第7話 07
「時間風て、何がどうヤバいん?」
全く話が呑み込めないまま、敦がそう質問すると、白猫メルは「知らないの?ありえない!」と言い捨てて姿を消した。
「何やねん。知るかそんなもん」と言いながら、敦もその後を追おうとしたが、冷蔵庫のドアにもたれているまおくんと目が合った。
「お水、ないの?」
「いや、ちょっと、やっぱり外で何か飲もか」
さっきの巫女の言葉が本当なら、命が尽きかけているというのを置き去りにもできない。まおくんの手をひいたまま、素足に運動靴を履かせて玄関から外に出ると、手すりから身を乗り出しているキヨアキの背中が目に入った。
「なんか、ヤバいって?」
そう声をかけながら、横に並んで下を覗き込む。
「あ」と、思わず声が出た。
飛び降りる途中で静止している少女。その姿勢が明らかに変わっている。さっき見た時には頭と背中はほぼ同じ高さだったのが、今は頭がかなり下がっている。
「少し落ちました」
キヨアキは視線を少女の方に向けたまま、そう言った。
「猫が、時間風がどうこう言うてたけど、何のこと?」
「時間風が吹くと、その場所の時間が一気に流れます。流れる時間は、さっきみたいにコンマ何秒のこともあれば、数秒、あるいは数分」
「数分も進んだら、間に合わへんやん。数秒でも無理や。その風は、いつどこで吹くかは判らんのか」
「予測はほとんど無理です。時間嵐みたいに、一気に何時間も進むものなら、前兆はあるでしょうけど」
「話にならんな」
手すりから身を乗り出したまま、下を眺めている敦に、キヨアキは「行きましょう。急がないと」と声をかけた。
「しゃあないな」と向き直ると、まおくんがじっとこちらを見ている。キヨアキはすでに、女の子のリュックサックを肩にかけて階段を駆け下りはじめていた。
「まおくん、一緒に降りよか」
「お水かジュース、あるの?」
「それは後で探しに行くし、とりあえず下に降りよな」
そう言って、彼の手を引いて歩き出したものの、幼児の足は短い。一段ずつ確かめるように降りるその速度に、敦の忍耐が続くはずもなかった。
「やっぱり、自分で降りんでええわ」と言うなり、まおくんを脇に抱え上げて階段を駆け下りる。人が見れば完全に誘拐現場だが、その背中に何かが飛びつき、肩へと這いあがった。
「うわ!」と立ち止まると、「早く行きなさいよ」と声がする。白猫メルだ。
「何や、お前何してるねん」
「見ての通り、あんたの肩にのってるわ」
「なんでや!」
「だって自分で歩くと疲れるんだもの。ここまで上がってくるの、大変だったのよ」
どうして幼児を脇に抱え、猫を肩にのせたままで階段を駆け下りなくてはならないのか。敦はすでに、今この場所でその問いに答えはなく、考えるだけ無駄だと学んでいた。ただ、振り落とされまいと食い込んでくるメルの爪がリアルに痛い。
「お前、爪立てるのやめろや」
「だったらもう少し、静かに降りなさいよ」
「無理やっちゅうの」
ようやく階段を下りきって、まおくんを地面に下ろすと「もっと、だっこ」としがみついてくる。白猫メルは彼の頭を踏み台にして飛び降りると、のせてもらった礼も言わずに前を歩いてゆく。
「まおくん、おっちゃん今、遊んでるヒマないねんけど」
そう言ってはみたものの、離れそうもないので、仕方なくまた小脇に抱えて歩き出す。まおくんは嬉しそうにきゃあきゃあと笑い声をあげた。
「これの何がおもろいんじゃ」
ようやくキヨアキに追いつくと、彼は宙に浮かんだままの少女を見上げていた。頭頂がほぼ真下を向き、その両腕はまだ羽ばたくのをあきらめていない、といった風に空気をつかんでいる。彼女の姿は上から見下ろしていた時よりも、地面に近づいて見えた。だからといって、手がとどく距離ではない。目測だが、二階の屋根あたり、といった高さか。
「脚立あったら、何とかなるかもしらんな」
「あれば、ですけどね」
キヨアキは少女のリュックサックを肩にかけたまま、腕組みをして夜空を見上げている。
「自分、あの女の子を助けたい、いう割に後ろ向きやねんな」
「現実を冷静に分析しているだけです。あと、質問ですけど、どうしてその子を連れてきたんですか?」
「え?この子な」
まだ脇に抱えたままだったまおくんを地面に下ろし、敦は「水飲ませたらんとヤバいらしいけど、オカンが留守やねん。後で自動販売機でも探すわ」と言った。
「自販機、無理ですよ」
キヨアキの言葉は冷ややかだ。
「え、でも俺、金は持ってるで」
スマホは印籠に姿を変えていたが、小銭入れは無事だ。敦はポケットから取り出してその姿を確かめた。
「お金は入れられるでしょうけど、自販機が動く速度はとても遅い。さっきのエレベーターと同じです」
「つまり、どんだけ待っても出てけえへん?」
「或いは、強い時間風が吹いたら、出てくるかもしれません」
「自分、やっぱり後ろ向きやな」
「前は向いています」
「そやったら、一つでも何かアイデア出してみろや。急に時間が流れるやら、脚立あらへんやら、自動販売機動かへんやら、あかん事ばっかり言うてもしゃあないやろ」
「じゃあ、あなたはどうなんですか?」
「俺?俺はただ、呼ばれて来ただけやないか」
実のところ、敦に何か策があるというわけでもない。ただ、何とかすべきだと思いながら、キヨアキと同じように落ち続ける少女を見上げているだけなのだ。
「あんたたち、本当に役立たずね」
そう口をはさんだのはメルだ。まおくんはその声に反応して「にゃんこ」と手を伸ばしてつかまえにかかる。彼女は瞬時に飛び退くと、また敦の背中を駆け上がり、肩の上にのった。
「小さい子って本当に嫌。猫の嫌がることばっかりするのよ」
「俺はお前にのられるのが嫌やねん」
「あたしがここにいるのは、その子が嫌なことするからよ。あたしのせいじゃないわ」
「ホンマにどいつもこいつも」
いきなりの八方塞がり。
敦は苦々しい思いで少女を見上げる。飛び降りた彼女がこれからどうなるかは決まっていて、自分は何もできず、ただ見ているだけしかない。
事態は最初からこうだった。いや、最初の方がましだったとも言える。少なくとも自分は、彼女が地面に激突する運命だとは知らなかったのだから。ただ、奇妙な格好で空中に浮かんでいる人間がいるという、せいぜいが違和感ほどのもの。
ふいに、頬の辺りを何かが軽く撫でた。
メルの尻尾か?そう思った瞬間、視線の先にあった少女の姿が、すっと動いた。
落ちる!
