第3話 03

「そや、お前のおかげでえらい目におうたわ。医者行っていきなり切開やで」

 敦は怒りを隠そうともせず、青年を睨んだ。しかし相手は少しだけ口角を上げ、「僕はそのために、あなたの足を刺したんです」と言った。

「そのために、刺した?」

「はい」

 彼は平然と頷く。

 こいつはもしかして、危ない奴かもしれない。そう考えた敦は向こうの出方を待った。

「僕に刺された傷はすぐに化膿して、あなたは根岸外科へ行くことになる。そして傷口を切開するために麻酔の注射を打たれ、アナフィラキシーショックを起こして意識不明になる」

「意識不明?」

 このままでは相手のペースにのせられてしまう。敦は腕組みをし、自分の記憶を検証してみた。

 会社帰りに行った、閑散とした雰囲気の根岸外科。子供看護師と、ナマ脚でつけまつ毛の女医がいて、いきなり切開だと言われて注射を打たれ・・・

 それから記憶が飛んでいる。今、右足に痛みはない。ということは、治療が行われた?しかしなぜ自分はここで、この青年と会話しているのだろう。

「あなたはまだ意識不明です」

 青年は曖昧に口角を上げたまま、静かにそう続けた。

「いや、俺、ちゃんと意識あるからここにいるやん」

「ここがどこか、わかりますか?」

「どこって、会社の近所やし、本町ちゃうん。大阪の」

「じゃあ、今日の日付は?」

「えーと、八月。月末〆の書類作ったとこやし、三十一日」

「どれも違います」

 いまだに落ち着いた様子の青年を見て、敦は本格的に駄目だと思った。

 これはもう別世界の住人である。刺された凶器がシャープペンシルだったのは不幸中の幸いだったのだ。あれが刃物なら命がなかったかもしれない。

「ほな、どうも」とだけ言って、敦は青年に背を向けた。コンビニ寄ってビール買って、さっさと帰って寝よう。そして足早に歩きだしたところへ、青年は尚も呼びかけた。

「ここは埼玉です。今日は八月三十二日」

 あかん、マジヤバい奴。振り向くな。更に足を早めるその背中へ、また声がする。

「あなたがここにいるのは、あの子を助けるためです」

 あの子を、助けるため。

 敦は足を止めた。

 そもそも自分が何をしていたのか、ようやく思い出して振り返り、夜空を見上げた。

「ウソやろ」

その視線の先には、宙に浮かんだまま静止している少女。

「本当です」

 青年は敦に追いつくと、彼と並んで立った。頭ひとつほど、向こうの背が高い。

「ここは埼玉で、今日は八月三十二日」

「それとあの子と、何か関係あんの。ていうか、なんで空中で浮いてるねん」

「彼女の名前は宮前沙知。中学生ですが、八月三十一日の夜、このマンションから投身自殺を図りました」

「投身て、飛び降り?飛び降りて、ほんで、なんで空中で止まってるねん」

「それは、今が八月三十二日だからです」

「八月は三十一日でしまいやろ」

「いいえ、たまに三十二日があるんです」

「何?二月二十九日みたいなもん?」

うるう年ではありませんが、こういう日はランダムに出現するんです。五月三十五日とか」

「そんなもん聞いた事ないわ」

「彼女が飛び降りたのは、まさに八月三十一日が終わる瞬間で、そのまま三十二日に入り込んだんです」

「それで、止まってる?」

「いいえ、今も落下を続けています。ただ、この場所はとてもゆっくり時間が流れているので、止まっているように見えるだけです。ランダムに出現する日は、時間の流れにムラがあるので」

「そしたら、すごいゆっくり落ちて来るわけやし、怪我もせえへんやん。大丈夫やんか」

「時間の流れは遅くても、物理的な法則は変わりません。だから、彼女はどんなにゆっくり落ちているように見えても、着地した時にはその衝撃から逃れることはできない」

「つまり?」

「全身打撲。即死か、よくて数時間から数日生存の後、死亡。さらによくて、非常に重い後遺症が残る状態で生存」

 青年はさして表情も変えずに淡々と話した。その事が却って敦を混乱させた。

「そこまで判ってるんやったら、なんで自分がどうにかせえへんねん。見てるだけか」

「僕には、できないから」

「できひんて、それはなんでや」

「死んでいるからです」

 あかん。

 こいつはマジでヤバい奴や。

 尚も表情を変えない青年から視線をそらさないままで、敦は尻のポケットに手をやり、そこに携帯が入っていることを確かめた。

 とりあえずこの場を離れ、警察に電話をして、あの少女を救出してもらう。宙に浮かんでいる、と伝えても信じてもらえないかもしれないから、マンションから飛び降りようとしている女の子がいる、と言おう。

