第4話 04

「おのれ・・・」

 苛立ちを含んだ巫女の声に、敦は「あ、鼻息かかりました?すんません」と謝っていた。

「鼻息などではない。そなたの邪念が御神鏡を曇らせたのだ。ただちに水垢離みずごりを行い、心身を清めて参れ。キヨアキ、案内せよ」

 呼ばれて青年、キヨアキは「はい」と答えるなり、敦を引っ立てて廊下へ出た。

「何やろ、あのタブレット見ろて言われたから見たんやで。鼻息で液晶曇っただけやんか。怒り過ぎやで」

「あれはタブレットではありません。鏡です。さっきあなた、何か変な事を考えたでしょう。そのせいで倭可由わかゆ様の念が乱れたんです」

「変な事、というか、まあ、彼女かなり胸大きいな、と」

「そんな事考えてたんですか!」

 あからさまに馬鹿にした口調のキヨアキに、敦は思わず反論した。

「そやかて、自分も絶対そう思てるはずやわ。あれホンマ、半端ないで」

「やめて下さい」

 キヨアキは冷たくそう言うと、別の部屋のドアを開けた。

「さあ、ここでちゃんと心身を清めて下さい」

 そう言い残し、敦を置いて出ていった。

 あらためて周りを見ると、そこは洗面室で、奥は浴室だった。洗面台には新品らしい歯ブラシやコップが備えてあり、タオルハンガーには清潔そうなフェイスタオルがかかっている。脱衣かごにはたたんだバスタオルも置かれていて、まるで高級旅館だ。

 さっき走って汗もかいた事だし、まあいいか、という気持ちになって、敦は服を脱いだ。

 浴室は壁から浴槽まで白一色。けっこうな広さがあり、ボディソープにシャンプー、トリートメントまで並んでいた。しかし浴槽に湯が溜まるのを待つのも面倒なので、シャワーだけ浴びるか、と蛇口を開き、湯音を調節していると「このうつけ者が!」という罵声がとんだ。

「へ?」

 声のした方向。すなわち鏡に目を向けると、そこにはなんとあの、巫女が怒りの形相で映っていた。

「何を呑気に湯など浴びておる!」

「いや、でも心身を清めて来いって言われたし」

「いかにも。そのために水垢離を行えと言ったであろうが」

「ミズゴリ、て、何ですか?」

「水を浴びてけがれを洗い流す事に決まっておろう。そなたは本当に大学を出たのか?」

「一応。せやけど商学部やったし、ちょっと漢字とか弱いです」

「もうよい、さっさと水を浴びよ」

 その言葉を最後に彼女の姿は消え、鏡には裸で茫然としている敦の姿だけが映っていた。

「な、何やねんホンマ・・・」

 ここでまた湯を使うと同じことになりかねない。仕方ないので水を浴びて汗だけ流すことにした。


 服を着て廊下に出たはいいが、何となく足元の様子が違う。暗いことに変わりはないが、さっきの廊下がフローリングだとしたら、これは板張り、という言葉が似合いそうな感じで、歩くとわずかにたわんで、軋んだ音をたてた。

 たしかこっちから、と、来た道を戻ってゆくと、長い縁側に出た。一定の間隔で行灯のような明かりが置かれているので、周囲の様子は見てとれる。そこに面した部屋には格子の板戸がたてられ、白い砂利を敷き詰めた庭には、牛車が一台停まっていた。

 なぜ敦がそれを牛車と認識できたかといえば、ながえにつながれているのが牛、それも黒い和牛だったからである。

 一般家屋に牛車があるのも不思議だが、とりあえず、違う方向に来てしまったのだろうと思って、敦は踵を返した。だが牛車の方から「早う乗らんか」と、切れ気味に呼ぶのは巫女の声だった。

 見れば、牛車の後ろは縁側に接していて、どうやらそこから乗り降りするらしい。ここで拒否するという選択もなく、敦は素直に歩いてゆくと腰を屈め、「失礼します」と牛車に乗り込んだ。

 中は板敷きの上に茣蓙ござらしきものが敷かれていて、燭台が頼りない炎を揺らしている。巫女とキヨアキはそれぞれ藁で編んだ丸い座布団のようなものに座っていた。敦の分はないので、そのまま腰を下ろす。

