第9話 堺市市職員人間模様


栄養バランスを考えての、カルシウム・ミネラル・たんぱく質にビタミンふんだんの、つつ献立の朝食。祖父思いに満ちた、ボリューム少々抑えぎみ愛情朝食をゆっくりと味わい箸を置く。


今朝の片付け当番は私で、流しに並んだ孫たちの食器に少し抑え気味に洗剤を垂らす。泡とスポンジの感触を楽しみながら、最後に自分のを洗いカゴに並べる。バアバも娘たちのものを洗っているのだろうが、孫たちのものを洗う私の方が少し得をしているような気分に浸れる。


つつとひなは二階の自室に籠って読書に耽っているのか、コトリとも音をたてない。私も大学提出論文をまとめあげようと書斎へ入る。わが国初の最高裁判決を勝ち取った、マイナーな論点だが、【組合施行の区画整理では増換地は許されない】、この理論的根拠と社会的背景説明を近々大学へ提出するつもりなのだ。


さて、ひなが昨日トップバリューで買ってきてくれたアイスコーヒーを味わいながら、参照文献のページを繰っていると、10時過ぎに固定電話がベルを鳴らせた。受話器を取ると、堺市役所勤務の教え子からの相談だった。


「あのう、田北といいます。先生にちょっと、ご相談したいことがありまして電話をさせてもらいました。電話番号は先輩に教えてもらったんですが」


受話器から控え目で大人しい声が流れてくる。兵庫県にある総合大学の経済学部の学生のとき、私の公務員講座を受講した縁で電話をくれたとのことで、国税専門官から大学講師への転出を狙っている村中君の後輩だと自己紹介をした。田北君の所属セクションも裁量幅が大きいので、将来的には大学への転出を狙っているのではないかと思うが、これは今日の相談内容とは関係ないものだった。


ところで、私の意見を聞きたいという相談そのものは大した内容のものではなく、法学部の学部生でも簡単に解ける相続問題で、あとは本人の決断でいかようにも解決に導けるものだった。


「亡くなった親類のおじいちゃんの相続問題で、おばあちゃんから相談を受けたのですが、僕は法学部卒ではないので自信がなくて」


大学での講義のとき、私の相続権が相続放棄書の偽造という不正手段によって侵害され、その回復に結構手間どったことを面白おかしく話したのを思い出し、電話をくれる気になったのだという。


「法律的には、今話したように、至極簡単なんだよね。おばあさんとしては、1億円で済ませるか、それを拒んで、相手に死後認知の訴えを起こされ、結果、9億円弱の支払い命令が判決で出されるかだよね。ま、お金だけの問題なら、結論は簡単なんだろうけど、いろいろ感情的な問題が絡むからね」