 敦は無言のまま踵を返すと、歩き始めた。

 野良犬ではないが、走り出すと相手を刺激するような気がするので、平静を装ったまま、とにかくその場から遠ざかる。歩きながら、背後から足音が追ってこないかと神経を尖らせたが、何も聞こえてこない。

 それにしても、ここは静かだ。

 顔だけは正面に向けたまま、敦は目の動きだけで周囲の様子を確かめた。公営と思しき、無機質なマンションの敷地に、白々と並んだ街灯。緑地帯には夏草が生い茂り、駐輪場に並ぶ自転車の半分ほどはママチャリだ。明かりのついている部屋もあるのに、生活音がしない。夏の夜なのに、エアコンの室外機の唸る音すらしない。

 まあ、深夜だから。

 そう自分を納得させながら、敦は尚も歩いた。ようやくマンションの敷地を抜け、車道に出る。そこで右に曲がり、建物の陰に入って青年の視界から外れる。そう判断した瞬間に、走り出す。とにかく走って、コンビニでも牛丼屋でも、人のいそうな場所までたどり着き、警察に電話をするのだ。

 道はなだらかな上り坂で、歩行者はもちろんのこと、行き交う車もなかった。やせ細った街路樹と青白い街灯だけが並び、道路沿いにはどれも同じような顔をした戸建て住宅が続いてゆく。

 これは逆方向に行ったほうがよかったか。

 そろそろ息が上がってきて、敦はペースを落として尚も走ったが、家並みは途絶えることがない。どうもこの街は上にゆくほど年収が上がるらしく、家の敷地は徐々に広くなっていったが、依然として住宅以外のものには出くわさなかった。

 ついに走るのをあきらめ、敦は歩き始めた。思い出したように吹き出す汗を拭いながら、とりあえず、警察に電話をかけようとする。

 いや待て、ここは一体どこだ?

 青年の言葉を信じるなら、埼玉県。しかし埼玉のどこか、さっぱり判らない。たしかこういう場合は、電柱を見れば、そこに住所を示す番号プレートがあるので、それを伝えればいいと聞いたことがある。

 まずはパトカーにここまで来てもらって、そこから一緒にあの場所。女の子が空中に静止している場所まで戻ればいいか。

 一番近い電柱のそばに寄り、番号プレートを探す。どうやら反対側らしいので、回り込むと、人がいた。

「うっわ」

 思わず飛び退いたが、さらに敦を狼狽させたのは、そこに立っていたのがさっきの青年だという事実だった。

 まさか。自分が慌てて見間違えているだけでは、と思ったが。彼の首筋にはやはり三連のホクロがあった。

「逃げないでください」

 青年は責める様子もなく、そう告げた。

「に、逃げてへんわ。警察呼ぼうとしただけや」

 思い切り逃げていたが、少なくとも自分は問題を解決しようとしていた。それを強調するため、ポケットを探って携帯を取り出す。

「ただ、住所がわからへんし、電柱見て確かめよとしてたとこやがな」

 もうここはいきなり110番で、この危ない青年もろとも警察にバトンタッチしてしまおう。携帯を起動しようとした瞬間、「何やこれ!」と思わず叫んでしまった。

 手にしていたのは携帯電話ではなかった。よく似た大きさと厚みだが、木製のケースのようなもので、組み紐のストラップがついている。樹脂で塗装したような光沢のある表面に、円形のマークがデザインされている。

「・・・て、これ、印籠やん!」

 そう、敦が手にしているのは携帯電話ではなく、印籠。それも三つ葉葵の紋が入った、水戸の御老公の従者がドラマの山場で高々と掲げる、あの印籠だった。

「ちゃうねん、マジ電話するつもりやってんけど、何でこれ持ってるんやろ」

 自分でも意味不明な言い訳が口をついて出たが、青年の視線は敦の手元に釘付けだった。

「その印籠は・・・倭可由わかゆ様の言ったことは本当だったんだ」

 これまでずっと、さしたる感情も浮かべてこなかった彼の顔には、驚愕、というべき表情が出ていた。彼はいきなり敦の腕をつかむと、「一緒に来てください」と引っ張った。

「いや、先に警察に電話せなあかんし」

「警察なんか呼んでも来ない。早く、こちらに!」

 切羽詰まった青年の様子に半ば恐怖を覚えながら、敦は腕をつかまれたまま、引っ張られていった。青年はすぐ目の前にある家の門扉を推し開けて中に入ると、いきなり玄関のドアに手をかけた。

