第7話 スタップ事件を巡る人間関係
スタップ事件がなぜ起こったのか。この点は、過去の出来事にはそれを導いた原因があって、その意味では必然の産物であるとの理解を前提に考察してみたい。即ち過去を振り返った際、すべての出来事には必然性があったという考えに、私も二人の孫たちも立脚していて、血筋もあろうが私の生活訓も多分に影響しての、似た者ジイ孫孫であるといってよかった。ただスタップ事件が起こった背景分析については、三人のよって立つ思考パターンや事件に対する思い入れその他に微妙に影響を受けて、興味深い分析結果がもたらされるのだった。
思考パターンに関係するが、若者の流行り病といってよいのであろうか、私にも経験があるのだが、つつもひなも心理学に非常に興味を持っていて、一年間の休学中に心理学を完全マスターする意気込みで、時間を見つけては自室で心理学の体系書を読み漁っていた。もっとも、二人の学問的興味対象は敵対するといってよい学説であった。
つつはウエルトハイマーのゲシュタルト心理学を信奉しているが、ひなはワトソンが創設した行動主義心理学が性に合っているとのことで、こちらの書籍をもっぱら読み込んでいた。ヨーロッパ大陸型の合理論的演繹的学説と言ってよいウエルトハイマーの学説と、帰納的手法といってよいワトソンの学説。ひなが行動主義心理学に引かれるのは、合衆国で生まれた学派であり、アメリカ留学したことともちろん無関係ではないのであう。
いずれにしても心理学の深みに分け入るのは、本話の趣旨から離れるので、ここでは二人のよって立つ学説との組み合わせへの私の印象を述べるにとどめたいと思う。右脳型のつつは本来、現実に起こった現象面を直感的に把握し、法則を遡って構成していくという帰納的思考パターンに親和性があると考えていたので、ゲシュタルト心理学に引かれるのは少々意外であったこと。同様に左脳型のひなは、コアになる本質法則をもとに体系的な理論に当てはめて事象を分析するタイプと捉えていたので、行動主義心理学とは本来的に馴染みが薄いと考えていた。なので、ワトソンとの組み合わせは意外といえば意外であった。
さて、スタップ事件を巡る人間関係の分析という本話の内容に戻ると、この点は昨日の午前の延長で、その日の午後に三人で検討会を開く予定であった。が、つつ自慢のふわふわオムライスをダイニングで味わって、ひなの淹れてくれたブルーマウンテンの味と香りを楽しんでいるときに、書斎の電話がベルを鳴らせたのだ。
「ねぇ、ジイジ。このコーヒーメーカーって、昔ウチにあったのじゃない。ほら、この天板の噛みキズ。つつが五歳のときウチへやって来た時に付けたキズじゃないの。『コーヒー豆食べたい』って、蓋の上から豆をかじろうとして、あのとき付けた噛みキズでしょう。ね、つつ覚えてる? 反抗期か何か知らないけど、めったやたらと噛みまくってたから」
「そんな昔の古いことなんか覚えてへんよ。コーヒーの味が落ちるんで、静かにブルマン味わわせてよ!」
つつがひなにふくれっ面を向けたときに、机の固定電話がベルを鳴らせたのだ。孫たちとの昼食後の団欒。教え子たちは十分理解しているので、この時間にかかってくるのは彼らの相談ではない。モニターを見ると、豊岡にあるお好み焼き店からのものだった。まだ孫たちを連れて行ってはいないが、結構というかかなり評判の良い店で、私もカリッとした独特の生地と昔懐かしいソースの味が気に入っている。漁師の人たちの常連客も多く、ノリ養殖に従事する彼らから店で何度か、タンカー座礁による被害補償の相談を受けたことがある。
「私が出るよ」
受話器を取ったひなから受け取って耳に当てると、
「先生、大変なんです!」
五十前で笑顔の絶えないマスターが、正に緊急といった声を私の耳に投げ送る。
「大変なのは、マスターの声でわかるから、ちょっと落ち着いて話の内容を聞かせてよ」
マスターを宥め、スピーカーフォンに切り替えて孫たちと三人で相談内容に耳を傾ける。漁師で常連客の一人に飲食代金や貸した金を含め、863万円の債権を持っているが、たった今、彼が多額の借財を抱えていることが判明したことから、どうすればよいのか、というのが相談内容だった。タンカーのオイル漏れの際に、行政法上の観点から、補償の可否や請求の相手方等の無料相談を店で受けたので、慌てて私に相談電話をかけてきたのだった。
「最近、こんな相談が多くなったわね。でも、863万円って、ちょっと多すぎない」
相談内容に耳を傾けていたひなが、口を手で覆い、小さな声で隣のつつに笑いかける。
