第6話 06

「話は最後まで聞いて下さい」

 キヨアキは非難めいた口調でそう言った。

「三浦さんは確かに、円形脱毛症がきっかけでいじめられるようになった、そう言いました。でも実際にいじめていたという同級生の中に、あなたはいなかった」

「そ、そやろなあ」

 セーフ、と内心で叫びながら、敦は手すりから身を引いた。

「四年生の秋に、遠足に行きましたよね?」

「遠足は春と秋の二回あったな。春は近場で、秋はバス乗って行くやつ。でもどこ行ったか憶えてへんわ」

「国立民族学博物館です」

「へ?万博公園の?あそこ四年やった?アホみたいにでかいお面とかあるねんで」

「見学は班行動でしたよね」

「いや、そんなん憶えてへんし」

「班行動だったんです。遠足の前の週に班分けがあって、いじめられっ子の三浦さんはどこの班にも入れてもらえなかった。その時、うちの班に入ったらいいじゃないか、そう言ったのはあなたでした」

 記憶にない。

 そもそも、記憶力には自信がないというか、つい最近の事でも細かい部分は全く覚えていない。

 なのに付き合う女はたいてい記憶力が良く、元カノの葉子など、「あんた三か月前にもこの店で同じもん頼んで、こんなん食べたことあらへんわ、て喜んでたやん」といった突っ込みばかりで、別れの原因はほぼ記憶力のギャップだった。

「三浦さんは、あの時は本当に救われる思いだったと言いました。そんなあなただから、きっと彼女の事も助けてくれると推薦してくれたんです」

 一瞬ではあるが、敦は三浦と元カノ、いや全世界の記憶力の良い人間を憎んだ。お前たちの記憶している事を、いちいち人に言わなくていいから。多少の記憶が抜け落ちていても、支障を来さない人間の方が多数派に違いないのだ。

「じゃあ、少数派はどうするのよ」

 そう口を挟んだのは白猫メルだった。

「え?お前、なんで俺の言うてへんこと判るねん」

「なんであたしのこと、お前呼ばわりするのよ」

 だって猫やもん。

 そう言いそうになって、いや、もうばれたかと、敦は焦った。

「あんた、猫のことずいぶんと馬鹿にしてるみたいだけど、人間の考えてることなんか、ダダ洩れなのよね。言ってないから伝わってないなんて、おめでたいにも程があるわ」

「そんなん、知らんがな。猫なんか飼うたことないし」

「猫、なんか」

 メルは耳を伏せ気味にしてそう言うと、「あなた、まだあたしの質問に答えてないわよね」とたたみかけた。

「何やったっけ」

「少数派って、そう言いましたよね」と、口を挟んだのはキヨアキだ。

「そう、少数派の問題よ。この人みたいに記憶がまばらでも支障を来さない人が多数派らしいけど、じゃあ色んなこと憶えてる方はどうなるのって事。忘れちゃいました、で全部チャラなわけ?」

「お・・・自分、なんでそんな議論ふっかけてくるねん。猫は人間の問題なんか気にせんでええねん」

「何言ってるの。我々飼い猫はね、人間に寄生して生きてるんだから、人間の問題は放っておけないの。地球温暖化とか、どうしてくれんのよ」

「いきなりスケールでか過ぎるわ。とにかく俺は」

 敦がそこまで言った時、背後で物音がした。メルもぴんと耳を立てる。振り向いてみると、一番近くの部屋のドアが、開こうとしている。

 ヤバい、誰か起きてきた。

 別に悪いことをしている気はないのだが、真夜中に団地の廊下に入りこんで猫と議論しているというのは、あまり喜ばれる行為ではない。二人と一匹は口をつぐんで動きを止めたが、その間にもドアはゆっくりと開く。現れたのは幼稚園児ぐらいの男の子だった。

