第5話 05
「ほら、ここに三つ並んだホクロがあるでしょう?」
「あるなあ」
そもそも、敦が電車で一瞬遭遇しただけの彼を憶えていたのも、そのホクロのおかげだった。
「僕が生まれた時にこのホクロを見て、三島の愛読者だった父は、これは運命だと思ったそうです。それで
「ちょっと待って。生まれ変わるのとホクロと自分の名前と、どういう関係があるねん」
「え?知らないんですか?三島由紀夫の「豊饒の海」」
「包丁農民?俺、ほとんど本とか読まへんし」
「そうですか」
「ほんで?生まれ変わる、いうのは?」
「いえ、忘れて下さい。少し自分語りが過ぎました」
キヨアキはそう言って、筋肉などほとんどなさそうな細い足を組み直した。牛車はただ一定の速度でゆるゆると進んでゆく。退屈しのぎという目的も含めて、敦は話をつないだ。
「そやけど、自分は生まれ変わるからええとして、なんであんな、飛び降りしてる女の子を助けなあかんと思うわけ?あの子も生まれ変わるんちゃうんか」
「それはそうですけど、このまま死んだら、負けたままで終わってしまうから」
「負けるって、何に?」
「いじめた連中に、です」
「つまり、彼女は学校でいじめられてたという事?」
「そう」とキヨアキが頷くと、牛車が大きく揺れて、止まった。外から何か、チーチーと甲高い鳴き声のようなものと、足音らしきものが聞こえたかと思うと、誰かが牛車の後ろの簾を巻き上げた。
キヨアキは天井に頭をぶつけないよう、かがんだままで移動すると車を降りた。敦もそれに続いたが、足元には巫女の家で脱いだはずの靴が揃えられていた。
外に出るとそこは再びマンションの中庭だったが、誰一人歩いておらず、やはり静まり返っている。二人を下ろすと牛車はまた前へと動き始める。方向転換はどこかで大回りするのだろうか。目をこらすと牛の脇にはやはり、子供ほどの背丈の黒いものがついて、一緒に歩いていた。
あれが何なのか、考えないほうがいいかもしれない。
意識して目をそらすと、こんどはあの、空中で静止している少女が目に入る。彼女の真下を、牛車は軋んだ音をたてながら通り過ぎていった。
「ほとんどあそこの時間は流れていないようです」
キヨアキは敦の傍に並んで立った。
「なあ、そしたらあの子は、夏休みが終わって、九月一日からまた学校行くのが嫌やから、このマンションから飛び降りたんか?」
「そうです」
「いっそ死んだろかと思うぐらいて、一体どんな事されてん」
「それ、言う必要あります?」
にわかに切り口上になったキヨアキに、敦は一瞬たじろいだ。
「いや、別に知らなあかんっちゅう事はないけど、参考までに」
「それはつまり、この程度のいじめだったら遊びの範囲内で、この程度なら自殺するのも仕方ないとか、そういう基準値があるという事ですか?」
「いや、そんなややこしい事言うてへんやん」
「だったら、好奇心本位の質問はやめて下さい」
「なんもそんな、やらしい言い方で俺のこと決めつけんでもええやんか。ただちょっと、大したいじめでもないのに、深刻に受け止め過ぎたんちゃうかと思っただけや」
「深刻かどうかはいじめられた側が判断する事で、我々第三者が認定できるものではありません」
敦は「わかったがな」とだけ答えたが、内心、何故ここまで噛みつかれるのかと、面白くなかった。キヨアキも熱くなりすぎたと自覚したのか、わざと抑えたような声で「遺書があるんです」と言った。
「そこにはいじめの首謀者である、三人の同級生の名前が書かれています」
「ほな、後でそいつらのせいやと判るわな。それで、何と言うか、仕返しにはなるわけか」
「なりませんよ」
キヨアキはそして、ゆっくり歩きだすと、建物の脇にある外階段へ向かった。敦もとりあえず後へと続く。
「上にあがるんか?」
「ええ」
「なんも階段使わんでも、エレベーターあるやろ?」
敦にそう指摘されても、キヨアキは「使えません」と却下した。
「ここでは時間の流れが極端に遅いと言いましたよね。つまり、エレベーターはあなたがその動きを感じることができないほど、ゆっくりとしか動かないんです。そして彼女の落ちる速度は、絶対にエレベーターよりも速い」
「なるほど」
そう答えたものの、敦はこの手の、物理学の匂いのする話題が極端に苦手だった。光の速度を超えると時間がどうのこうの、的な話は何回きいても判らない。彼の「なるほど」は納得したわけではなく、この手の話題はさっさと終わらせようという回避行動だった。
マンションの外階段は二階あたりまでは子供のたまり場になっているのか、アイスの棒や潰したコーラの缶などが落ちていたが、それより上はまるで月面のように静かで灰色の世界だった。
あちこちに染みのようなものが浮き出て、滑り止めのタイルはたいていどこかが割れていた。踊り場の隅には寿命を迎えたアブラゼミが仰向けに転がっている。そんな中で、キヨアキの声だけがコンクリートに低く反響した。