「家屋に土地、それに漁船や漁網等めぼしい高額財産にすべて担保がついているんだったら、863万円の回収は難しいね。ハウスメーカーや漁具・漁船メーカーが優先的に弁済を受けるから。だから最も有効な手段は、12月に組合から支払われる1500万円近いノリ養殖代金の差し押さえだね。・・・・・・ただこれもタイミングを外すと、他の債権者との債権額に応じた按分配分がなされ、マスターの債権はほとんど弁済を受けられなくなるね」
以前仕入れた情報をもとに、債権回収の難しさとタイミングによっては回収は可能であることを説明する。
「すぐ伺ってもよろしいですか?」
結局、弁護士を立てて裁判所の差し押さえ命令による債権回収がベストであり、友人の弁護士を紹介することになるが、マスターの気持ちが分かるだけに我が家への来訪を受諾したのだった。
「人助けもいいけど、バアバがため息をつくのも無理はないわね」
ひなが隣のつつに呆れ顔を向け、バアバと同じような溜息をもらす。世紀の運悪人間と自称する私で、幼少時から自分でも呆れるくらい運のない人生を送ってきたが、十八年前に実父の相続財産が手に入って、暮らし向きが随分と楽になったのだ。もっともこれも実父が四十年近く前に亡くなった直後、私の相続放棄書が不正に偽造され、権利が消されていたことを十八年前に発見し、かろうじて自己の相続分を回復した結果の賜物だった。
欲が絡むと人間というのは平気で犯罪行為を犯すということがよく分かったが、めぐり合わせであろうか、養母である大バアバも騙されて相続放棄をさせられていた。養父に至っては、手形をだまし取られて事業経営に失敗し、先祖伝来の土地家屋をすべて失うという犯罪被害の筋金入りだった。私が養子に入って十年後のことで、小学校五年の時に手形詐欺事件が起こったのだ。
養父母とは血のつながりは全くないのであるが、環境であろうか、詐欺被害にあうところはよく似ていた。祖父母や父の生き方を反面教師として育ったせいか、娘の祥子も雅子も犯罪者が裸足で逃げ出す鑑識眼の持ち主で、父親の私より余程しっかりしていて、この点はバアバの評価も同じだった。
さて、世紀の運悪人間の私が、運よく実父の財産を取り戻した話に戻ると、実父の他の相続人(後妻に入った実父の妻と異母妹と異母弟)との間で遺産の再分割協議書を作成し、結構な広さの土地を回復することが出来て、資産家というほどの大層なものではないが、私も生まれて初めて多額の固定資産税を支払う身分になったのだった。いずれにしてもバアバや子供たちにも少しは楽をさせられるようになったのは、本当にありがたかった。
長々と余計なことを語ってしまったが、トラックに撥ねられ生死の境をさまよった私が、リハビリの日々を送りながらも受講生だった人たちや身近な人達の相談に応じている理由を少しは分かって戴けたと思う。困っている人たちや弱者の痛みが、身にしみて、それこそ痛いほど分かるからなのだ。
さて本話は余談へ入りすぎて、いかんともしがたいが、そろそろ本題に戻ると、
「スタップ事件への人間関係からのアプローチ。本日予定の検討会は、明日に回さなければならないわね。検討会に回すメインタイムが無料相談に取られちゃったから、私たちは今から温泉駅前のスーパーへ夕食の買い出しに行こう。中途半端に余った時間はね、つつ。お腹が減るくらいゆっくり店舗巡りをして潰そう。減ったおなかの補充に、きのさき製麺でザルうどんを食べて、それから円山川のほとりを歩いてソフトクリームのミックスも食べよう。帰ってからお風呂掃除をしても、十分時間の余裕があるから」
四時過ぎにマスターを見送り書斎へ戻った私に、ひながつつの了解を得て検討会一日先送りを伝えると、二人は裏の物置から二台のママチャリを出してスーパーへ買い物に出かけたのだった。
翌日の5月9日。朝食を取り終え、十時に各人がこれまでに溜めに溜めた資料ノートを持ちより書斎の定位置に腰を下ろす。
「昨日検討した客観的な資料面からのアプローチでは、スタップ研究パクリ利用のコズル薄毛。彼が最も重要な役割を果たしたことは三人に意見の一致を見たんだけど、人間関係からのアプローチでは、私は大父方霧子女史が中心人物で、彼女主導でスタップ事件が展開されて来たと確信していたの。今も若干その傾向は引きずっているけど」
一冊目のノートの1ページ目を開いて、ひなが正面の私と隣のつつに苦笑いの顔を向ける。スタップを利用して関東の大学の教授に就いた人物を彼女は未だに許せないのだ。