声を出す間すらなく、全身が総毛だつのを感じたが、少女の身体はわずかに落下しただけでまた静止した。
「ふおおお」
溜息とも安堵ともつかないものが、敦の胸の奥から吐き出されてきた。その思いは肩にのったメルも同じだったようで、ひときわ強く爪をたてるなり、地面へと飛び降りたが、全身の毛を倍ほども膨らませている。
キヨアキは相変わらず宙を見上げているようだったが、いきなりしゃがみ込んで膝に顔を埋めてしまった。
「い、今のがさっき言うてた、時間風?」
そう問いかけると、キヨアキは顔を伏せたまま、くぐもった声で「そうです」と答えた。
「こんなに続けて吹くなんて、次はもっと大きいかもしれない」
「もっと大きい、ってつまり時間がもっと流れる、いうことか」
しゃがみ込んだままのキヨアキの傍に立ち、敦はあたらめて少女の姿を見た。少し落下した分、距離は縮まった。だからといって、手の届く高さではない。しかし、さっきまでが二階の屋根なら、今は二階の窓、あたりだろうか。
脚立でもあれば、という線はもう消えた。でも何かに登れば、あの少女の、虚空へ差し出された腕に、指先に届くのではないだろうか。
あらためて周囲を見回す。マンションの中庭にある、いちばん背の高いもの。それは何台か停まっている軽自動車だった。しかしどうやって動かす?その他に目につくのは、ゴミ箱。高さ一メートルにも満たないこの物体に乗ったところで、少女の身体に降れることは不可能だ。
他に何がある?
生い茂った夏草と、花壇の仕切りに使われているブロックと。他には、誰かが捨てたらしい、折れた傘のビニールが外灯の明かりを反射している。
他に何がある?
屋根に穴があいた駐輪場の、乱雑に停められた自転車。チャイルドシートのついたママチャリがやたらと目立つ。
「そうか、これでいこ!」
言うが早いか、敦は駐輪場へと駆けだしていた。まずは一番手前に停められている、黒い自転車をひっつかむ。施錠されている前輪は地面から浮かせ、後輪だけで引いてゆくと、少女の真下に横たえた。
「自分も手伝えや」
まだしゃがんだまま、顔だけをこちらへ向けているキヨアキに呼びかけると、彼はゆっくりと立ち上がった。
「自転車、どうするんですか?」
「見ての通りや。あそこに積んでったら、けっこうな山ができるで」
そう説明すると、キヨアキは一瞬、何か言いたそうに口を開いたが、無言のまま後についてきた。敦は駐輪場に引き返すと、停められた自転車を片っ端から運んでいった。
鍵も何もついていない、雨ざらしでサドルのひび割れたもの。風になびくよう、ハンドルに色とりどりのテープをつけた子供用。黄色とピンクの縞模様に塗装されているもの。目につく限りの場所に反射板の貼られたもの。スポークが何本か抜け落ちたもの。昨日買ったばかりのように、傷ひとつついていないもの。
中には鍵が壊され、すんなり動くものもあれば、ご丁寧に前後ダブルロックという強者もいる。それらを引きずり、持ち上げ、転がし、敦は静止している少女の下に自転車を積み上げてゆく。そしてキヨアキもまた、やや遅いペースではあったが、同じ作業に加わっていた。
とはいえ、最初こそ勢いがあったものの、敦はふだんから特に鍛えているわけでもなく、肉体労働者でもない、一応はホワイトカラーである。しばらく運び続けるうちに息が上がってきた。そこへ追い打ちをかけるように「まおくんもやるの」と、まおくんが乱入する。
「ちょっと、あかんて」
本人は手伝っているつもりだろうが、持ち上げた自転車にほとんどぶら下がるようにしている幼児は邪魔以外の何物でもない。
「まおくんまだ小さいから、これは無理やねん」
「できる。まおくん小さくないもん」
「できひん、ちゅうねん。な、ちょっと猫と遊んで待ってて」
そう言いながら、白猫メルの姿をさがすと、彼女は駐輪場の屋根で香箱をつくり、文字通り高みの見物を決め込んでいた。
「お前、何そこでのんびりしてるねん」
「だって自転車なんて運べるわけないじゃない。邪魔もしたくないし」
「それやったら、まおくんの相手したれや」
「小さい子は嫌いって言ってるでしょ」
「ホンマ、ムカつく猫やな」
額に流れる汗を拭い、集めた自転車に目を向ける。まだそれは山、と呼ぶには心もとない塊でしかなかったが、今はただ、一台また一台と運ぶしかないのだ。
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