第2話 02

 いつもは立ちっぱなしの通勤列車だが、夏休みで学生がいないので、運が良ければ席が確保できる。

 今朝の敦はその幸運を手にして、気持ちよく眠りこけていた。

 連日の猛暑で参っているところに、二日続きで名古屋と和歌山の日帰り出張。昨夜の帰宅は十一時を回っていたのだ。

 こういう時は一分一秒でも、可能な限り睡眠をむさぼる。感じるのははただ、甘美な車両の揺ればかり。

 隣の女性がラップに包んだおにぎりを食べ始めても気づかないし、沿線の遊園地のイベント案内が大音量で流れても判らない。

 ドア脇の席で、手すりに身を委ねて、敦はひたすら眠り続けた。

 車内は立錐の余地もない、という程ではなかった。ここは大阪。やはり東京の殺人的ラッシュアワーとは次元が違う。人と人の間には多少の空間が残されている。

 乗客の多くはスマホに見入っていたし、そうでなければ文庫本を読んだり、音楽を聴いたり。そして夏休みとはいえ予備校に通っているのか、問題集を広げたり、英単語を暗記している学生もいる。

 しかし敦は周囲の事など一切関知せず、車両の動きに合わせて揺れながら、ひたすら眠っていた。

 やがて列車はゆるやかな減速を始め、アナウンスが次の駅を告げる。

 人の能力というのは不思議なもので、熟睡しているはずの敦の脳内に、下車、という明かりがほのかに灯る。そして嫌々ながらも覚醒に向かおうとしたその時、右の太腿に激痛が走った。

「痛っ!」

 叫んだつもりだが、声の代わりにしゃっくりのような音が出ただけだ。 痛みを感じた場所に目をやると、誰かがシャープペンシルを突き立てていた。

 太腿にぶっ刺されたシャープペンシル。

 それを握っている手から腕、肩へと視線を移していった先にあったのは、見知らぬ青年の顔だった。

 前かがみで身を乗り出している彼は、痩せて色が白い。目元が隠れるほどに髪が長くて、その表情を読み取ることはできず、首に三つ並んだホクロだけが目を引いた。

「な、何やねん」

 ようやく出て来た敦の言葉に反応するかのように、青年はシャープペンシルを握った腕を引き、低い声で「さーせん」とだけ言った。 

「さーせん、て、ちょい待てや!」

 敦は青年をつかまえようとしたが、彼はそれをかわし、停車して開いたばかりのドアからするりと抜け出していった。

 周りの乗客がただ呆気にとられる中、敦は青年の後を追って駈け出したが、ホームを流れる乗客の波に阻まれ、あっという間に見失ってしまった。


「それでや、マジでここ穴あいてん」

 職場に着くなり、同期の村田に電車での出来事を話し、ズボンに残る穴まで披露したのだが、昼休みになる頃には社内で噂が広がり、総務の池本Bがわざわざ「大原さん、電車で通り魔に刺されたんやって?」と確認に来た。

 最大限に誇張すれば、そう言えなくもないが、敦が事の経緯を説明すると、池本Bは「なんや」と、心底拍子抜けした顔つきになった。

 池本BのBは「ババア」の略で、じっさい、彼女は「ババア」の条件を全て満たしていた。年、オーバー五十。態度、でかい。髪の毛、ぱさぱさ。あげればきりがない。

「そらえらい目におうたな。私もいつも気になっててん。満員電車でシャーペン片手に問題集やってる子な。そういう子に限って、足腰めっちゃ弱いし。電車揺れるたんびに、ふらふらー、ふらふらー、してるもんな」

「そうでしょ?電車のシャーペンは凶器ですよ」

「そやけど、さーせん、言うたのは、一応は謝ったわけやろ?」

池本Bはそのおっさん化したかすれ声で、「通り魔」を擁護するような発言をした。

「いやいやいや、そやったら、すいません、お怪我はありませんか?とか、もっとていねいに言わんとあきませんよ。さーせん、は絶対ないです」

「へーえ。若い子どうしの謝罪は、さーせん、で済むんかと思たら、大原くんは意外ときっちりしてるんやね」

「池本さん、若者をなんか勘違いしてませんか?」

「勘違いっちゅうか、理解でけへん。でもまあ、大したことなかって安心したわ」

 とりあえずここで事情を説明しておけば彼女が社内に広めてくれるから、あとは放っておけばいい。ある意味、池本Bは重宝な存在だった。


 しかし、放っておいて大丈夫なのは噂だけで、時間がたつにつれ、刺された傷は疼き始めた。

 会社にいた間はまだ、多少気になる程度だったのが、帰宅して発泡酒を飲みながらレトルトカレーを食べ、シャワーを浴びる時に見てみると十円玉ほどに腫れて熱を持ち、ベッドに入る頃には、無視できないほどの痛みが出てきた。