私は田北君にもう一度、念押しの結論らしきものを伝え、机の上の電話に受話器を戻した。


「ね、ジイジ。教え子の人たちからの電話だったの? 私たちの脳トレ(脳トレーニング)のために、一緒に相談内容を聞かせてくれないと。ね。つつ」


二階の自室から降りてきたひなが、一足遅れで降りてきたつつと並んでソファーに腰を下ろし、ジイジたる私に不満顔を向ける。


「いや、大したというか、つつとひなの頭を煩わせるほどの問題じゃなかったんで、簡単に解説を加えて電話を終えたんだよ」


私はあえて二人を呼ばなかった理由を述べて話題の転換を図ろうとするが、孫たちはルール違反を見逃してくれなかった。


「でも、1億円とか9億円とか、景気のいい言葉がジイジの口から洩れてたように思うんだけど。ね、聞こえてたでしょ、つつ」


やはり孫たちには聞こえていたようで、私は最後の念押しをしたことを後悔したが、まさに後の祭りであった。


「うん。受講生だった人の遠縁にあたるらしいんだが、おじいさんが亡くなって、おばあさんが一人残されたんだけど、その相続問題でもめているらしいんだよ」


「相続人は、おばあさんと他に誰がいるの? 子供さん、それとも兄弟姉妹なの?」


「いや、子供はいないんだよ、というか、いま現在はいないって言った方が正確かな」


「あー! ジイジが私たちに相談内容を聞かせたくなかった理由が分かったわ。おじいさんに隠し子がいたんでしょ」


正にひなの言う通りで、婚外子が一人いたのだ。しかも50代の息子は知的障がいを持っていて、80代の母親に支えられて生きてきたのだ。


「それで、母親の主張はどうなの? 財産の半分をよこせって言ってるの? その前に、そもそも相続財産はいくらあるの?」


「相続財産は、トータルで18億」


金額を聞いて、つつがエッ!と目を丸くするのと同時に、ひなが口をとがらせヒューっと口笛を吹く。


「母親の主張はね、自分が死んだ後の息子の将来が不安だから、1億でいいから、その金額が欲しいんだって」


「で、おばあさんは何て言ってるの? 気になるわよね、つつ」


「うん。これまでおじいさんが十分しているはずだから、鐚(びた)一文渡したくないと言ってるらしい」


「その気持ち、分かるな。それだけの資産家やったら、既に障害を持つ子のためにかなりの財産を与えているやろし。何をいまさら、って言うんがおばあさんの気持やろね」


「でも、つつ。それで突っぱねて、認知、この場合は死後認知の訴えってことになるけど、これを起こされちゃったりしたら、下手するとさっきジイジのいってた18億の半分の9億、もっていかれちゃう可能性があるわよ」


「じゃ、二人の結論を聞こうか。まず、ひなから」


「私だったら、1億渡すわ。裁判を起こされたら、結局、1億以上は確実に取られるんだから。もちろん、死後認知の訴えが起こされない手段を担保にしてのことだけどね。それはそうと、ジイジ。子供さんはおじいさんの子であることは確実なの」


「DNA鑑定するまでもなく、容姿からおじいさんの子であることは間違いないだろうって、おばあさんも認めているらしい」


「そんなら決まりやね。おばあさんも90近い年齢らしいから、もうこれ以上余計な争いは終わりにして、ゆっくりと余生を送った方が精神安定上も、よほど望ましいから」


つつもどうやら私とひなと同じ結論に至ったようであるが、最後の決断はあくまでおばあさんがすることは言うまでもないことである。


「ねえ、ジイジ。田北さんは堺市の公務員ってことだけど、最近は採用試験、ずいぶん難しくなってるんでしょ」


ひなが言うように、かなり難度が増しているのは事実で、一番で合格した私の受講生などは、裁判所事務官試験の合格ラインにも十分達していたのだった。高位合格者の常で、配属先は人事課か総務課ということになるが、彼女は人事課に配属されたのだった。


私の実父は堺市中区の住人だったので、その相続財産も中区にあり、この関係で、私も堺市に相続財産を所有し、この縁で、堺市とは結構なつながりがある。小中の同窓生も多く、堺市在住である。


「何か、ジイジらの年代の公務員合格者とはかなり差のある試験レベルになってしまってんやね」


食事どきやコーヒータイムに我々の同級生たちの合格秘話を伝えてあるので、机からソファーに移動した私に、つつが呆れ顔を向ける。定年間近や退職してしまった職員たちと、特に若い職員たちとは専門知識や職業倫理の点でまさに雲泥の差があるのだ。


私の堺市中区深井中町1247番地の土地の一部に道路指定がなされていたのを例に挙げるとよく分かるであろう。50前後の葉草主査の主張は驚愕であった。いわく、相続放棄書の偽造という不正手段によって権利が消されていたとしても、二十数年間に亘り道路として使われていたんだから、元に戻すことはできませんよ。絶対無理な話です、と確信に満ちた弁舌を吐いたのだった。


「私有財産を勝手に公道にする権限なんて、手続きを踏まない限り堺市にはないでしょう。そもそも権利者である私に不利益処分の告知もないんだから、道路指定は行政法学上の重大かつ明白な瑕疵ある行為で、最高裁判例も認めるように無効でしょう。道路指定を解除しないんだったら、行政行為の無効等確認の訴えを起こすことになりますが、いいんですね」


私の最後通告に、あれほど確信に満ちていた葉草主査だったが、何故か簡単に道路指定は外されてしまったのだった。


「堺を食い物悪人に脅された、管財課の神田主査の対応も見事だったわね。『何や、許可やな、いるんけ!』。堺を食い物悪人のこの一言で、明らかに手続き無視の、全く出鱈目だった阪南病院北西のウマ池埋め立て。この出鱈目極まりないウマ池埋め立て行為が、何ら問題のない優良埋め立て行為に化けちゃうんだから、ホントに恐れ入るわね」