 いくら何でも無施錠のはずがない、敦はそう思ったのだが、ドアはすんなりと開き、二人は暗い玄関に立っていた。

「いやこれ、あかんやろ、不法侵入やで」

 住人に気づかれ、警察でも呼ばれたら自分もつかまる。だが青年はためらうことなく靴を脱ぐと「さあ、早く」と、敦をせかした。

 もうどうなっても知るか。敦はやぶれかぶれな気持ちで自分も靴を脱ぎ、引っ張られるまま、真っ暗な廊下を歩いた。突き当りにあるドアを青年が開けると、中には煌々と明かりがつき、誰か人がいるようだった。

「ただいま連れて参りました」

 青年はそう言って部屋に入ると、振り向いて敦を促した。

「すいません、夜分お邪魔します」

 とりあえずそう言って入ると、そこは真新しい畳の香りがする和室だった。

六畳間で窓はなく、正面に床の間よりも広い板敷きの空間があり、全く読めない漢字の書かれた掛け軸が下がっている。その前に立てられているのはアナログ盤を一回り小さくしたほどの、銀色に光る金属の円盤だった。

 そしてその前、こちらに背をむけてに座っているのは巫女だった。

「ご苦労であった」

 言いながら、巫女はこちらを振り返る。丸顔で目が大きいので、十代のようでもあり、二十代にも見える。ほぼスッピンだが、口元にだけ紅をさし、その額には何かの花をかたどった髪飾りを戴いている。腰のあたりまである髪は、一つにまとめて背中に垂らしている。

「座るがよい」

 そう言われて敦は腰を下ろした。ここはやはり、正座が無難だろうか。ふと横を見ると、青年は胡坐をかいている。巫女には丁寧な口調だった割に、寛いでいるではないか。彼は敦の視線に気づくと、「僕は足首が固くて正座できないのです」と言い訳をした。

「キヨアキよ、この者がわらわの示したお導きにより遣わされた従者か?」

「はい。間違いありません。お言葉の通り、三つ葉葵の印籠を持っていました」

 青年は、敦がまだ握りしめていた印籠を引き取ると、恭しく巫女に差し出した。彼女はそれを受け取り、傍らにあった白木の三方に載せて、金属の円盤の前に置く。

 その格式ばった振舞いを見るうち、敦の頭にある考えが閃いた。

 これは、夢だ。

 何故今まで気がつかなかったのだろう。ここまでわけのわからない事が次々と起こるなど、現実にはあり得ないに決まっている。とはいえ、自力で夢から醒めるにはどうすればいい?

 夢は眠っている間に見るもの。だとすれば、夢の中で眠りにつけば、逆に目を覚ますのではないだろうか。

 そう仮定して、敦は固く目を閉じた。

 耳に入るのは巫女の装束がたてる乾いた衣擦れの音だけ。だがそれも少しずつ小さくなってゆく気がする。いい感じだ。いつも寝不足なのが、ここでは有利にはたらく。段々と深くなる呼吸を意識しながら、全身の力を抜いてゆく。

「居眠りしている場合か!」

 いきなり固いもので頭をはたかれ、敦は目を開けた。見ると、巫女が檜扇ひおうぎを片手に膝立ちになっている。

「そなたには務めがあるというに、何をぼんやりしておる」

 上から目線にもほどがあるが、女性からここまで厳しく叱責されると、かえって心疼くものがある。巫女は檜扇を脇に置くと、膝立ちで前に進み、掛け軸の前に立てられていた銀色の円盤を手に取って座った。

「見よ」

 そう言いながら、彼女は携帯の画面と同じように、円盤をスワイプした。するとさっきまでただ部屋の明かりを反射していたその表面に、画像が現れた。言われるままに覗き込む。どこかで見た風景、と思ったら、さっきまでいた団地だ。防犯カメラのライブ映像とつながっているのだろうか。

 巫女はさらに指先を動かし、カメラの視点を移動させ、画像を拡大する。円形のタブレットなんて存在したんだ、と思いながら、敦は身を乗り出していたが、ふと巫女の胸元に目が留まった。

 デカい。

 彼女が身に着けている朱色の袴はハイウエストだが、そこからバストが思い切りせり出している。和装だから身体のラインがはっきりしないが、これがニットならどえらい眺めになっているはずだ。

 少し角度を変えて、何カップか検証してみようと、さらに身を乗り出すと、巫女が手にしていた円盤の表面が突然、中心から縁へと、真っ白に曇っていった。


 







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