんでいる少女の存在だった。
「よっしゃ、いけそうや」
額の汗を拭うと、敦はキヨアキの方を振り返った。
敦よりもペースは遅いとはいえ、同じく自転車を運んでいたキヨアキだが、涼しげな顔で立っている。
「自分の出番やで」
「は?」
「山のてっぺん登って、あの女の子をつかまえるんや。俺より自分の方が身長あるし、体重軽そうやし」
「無理です」
「いけるて。めいっぱい手ぇ伸ばしたら届くって」
「そういう問題じゃないです」
「いや大丈夫やって」
「だから僕は、そういう心配をしてるんじゃなくて」
「何が心配やねん。だるいこと言うなや」
頑なに動こうとしないキヨアキに、敦は苛立ちを隠さない。大股に歩み寄り、その腕をつかんだ。
そのはずだったが、彼の掌には、何の手ごたえもない。
目測を誤ったかと目をこらすと、敦の右腕、手首から先はキヨアキの左腕の中に消えている。
「うわ、何やこれ!」
反射的に肘を引くと、敦の右手はキヨアキの左腕から抜け出た。
「嘘やん。自分、見えてるのに触られへんやんか」
「死んでますから」
きわめて冷静に、キヨアキはそう説明した。
「そやけど、チャリンコ運んでたやん」
「物体に触れることはできますが、生きているものに触れることはできないのです。死者というのは霊的存在ですから」
「ちょっと待って。そしたら、俺のことシャーペンで刺したんは、あれはなんでできたん?」
「あの時、僕は直接あなたに触れてはいない。まあ、死者が物体を移動させるというのは、それなりに精神力を消耗しますから、今の僕は自転車を運んだせいで十分に疲れてはいます」
いきなりそんな事を言われても、敦の口からは「へええ」ぐらいしか出てこなかった。ここへ来て頭真っ白である。
「ちょっと、もたもたしてるヒマないでしょ」
下から声がする、と思ったら、白猫メルがキヨアキの脛から首だけ出してこちらを見上げている。
「何やもう、気持ち悪い真似すんなや!お前は化け猫か」
「その言い方は化け猫に失礼よ。化け猫や猫又なんて、滅多になれるもんじゃないんだから」
「ああ、もうええし。これ以上ややこしい事言わんといてくれ」
少し気を落ち着けようと、敦はキヨアキに背を向けた。目の前にある自転車の山。そう、これを積んでいる間ずっと、彼はキヨアキに後の作業を任せようと思っていた。なので、実のところ、気持ちが切れてしまっているのだ。
後ろから、キヨアキの声がした。
「最初に言いましたよね。僕にはできないから、あなたを呼んだって」
「そんなもん、憶えてへんわ」
「憶えてないんじゃなくて、最初っから聞いてなかったんでしょ?」
メルの突っ込みはいちいち癇に障る。
「うっさいわ。そういう肝心なことをさらっと言う奴の方がたち悪いねん」
こうなっては仕方がない。敦は振り向きもせず、自転車の山へ歩み寄った。突き出したハンドルに手をかけ、重なり合ったフレームやホイールを一つ一つまたぎ、踏み越えて、上へと進む。
自転車を積み上げていた時は、自分が上るとは想定していなかったので、アプローチのしやすさなど一切考慮していない。ただ適当に積み上げられた金属の足場は、体重をかけた途端に大きく傾くこともあった。
慌てて目の前に突き出しているペダルをつかむと、今度はそれが回転する。
「痛たたたた」
ハンドルの先に思い切り肩をぶつけ、思わず声が出る。スニーカーならまだしも、会社帰りのままなので、足元はビジネスシューズ。しかも要求されるのはアクロバティックな動きである。はっきり言って股関節がどうにかなりそうだった。
「あかんわもう。明日もう筋肉痛で歩かれへん」
そう言いながらも、敦はどうにかこうにか円錐の頂上へと身体を移動させた。見上げると、落下している少女はほぼ真上。少しでも安定する体勢をとるため、斜めに突き出したハンドルを両足で挟みこんで立ってみる。
バランスはなんとかとれそうだ。背筋を伸ばし、真上へと両手を差し延べる。
届かない。
彼の中指の先から、少女の指先まで、どんなに背伸びしてもあと五十センチはある。もう一台、自転車を積めば何とかなるだろうか?しかしすでに目ぼしい自転車は全て、この山の一部になっている。そして、もう一台のせたところで、その上に今ほど安定した姿勢で立てるかどうかは疑問だった。
「もう、駄目だったら!」
またしてもメルのブーイング。黙ってろ、と言ってやろうとそちらを向くと、駄目出しされているのは自分ではなかった。
「まおくんも上にいくの」
「駄目って言ってるでしょ!あんた邪魔なのよ」