 とりあえず、冷やしておこう。

 そう思った敦が傷に貼ったのはメントール臭も爽快な湿布薬だった。彼にとって「ひんやりする」と「冷やす」はほぼ同義語だったので、これで大丈夫だと思ったのだ。

 そしてやはり、連日の睡眠不足もあいまって、彼はすぐに眠りに落ちた。


 翌朝、二度寝して遅刻ぎりぎりで出社し、そのまま仕事。昼にカツ丼と穴子そばの定食を食べて戻り、ふだん睡魔に襲われる時間帯になっても、眠気がこない。その原因は右足の違和感だった。

 痛い。右の太腿全体が、周期的に膨張しているような感じで、痛む。

 何故だ、と思ってから、昨日の怪我を思い出す。

 そういえば、一体どうなっているのだろうと、トイレに行き、個室で腰を下ろした。ズボンを下げ、昨夜から貼りっぱなしだった湿布薬をはがしてみると、傷の腫れ具合は十円玉からコースターへと一気に成長を遂げていた。

 赤いコースターの中心に、ひときわ赤い点があって、それすなわちシャープペンシルで刺された傷だった。

 恐る恐る腫れた部分に触れると、昨夜よりも熱い。冷やしたのに、何故だ。その時点でも敦はまだ、「ひんやり」の効果を疑っていなかった。

 これを一体どうしたものか。思案にくれていると、トイレに誰か入ってくる気配がした。

「あああ何やねんあのボケはホンマ何遍言うてもわかりよらへんし脳味噌に虫わいとんちゃうけ」

 念仏のように長い独り言、村田だ。

 意を決して個室のドアを細く開け、「ちょっと」と声をかけると、村田は飛び上がった。

「びっくりした。何や、こわい事すんなや」

「ちょっと見てほしいもんあるんや」

「どんだけぎょうさん出たんか知らんけど、そんなもん見るわけないやろ」

「ちがうわ、アホ。昨日シャーペンで刺されたとこ、こんななってん」

 言われて村田はようやく、うさんくさそうな顔つきのまま、ドアから身を乗り出して敦の腫れあがった傷を見た。

「こらまた、えぐい事なってるやん」

「やばいかな。医者行った方がええんやろか」

「ほっとくには、ちょっと、いう感じやな。そやけどお前、そこでよかったなあ。場所ずれて股間いかれてたら、いまごろ死んでるで」

 やはりこれは医者だろうか。しかし帰りに寄るのも面倒くさいし、と思っていられたのは三時ごろまでで、そこから先はどんどん痛みが増してきて、定時になったらダッシュで病院に行くことしか考えられなくなった。

 そういう時に限って、打ち合わせが長引いたり、客と連絡がつかなかったりする。ようやくデスクを離れることができたのは七時前だった。

 いざ、医者へ!と勢いこんでタイムカードを押したはいいが、会社の近所でどこにどんな医院があるのかさっぱり判らない。とりあえずスマホで探すか、とポケットをさぐっていると、池本Bが階段を降りてきた。

 一瞬迷ったが、ここは藁にもすがる思いで、「池本さん、この辺で一番近所の病院てどこですか?」と聞いてみた。

「病院?どないしたん」

 そこで手短に、傷の具合を説明すると、池本Bは「えらい大変やん。それはやっぱり外科か皮膚科かなあ」と、とりあえず心配してくれた。

「もう、とにかく一番近いとこがいいんです」

「そうか」、と池本Bは少し考えた。

「そやったら、根室外科かな。近いは近いけど、行った人の話は聞いたことないわ」

「どこにあるんですか?」

「出て右曲がってケルンの隣のビルの四階。看板出てるやん」


 看板出てるやん、の看板というのが、すっかり文字の薄れたところに油性マジックで上からなぞったような代物で、中の蛍光灯は薄暗く、入り込んでそのまま成仏した羽虫が一センチほどたまっている。