「いじめた側の名前が上がったところで、処罰されるわけでもない。仲良くしていたつもりで、ちょっとからかっただけでした、とでも言っておけばいい。まあ少しは人の噂になるかもしれませんが、しばらくしたら皆も忘れますから。そして彼らは、のうのうと進学し、社会に出る」
二人はゆっくりと旋回しながら、上へ上へと進む。
「死んだ人間はただ、消えてゆくだけだ。大人になって同窓会を開いても、みんな仲良かったよね、と、それぞれが自分に言い聞かせて帰るだけです。人は見たくないものから視線を外すのがとても上手ですから」
敦は思わず「きっついなあ」と呟いていた。
「きついって、僕の言ってることがですか?」
「いや、この階段が」
もう六階まで上がっているのに、まだ続いている。自分はそう運動不足ではないと思っていたものの、階段といえばせいぜい駅で上がり下りするぐらいで、こうも一気に上がると意外と足にくる。
「大丈夫、あと一息ですから」
そして階段は八階でようやく終わった。目の前には中庭に面した長い廊下。その途中の壁に立てかけるようにして、ミントグリーンのリュックサックが置かれている。だが敦の目をひいたのはリュックサックよりも、その上にのっている真っ白な猫だった。
身体を丸めて寝そべってはいるが、首だけ起こしてじっとこちらを見ている。その大きな目は片方が水色で、片方が金色だった。
なんや、この猫。
そう言おうとした寸前、猫が口を開いた。
「遅かったわね」
人間に比べると、少し小さくて高いが、明らかに女性の声。まさかと思いながら「知り合い?」とキヨアキに小声できくと、「いいえ」と答えがある。
猫は尻尾の先だけを左右にくねらせながら、「散歩の途中だったの」と言った。
「今夜は窓が開いてたのよね。ゴキブリが出たからって、ママが殺虫剤まきすぎちゃって。何だか変な匂いが充満したから、メルちゃんの身体に毒だって、換気してくれたの。あ、メルちゃんって、あたしの事よ。それでさ、ちょっと散歩してみたわけ。お月様も出てるし、風も気持ちいいから、思いのほかいっぱい歩いちゃって、ここまで来たらあんたたち二人が、あの女の子見上げておしゃべりしてるじゃない?てっきり助けてあげるんだと思ってたら、どこか行っちゃうし、本当に無責任、って呆れてたんだけど、まあ戻ってくるかもって、ここで待ってたのよ」
それだけ一気にしゃべると、白猫はまた尻尾をくねらせた。キヨアキは「僕らはこれでも急いで戻ったんです」と言って、「ちょっと、どいてもらっていいですか?」としゃがみ込んでリュックサックに手をかけた。
「もう、強引ね」
白猫メルは不満げにそう言ってリュックサックから降りた。キヨアキはためらう様子もなく、ファスナーを開けると、中から子猫の写真が表紙のノートを取り出した。
「アメリカンショートヘア。ちょっとありふれてるわよね。まあ、器量良しの子だとは思うけど」
メルはどうやら、相当プライドの高い猫らしい。言葉の端々に、白猫サイコー!が滲み出ていた。キヨアキはメルの言葉には答えず、ノートをぱらぱらとめくってゆく。そして途中でその手を止めた。
「これだ。彼女の遺書。読んでみますか?」
差し出されたそのノートを、敦は受け取らなかった。
「いらんわ、そんなもん」
「そんなもん、って、彼女の命がけの告発ですよ。そして人生最後の言葉だ」
「そやけどあの子はまだ死んでへん。そやし、そこに書いてあるのは遺書とはちゃうねん」
敦がそう言うと、キヨアキはほんのわずか、眉を持ち上げた。
「でも、このままだと彼女は死ぬ」
「そやから、まだ死んでへん、言うてるがな」
敦は廊下の手すりから身を乗り出した。その真下に、落下し続ける、少女の背中が見える。気がつくと、キヨアキも隣に来ていた。
「自分はそもそも、あれを止めようとしてるんちゃうんか」
「そうです。そのためにあなたを呼びました」
「そやのに、何をどうしたらええのか知らんのか」
「はい。ただ、三浦さんからあなたを紹介されただけです」
「ほんで、ミウゲ、三浦は俺のこと、何て言うてたんや?」
「四年生の新学期、あなたが最初に、三浦さんの頭にハゲがあると指摘したそうですね」
「え、俺?俺が言うたって?」
全く記憶にない。敦が憶えている限り、クラスの誰かがそれを発見して、三浦のあだ名が「ミウゲ」になり、いつの間にかいじめられっ子になっていたのだ。
「三浦さんによると、あなたの第一声は、おまえ、ここ、なんでハゲてんねん、だったそうですが」
「いや、マジで憶えてへんけど」
背筋が冷たくなり、やがて倍の勢いで暑くなったかと思うと、汗が流れ出る。
「もしかして、ミウゲは俺に復讐するつもりで、ここに来させたんか?」
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