「あの、これで、どっか行くんですか?」

 とりあえず、そう質問すると、巫女は「そなた、自分が何のためにここにおるのか、判らぬのか?」と言った。

 質問に質問で返すとは、けっこう不愉快な仕打ちである。もう十分に上から目線だとは思っていたが、敦にも我慢の限界というものがあった。

「そんなクイズみたいなこと言われても、正直、なんも話見えてけえへんのですけど」

 そこそこ、苛立ってますよ、という気持ちで言い返すと、巫女はあからさまに眉をしかめてキヨアキの方を見た。

「そなたが薦めるものを招き寄せてはみたが、先ほどより無礼ばかりをいたす。もしやこれは、同じ呼び名なれど異なる者ではあるまいか?」

「そんなはずは・・・」と答えはしたものの、キヨアキの声には心もとなさがある。巫女は再び敦の方を向いた。

「そなたの名は大原敦、よわい二十六、河内の国に住む者と聞いておるが、三浦道夫なる者を知っているか」

「ミウラ?ミウラミチオ?さあ・・・ちょっと浮かばへんのですけど、取引先とかですかね」

「やはり、人違いであったか」

 巫女があからさまに嫌気のさした表情を浮かべる一方で、キヨアキは「待って下さい、小学校の同級生にいたはずです。あなたはクラスでオーハーと呼ばれていたでしょう?」と食い下がった。

 たしかに俺のあだ名はオーハーやった、と頷きかけて、敦はその動きを一旦停止した。ここで知らない、と答えれば、自分は人違いであることが確定し、解放されるのではなかろうか。そうすれば、全く知らない場所ではあるが、タクシーを拾って最寄り駅まで行き、大阪へ帰ることは可能なはずだ。

「そして三浦道夫さんはミウゲと呼ばれていたはずです」

「あ、ミウゲ、ミウゲか」

 思わずそう答えてしまい、まずいと気づいても後の祭りだった。

 三浦は小学校の四年の時の同級生で、クラス替え当時、頭に十円ハゲがあったので三浦のハゲ、つまりミウゲと呼ばれていたのだ。

 そういう身体的特徴を持った子供は、開き直ってギャグにでもしない限りいじめられる事が多い。めいっぱい綺麗ごとで言えば「いじられる」という奴だ。そしてミウゲはいじめられっ子で、ハゲが消えてもその役割を引き受けたまま、二学期の終わりにどこかへ転校していった。

「三浦さんが僕にあなたの事を推薦してくれたんです」

「いや待てや、そんなん知らんし。いきなり小学校の同級生が連絡してきたら、たいがいアホみたいな値段の鍋のセットを売りつけるか、あやしい宗教・・・」

 はっと閃いて巫女の方を見ると、彼女はいきなり立ち上がり「わらわを邪教の徒と疑うか!」と叫んだ。

「もうよい、キヨアキ、こやつがお前の申す者である事は確かであろう。こやつを呼び出すという、わらわの役目はもう果たした。後はそなたらの好きにせよ」

 それだけ言うと、袴の衣擦れにまで苛立ちを充満させながら、巫女は牛車を降りてしまった。

 遠ざかる彼女の足音を聞きながら、敦はキヨアキに「ヤバいとこ指摘されて、切れてもたんかな」と話しかけた。

「言っておきますけど、倭可由さまはカルトとか、そっち方面の人ではありませんから」

「ほな、何やいうねん。ミウゲの話とか持ち出してきて、わけわからんわ」

「それについては、道々お話ししましょう。時間が勿体ない」

 キヨアキがそう言って、低い天井から下がる紐を引くと、どこかで鈴の音がした。それをうけて、誰かが牛車の入口に簾のようなものを下ろし、車輪の軋む音とともに牛車がゆらりと動いた。