法律の勉強に身を入れ出しているひなが、枚挙にいとまのない堺市の出鱈目行為を思いだし肩をすぼめた。


「私は水道局幹部だった野西っていう人の行いの方がよっぽど気になるんやけど」


17歳の時に野西君と出会った同級生に、


「俺の娘や」


野西君が軽自動車を運転する手を止めて、左手で抱く一歳の娘を自慢げに紹介したのだった。


その話を聞いて、私は16で子供を産んでいることにまず驚いてしまったが、つつの非難は、野西君が娘を認知もせずに何故か堺の幹部職員に上り詰め、新しい家族を形成して幸せに暮らしていることにあるのだろう。私生児としてのハンデイーを負って生きて来た女性への同情。経済的にも精神的にも、どれほど心ぼそく不安であったことだろうか。つつらしい反応で、許し難い怒りが彼女の内に燃え上がっているのがよく分かるのだ。


「認知はすべきだったな。少なくとも成人に達するまでは、養育費等は支払って、父親としての義務は果たすべきだったね。ま、色々難しい問題があったんだろうけど」


私はつつを宥めるべく、言葉を選んだつもりだったが、


「難しい問題って、男性側の身勝手な行いが、勝手に問題を難しくしているだけじゃないの、ジイジ。局長まで上り詰めた田小さんだってそうでしょう。婚約して、泉北ニュータウンの団地での新婚生活まで決まっていたというのに、初級職で採用された今の若い奥さんを選んだんだから」


私のあいまいな表現が、ひなまで怒らせる結果になってしまった。


「いやまあ、確かにそうだね」


田小とは不遇な時期を共に近所で暮らした仲でもあって、私は親友と思っていたが、向こうはそうは考えてくれていなかったようで、農業委員会が絡む不正については私の敵側についたとの情報がもたらされた。少なくとも私の味方をしてはくれなかったのだ。


「田小君のことに関しては、ジイジは少々辛くなるから、追及はここまでにしてくれないか」


つつとひなに頭を下げて、私は田小君の話題から逃れた。以下の局長経験者たちの記述は孫たちには伝えず、私の頭の中に仕舞っておくことにしたのだ。


「あたしら、神田川の世界やったんやで」


浪人して和歌山の大学へ入った田小君と元婚約者の四年余りの生活実態のキィーワードが、神田川だったらしいが、


「神田川の世界って?」


当時の私には意味不明で、小学校教師をする彼女に聞き返したのだった。


「うん。土、日は彼の下宿へ泊りに行って、食事を作って、洗濯もしてあげて、近くの銭湯へ一緒に行くんやけど、お風呂を出る時間を知らせるために、男湯か女湯から合図をするねん」


そんな男女のはかなくも、精一杯の生きざまを歌ったのが神田川という歌だったらしい。短大を出て教師になった彼女は田小との結婚を夢見て、和歌山での土、日の生活を神田川の世界に浸りながら過ごしたのであろう。


「ニュータウンの団地まで当たってたのに……」


堺市の採用試験に受かり、さあ結婚という段になって、田小は初級職採用の若い現在(いま)の細君を選び結婚したのだ。こんな裏話までつつとひなに話したりしたら、どんな反応が返って来るか、それこそ火を見るより明らかだった。


―――言わぬが花、知らぬが花、だな……。


二人の女性に愛された田小君の真骨頂は、母性本能のくすぐり。最近やっと、彼の女性に好かれる特性というか天性の才を知って苦笑いを浮かべていると、受験生76人全員が受かったという、牧歌的時代の堺市の公務員採用試験合格者の猛者ぶりに思い至る。田小君と同じく局長にまで上り詰めた吉見君。浜寺公園でのカーセックスを恋人と楽しんでいたところ、デバガメ達に一部始終を見られてしまっていたことにようやく気付き、それこそムンクの叫びさながら、驚がくで顔が凍ってしまった車内の二人だった。


「うわー!!」


「キャー!!」


エンジンをかけ、慌てて逃げ去ったものの、ウィンドに張り付く数え切れない垂涎の眼差しに、長い間、二人は悩まされたことであろう。


「もう、最低で最悪の、傑作中の傑作よね!」


ひなに聞かせたら、お腹を抱えて笑うのだろうが、つつなら左手の中指を立ててしらっと無視を決め込むだろう。



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