まおくんにとっては、この自転車の山はジャングルジムにしか見えないらしい。上ってこようとするのを、メルが短パンの裾をくわえ、ぶら下がるようにして引き留めていた。
「子供は呑気でええわ」
思わずため息交じりの呟きが漏れたが、自分の言葉を耳にした瞬間、閃くものがあった。
「そや、まおくん、こっち登って来い」
「ちょっと、何言ってるのよ!」
メルはまおくんの短パンをくわえたままで叫ぶ。
「ええねん。こうなったらジャリでも何でも使わなあかん。メル、お前がまおくんを先導するんや」
「あたしが?」
二人がやりとりしている間にも、まおくんは自転車を踏み越え、敦の立つ頂上を目指している。身が軽いのはいいが、しょせん子供の手足、思うよう障害を越えられずに立ち往生してしまった。
「ああもう見てらんない」
メルはぴょいぴょいと跳ね、まおくんの先に立った。
「ほら、あたしの後をついておいで」
さすがは猫というべきか、メルは最短かつ安定したルートを瞬時に見分けていた。あとはコミュニケーションの問題というべきか。たまに「しっぽ触るんじゃないわよ!」という怒号がとんだが、まおくんは終始ご機嫌でにわかづくりのアスレチックを楽しんでいる。
「見て、まおくん一番!」
ついに自分のいる場所までたどり着いたまおくんを、敦は「おーし、ようやったな」と褒めたたえた。
「ほな、ええか、まおくん。上にお姉ちゃんおるやろ?」
言われてまおくんは天を仰ぎ、落下途中の少女を見つめて「うん」と答えた。
「今からおっちゃんがまおくんのこと抱っこするし、まおくんはあのお姉ちゃんの手ぇつかんで引っ張るんや」
「わかった」の声と同時に、敦はまおくんの両脇に手をそえて背中から抱き上げた。
「超気合いの入った裏返しの高い高い」とでも言うべき動作だが、まおくんは怖がる様子もなく、嬉しそうな笑い声をあげている。
「ほら、まおくん、手ぇ伸ばしてみ。お姉ちゃんの手に届くか?」
言われてまおくんは思い切り右腕を伸ばす。それにつられて敦はバランスを失いそうになったが、何とか踏みとどまった。まおくんの細い指先は少女の白い指先に触れ、たよりない動きではあるが、中指と人差し指とを握りしめた。
「よっしゃ。ほな、ちょっとだけ引っ張ってみ」
まおくんが引くのに合わせて、少女の指先はゆっくりと動く。
「そうそう。そしたら次は、一回手ぇ開いて、もう一回、ちゃんと手ぇつなぐんや。そう、ほんで、ずーっとこっちに引っ張ってきて」
虚空をつかんでいた少女の掌を、まおくんの小さな手がしっかりと握りしめ、敦の「そーろと、やで。慌てんでええし」という声の通りに引き寄せる。十分に近づいたことを見極めて、敦は「よっしゃ。これで大丈夫や」とまおくんを胸の前まで下ろした。
「まーだー。まだ下りないの。まおくんもっとだっこして!」
「ごめん、おっちゃん腕が疲れてきてん。また後でやるし、先に降りてて」
不満げなまおくんを足元に下ろし、飛び退いたメルに「後は頼むで」と声をかける。そして敦は再び頭上へと向き直った。
足元の安定をいま一度確かめてから両腕を伸ばし、まず少女の左の手首をつかんで引き寄せる。そして右の手首も。
宙に浮かぶ彼女は何の抵抗もなく動いた。まるで重さなど無いように感じるが、身体としての手ごたえはある。彼女は本当に、生きているのだろうか。
「気をつけて!」
ふいに、キヨアキの叫ぶ声が聞こえた。
これまでずっと、黙って眺めていたくせに、何を今さら「気をつけて」だ。少しむっとしながら、敦は少女を引き下ろして抱き留めた。
まだあどけなさの残る顔立ちで、くっきりとした眉が印象的だ。ほんのわずかに開いた唇から、白い歯が見える。十四、五歳の女の子の顔をこんな間近で見ることなど、本来ならまずあり得ない。一応はラッキー。
その考えを打ち砕くかのように、敦は自分の身体がバランスを失い、後ろへと傾くのを感じた。
そこから先は何がどうなったのか判らない。
ただ、何か大きな力に捕らえられて、振り回され、あちこちぶつけられたような感覚だけがあったが、それがどのくらいの長さだったかも定かではない。ふと我に返ると、敦は少女を抱えたまま、自転車の山の上に倒れていた。
いや、自転車の山、というのは正確な表現ではない。さっきまで彼が立っていたその山は、いま彼が倒れている、その場所を中心としてクレーターのように大きくへこんでいたからだ。
どうにか身体を起こすと、キヨアキがひしゃげた自転車を乗り越え、近づいてくるのが目に入った。
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