「パパ?外国のお仕事おわったの?」

 この夜中に、男の子はTシャツに短パン姿、裸足のままでドアを押さえている。

 彼がパパ、と呼んだせいで、キヨアキもメルも自分は無関係という態度を決め込んで敦の顔を見た。

「いや、パパちゃうし。ほら、全然ちがう顔してるやろ?」

 精一杯の愛想の良さで、敦は彼に語りかけた。

「パパじゃないの?まおくん、パパと会った事ないからどんな顔かわかんない」

 おっとまさかの母子家庭。パパは海外単身赴任、で今まで押し切って来たようだ。

「そうかあ、とにかくおじさんはパパちゃうねんわ。今、ここで大事なお仕事の話してるねん。ボクはもう、ママのとこ戻って、はよ寝なあかんで」

「ママはお出かけしてる。まおくん喉がかわいた。ジュースかお水くれたら寝る」

「はあ?出かけてる?オカンどこほっつき歩いとんねん!合コンでも行ってるんか!」

 思わず本音を漏らすと、メルが「ちょっと、やめなさいよ!」とたしなめた。

「何でもええわ、とにかくもう中入って寝とけや」

 もうこうなったら愛想もへったくれもない。ただでさえ危機的状況なのに、子供の相手など無理だ。しかし男の子は口をへの字にしたまま、敦の顔を見て動かない。

「ジュースかお水」

「・・・そんなもん冷蔵庫にあるやろが。ホンマしゃあないな」

 子供など説得するだけ時間の無駄だ。敦は男の子が押さえていたドアを開けると、中に入った。さっさとジュースでも何でも飲ませて布団に戻らせるのだ。飲み過ぎて後で寝小便たれようが、知った事ではない。

 靴を脱いで廊下に上がると、何とも言えない匂いが鼻をついた。濡れたまま放っておいた洗濯物だとか、出し忘れていた生ごみだとか、お部屋の香水だとか、そういうものの入り混じったような匂いだ。

「まおくん、台所はどこやねん」

「こっち」

 男の子は先に立って案内する。廊下の先のダイニングキッチンは、生活感があるような、ないような、不思議な空間だった。

 流しは乾ききっていて、洗い籠にはプラスチックのコップが一つ転がっているだけ。床には中味の詰まったゴミ袋がいくつも置かれ、二人がけのテーブルの半分には大小さまざまな空のペットボトルと、お菓子の袋やおにぎりのフィルム。残り半分はヘアアイロンにマニキュアなどの雑多なメイク用品とスタンドミラーが占領していた。

 敦は自分のワンルームマンションと比較して、「まあ、似たようなもんやな」と一瞥し、冷蔵庫のドアを開けた。

 軽い。

 まるで店頭の展示品かと思うほど、冷蔵庫のドアは軽くて、そこにあると期待していたペットボトルや麦茶ポットの類いは一切なかった。それどころか食品らしきものがほとんど見当たらず、確認できたのはイカの塩辛と缶チューハイが五本、そして「もちプル小顔パックシート」だった。