「ウソやん、これ、牛が勝手に歩いてんの?ていうか、どこ行くねん」

 思わず立ち上がり、乗用車で言えばウィンドウにあたる小窓から外を覗くと、子供ほどの背丈の、全身真っ黒な何かが牛の引き綱をとって歩くのが見えた。

 敦は無言で窓から離れると、さっきまで巫女が座っていた、円形の敷物に腰を下ろした。あれが何なのか、今は考えない方がいいような気がする。

 やがて牛車は大きく揺れ、左へと向きを変えた。キヨアキは燭台を少し脇に寄せると、「今から、さっきの場所へ戻ります」と言った。

「さっきの場所て、あの、女の子が飛び降りてたとこか」

「そうです。倭可由さまがわざわざ、車を出して下さったんです」

「まあ、速さ的には歩くのと変わらん気もするけど」

 とはいえ、座って行けるので楽は楽か、と敦は何とか安定する姿勢を求めて座り方を変えてみる。

「なあ、自分、なんでミウゲの事知ってるねん。ていうか、あいつ何でまた俺の名前出してきたんや。本気で俺が鍋買うとか、思ってるんやろか」

「三浦さんはあなたより一足先に、あの場所に来られました。バイクで出勤途中に、トラック同士の衝突に巻き込まれて、重体になったのです」

「なんや、あいつもおったんか。ほな別に俺に頼まんでも、あいつに助けてもろたらええやん」

「それが、緊急手術が予想外にうまく行って、あっさり意識回復されたんです。ただ、三浦さんは去り際に、あなたの名前を出して、この人ならきっと手伝ってくれると言いました」

「なんでミウゲが俺を指名するんや。ていうか、あいつなんで、俺が注射打たれて意識不明になること知ってるねん」

「それは違います。三浦さんがあなたを指名したから、僕が倭可由様の力を借りて時間を遡り、あなたをここへ連れてきたのです」

「時間を遡るて、そんなんできるわけないやん」

「できます。僕は死んでいるから」

「そやったら、あの子助けるのも自分でやったらええやん!」

「だから、それは死んでいるからできないんです」

「・・・もうええわ」

 これが漫才なら袖へ引っ込むところだが、二人は牛車の中にいる。何とも間延びした車の揺れに身を任せながら、敦は「自分、そもそもなんで死んだん?」ときいてみた。

 年齢的に考えられるのは事故死だが、線が細いのは何かの病気だったのかもしれない。

「殺されたんです。人違いで」

「え?殺人、事件?」

「そうですね。バスを待っていて、ある女性に、彼女がつきまとっている美容師と間違えて襲われました。僕のTシャツが、彼と同じだったんです」

 そう言う彼が着ているTシャツは深いマリンブルーで、左右の袖と背中の襟元にシルバーのロゴが小さく入っていた。

「このTシャツは、従姉が新婚旅行のお土産にくれたんです。ハワイでも限定ショップでしか買えないレアものらしくて。おまけに僕の背格好がその美容師に似ていて、同じバス停を利用していたのも、間違えられた要因です」

「殺された、いうのは、刺されたとか、そういう事?」

「いえ、マニキュアの除光液をかけられて、ライターで火をつけられました。救急車が来た時は、まだ話もできたんですが、七時間後に死亡しました」

「それは・・・ご愁傷様で」

 死んだ本人に言う言葉ではないのだろうが、敦の口から咄嗟に出たのはその一言だった。話の重さとキヨアキの淡々とした様子の落差が大きすぎて、どうにもついて行けない。

「もしかして、死んだんは何年も前のことなんかな」

「いいえ、明日、九月一日です。これがネットに上がったニュースです。エゴサーチなんて趣味じゃなかったけど、さすがに死亡記事は気になって」

 キヨアキはスマホを差し出し、敦はそこに浮かんだ文字を目で追った。

「一日午前九時ごろ、JR西宮駅のバス乗り場で男性に火をつけてやけどを負わせたとして、会社員上田芳美容疑者(38)が現行犯逮捕された。上田容疑者は面識のない男性を自分の交際相手と思い込み、マニキュアの除光液をかけてライターで火をつけた疑い。男性は病院に搬送されたが重傷とみられる」

 その短い文章を二、三回は読んだだろうか。敦は目をしばたくと「なあ、この記事が九月一日や、いうことは、明日やろ?ほな自分、まだ死んでへんやん」と突っ込んだ。

「僕は死んでいます。ただ、現在、八月三十二日には、時間を遡ってきているだけです」

「そうなん」

 ゆるゆると、牛車は前へと進み続ける。

こういう時、喫煙者は煙草に手を伸ばすのかもしれないな、と思いながら、敦はまだ湿り気の残る髪を何度か指で梳いた。

「ご心配いただかなくても大丈夫です。僕はすぐに転生しますから」

 キヨアキはやはり淡々とそう言った。










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