 普通なら回れ右をして帰る案件だが、今の敦は切羽詰まっている。医者なら何でもいい、という気持ちでこれまた古びたエレベーターに乗ったが、その頃にはもう右足を引きずりながら歩いていた。

「こんばんは」

 挨拶しながらドアを開けたが、待合室どころか、受付も無人だった。

 薄暗いとはいえ、明かりがついているので、診療時間であることは間違いないはずだが。

 もう少し大きな声で「すいません」と呼びかけたところ、いきなり「診察室」とプレートのあるドアが開き、やたらと大きなマスクをかけた看護師が顔をのぞかせた。

 妙に小柄、というか、小学生ぐらいの子供である。思わず二度見していると、愛想のかけらもない声で「どうぞ」と言われたが、やはり子供の声だ。

 いや、子供に見えるだけの成人なのだろうか。しかし足の痛みが敦にそれ以上考えることを放棄させ、彼はそのまま「失礼します」と診察室へ入った。

「どうしました?」

 そう声をかけられた敦の目に、最初にとびこんできたのは二本の脚だった。白く、すらりと伸びたナマ脚。ピンクのナースサンダルをつっかけて、ぱかぱかと揺すっている。そこから視線を上げてゆくと、オレンジ色のニットのワンピースに、とりあえず、という感じで羽織った白衣。

 さらに視線を上げると、肉厚の赤い唇に、上向き加減の鼻、つけまつ毛に縁どられた瞳がこちらを見ている。髪は宝塚の男役のように明るい色のショートカットだった。

「あの」と言ったきり、敦はしばらく黙っていた。どうしてこんな、誰もこないような医院に、ここまで人に見られることを意識したような格好の人間がいるのか。

「どうぞおかけ下さい」

 そう促したのは子供看護師だ。敦が丸椅子に腰を下ろすと、女医は「足ですね」と言った。

「え、あ、そうですけど」

「右足をひきずってらっしゃる」

 そう指摘されてようやく、敦は自分が何をしにここへ来たのかを思い出した。

「昨日、電車乗っててシャーペンで刺されたんですけど、それがどんどん腫れてきて、痛むんです」

「じゃあ、下脱いで、そこに横になって」

 そんな説明など意味がない、といった様子で、女医は診察台を指した。この二人の前でパンイチはちょっと、と思ったものの、他に選択肢はない。敦は言われるままにズボンを脱ぐと横になった。

 女医はその上向きの鼻がくっつくほど、敦の太腿に顔を近づけて傷を観察した。かすかに鼻息が肌をくすぐるものの、今はそれがどうこう、と考える余裕はない。

「切開ですね」

 女医はそれだけ言うと、身体を起こした。

「切るって、ここをですか?」

 せいぜい塗り薬と痛み止めをもらって帰るぐらいだと思っていたので、敦は思わず起き上がっていた。

「この傷は化膿しています。切開して膿を出さないと治りませんよ」

 言われて足をよく見ると、真っ赤に腫れた傷の中心部は、いつの間にか赤から白に変わっていて、どうやらそこが噴火口らしかった。

「つまり、針で穴あけるとかですか?」

「いいえ。切って、開く。だから切開」

「え、い、今から?今からですか?」

「待っていても悪化するだけです。大丈夫、麻酔はしますから」

 いやちょっと待ってまだ心の準備が、と言いたいところだが、子供看護師は既に何やら用意しているし、女医はラテックスの手袋をはめている。

「横になって下さい。すぐに終わりますから」

 子供看護師はそう言って、敦を再び仰向けに寝かせる。

 いやこれマジでヤバい奴?でも外科の看板出てたし、と気持ちは千々に乱れる中、アルコールのひんやりとした感触が、熱を持った肌の表面を多少手荒にこすってゆく。そして子供看護師と思しき小さな手が、膝のあたりを押さえた。

「じゃあ麻酔打ちますね」

 女医の乾いた声のすぐ後に、注射とは思えないほどの激痛が突き刺さった。

「痛ああああ!」

 そう叫んだのか、声にならなかったのか、記憶にない。



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