「まおくんのオカンは相当ワイルドやな」

 念のため開けてみた野菜室には液状化したきゅうりと茶色に変色した酒粕。冷凍庫には今川焼と大量の保冷剤が入っていた。

「ジュースかお水。飲みたい。のーみーたーい」

 まおくんは敦にもたれかかって催促を繰り返す。

「いやこれ、悪いけど何もあらへんで。とりあえず水道の水で我慢してや」

 冷蔵庫のドアを閉め、敦は洗い籠からコップをとると、水道のレバーを上げた。

 何も出てこない。

「何やこれ、断水してんの?」

 レバーを思い切り上げても、水の流れる気配すらなかった。

「しゃあないな。まおくん、ママはいっつも買い物とかしたら、どこに置いてるんや?」

 こうなったら買い置きを探すしかない。まずはしゃがんで流し下を開けようとすると、「水道のレバーを戻せ」という声がした。

「は?」

「レバーを戻せと言うに」

 その苛ついた声は、巫女のものだ。慌てて声のする方を見ると、テーブルに置かれたスタンドミラーに、彼女の顔が映っている。

「え、何してるんですか、そんなとこで」

 思わず敬語になってしまうが、巫女は軽く眉間にしわを寄せて「先に水道のレバーを戻せ」と繰り返す。

「いや、これ、断水してるんですよ」

「断水ではない。お前は今日の日付を忘れたのか?」

「ええと、八月三十二日、ですか」

「そうじゃ。その場所では、時間の流れがとても遅い。水道のレバーを上げたままにしておけば、やがて大量の水が流れ出す、という事だ」

「つまり、水は出てくる途中?」

「その通り。放っておけば水は出っ放し。水道代が跳ね上がる」

「まあ、母子家庭らしいから、節約せなあかんやろな」

 敦はとりあえず納得して、水道のレバーを元に戻した。

「今お前は、蛇口から水が流れ出るよりも速く、レバーを上げて、また下げた、という事になる。外部から来た存在であるお前やキヨアキは、別の時間軸に乗っているが故なのだが」

 もはや、話の内容は敦の理解を超えようとしている。そこへ再び「ジュースかお水、のーみーたーい」の声がした。

「ん?ちょっと待って。俺とキヨアキが外から来た、別もんやっちゅうのは判るとして、この子は何やねん。何で普通にウロウロしてるわけなん?」

「その幼きものは、命が尽きかけておるからの」

「えええ!!」

 言われて敦はまおくんの顔を凝視した、所謂「ガン見」というレベルだったが、そこまで生命の危険が迫った状態には見えない。伸び気味の髪と、まつ毛の長い、ややたれ気味の目と、少し荒れた唇。

「さっきから水だジュースだとやかましいが、その童は干からびかけているのじゃ」

「何それ、今話題の脱水症状?あかんやんか」

「慌てずともよい。少なくとも八月三十二日の内は、どうなることもあるまいて」

「それを先に言うてえや。びっくりしたで」

 敦は大きく息をつき、あらためてスタンドミラーを覗き込んだ。

「なあ、質問なんですけど、ここにおるのは意識不明とか死んでる奴とか、そんなんばっかりですか?」

「八月三十二日は次元の位相が通常とは異なる。故に、そこに存在する精神体も異なる形で表出するわけじゃ。加えて時間の問題があるのだが・・・」

「あ、もういいです。判りました」

 きいた自分が馬鹿だった。敦は少し話の方向を切り替えることにした。

「で、あの、キヨアキですけど、あいつ自分は死んだけどすぐに生まれ変わる、みたいな事言うてるでしょ?あれホンマですか?」

「輪廻転生は仏教関係の話じゃからな、わらわの管轄外じゃ」

「つまり、よう知らん、と」

 敦がそう念を押すと、巫女は軽く眉根を寄せた。

「知らぬとは言うておらん。だがよく考えてもみよ、釈迦でさえ人間に生まれるまでに畜生として生まれることを繰り返したのじゃ。そなたら凡百の人間が来世でもまた人間、しかも衣食住満ち足りた生活ができると思うか?何を根拠に、その部屋の窓にはりついておる羽虫には生まれないと言い切れるのじゃ」

「ほな、キヨアキの来世は、昆虫?」

「それは、ものの喩えにすぎん。まあ、羽虫と人間と、どちらに迷いが少ないときかれれば、羽虫かも知れんが」

「そうですか」

 頷いてみせながら、敦はもう少し巫女が鏡から遠ざかってくれないかと考えていた。そうすればあの豊かなバストを再び拝めるのだが。ところがその瞬間、スタンドミラーは縁から白く曇り始め、巫女の「つくづく賤しき男」という言葉も小さく途切れてしまった。

「あかん、またやってもた」

 無理を承知で、スタンドミラーをつかんで、何か映らないかと振っていると、白猫メルが駆け込んできた。

「あんた何ダラダラしてんのよ。いま、時間風が吹いてヤバいことになってるのに!」









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