「ひなのいうコズル薄毛教授、大学では相当厳しい非難にさらされるようになってきてるやろ。身内、はっきり言って自分の妻やけど、その彼女にまで甘い汁を吸わせ、大学での高い地位に就かせたんやから、当たり前やね。科学分野はシビアで、不正はいつかバレるんやから。でも、ひなのいう霧子女史主導説の根拠は何やったん?」
「色んな根拠を挙げればきりがないけど、霧子女史に対する知識面と給与面に対する不信・不満があげられるわね」
「確かにそうやね。うちのお母さんの知り合いの人も理々研に勤めてるんやけど、ユニットリーダーの霧子さんが余りに幼稚な質問するんで、エッ! 何で? って思うことがしょっちゅうだったらしいんやって。これがバカの推薦かよ! あ、ごめん。バカンティーやなくて、カバンティー教授だったんやてね。――――そんなわけで、不信感が渦巻く中、三年目ともなると何か注目を浴びることをせんとアカンて思うようになった。そこまで追い詰められたことがスタップの捏造につながったって言うんが、当初のひなの結論やったってことね。実は私もそれに近かったんよ」
ジイジたる私も当初、二人の根拠に少々ひねりを入れた考えだったので、ひなとつつの議論に黙って耳を傾けていた。
「そうよ、つつ。この不信感はスタップ事件が問題になり調査の必要が叫ばれ出した時に、京大の高橋政代教授が霧子さんの研究ノート等から、『もう、やってらんない!』って、怒りをあらわにしたことでも明らかよね。三年間で大学ノート二冊程度の研究内容で、おまけに余白が多く、しかも漫画が描いてあるのを見れば怒るのも当然よね。うちのママなんか、教養のときでも一ヶ月に十冊近い研究ノートを書き上げるのが普通だって言ってたもの。あの記事を読んで、ああ、これはまともに扱う研究じゃないって、私も確信したの。スタップ研究は、かつての錬金術レベルで、表現が悪いけど、山師の領域と考えた方が妥当だって思っちゃったもの。この点で、ipsとはレベルが違うって、素人の私でも気づいたから」
「結局、知的レベルの低さがスタッフに知れ渡り、しかも給与面での余りの厚遇にスタッフの不満が噴出しそうな状況下で、霧子女史が大芝居を打った。これがスタップの捏造であると、当初ひなは考えたんだね」
「そうよ、ジイジ。今も若干、その考えを引きずっているけどね」
「ただ、霧子女史オンリーでは、この事件は荷が重すぎる。それが、コズル男出現と相成るわけやね」
「そうよ、つつ。山中教授がipsでノーベル賞を受賞。これで勢いを得た、というか、波及的にスタップ研究が注目を浴びだしてきたことが、すでに完全に見切ってしまったはずのスタップのボロ研究資料。これをうまく押し上げて立身というか、栄誉を得ようとする悪だくみにつながった。そして実際、容易に得ちゃったということなの。偶然というか、流れというのは怖いわね」
世の中にはよくあることで、分析すると結構興味深い事象が多々あるが、我々三人にとってよく知る人物である井笹教授が自殺。これがあるために、事件の分析にも自ずから身が入るし、面白がってはいられないのだ。
「人間関係からの分析いう点では、バカンテイじゃなかった、カバンテイやったね。彼みたいに思いついたことをポンポン世間に発表して、世上を騒がせるのはどうかと思うね。確かに発想の豊かさも必要だけど、科学の本質を見誤った思い付きはいただけへんわ。科学というんは、仮説を立て、それに具体的事実を当てはめ、修正を加えながら法則を定立するていう、一連の厳格な客観的研究課程を本質とするもんでしょ。子供のころから、お母さんに耳にタコができるくらい教え込まれて来たんやわ。せやから、井笹のおじさんが亡くなった時、何で、こんな、高校生の私でも分かるような、山師さながらの研究に入れあげちゃったんよ! ってすぐ思ったんよ。仮説の入口段階での、ええ加減といってよい思いつきの発表。しかも仮説の余りにものいい加減さ。事実の当てはめ過程が上手く行くはずないと思ってたら、案の定、厳格な監視下では一度もスタップを発生させられへんかった。ips研究とはおよそかけ離れた山師的な仮説が、山中教授のノーベル賞受賞いうビッグマターの中で、二匹目のどじょうに祭り上げられてしもうたんやね」
「そうよね、つつ。結果論になるけど、山中教授のノーベル賞受賞、これがスタップ事件の引き金になったといっていいんだろうね」
確かにひなのいうように、山中教授のノーベル賞受賞がスタップを巡る今回の人間関係の根元になっているようである。われわれ三人がまとめた資料ノートを確認しながら、気になる一つ一つの事件を分析して、大筋では、一つの大きな収束点を見出したのだった。
「さあ、もう二時を過ぎちゃったよ。スタップ事件の分析は今後も続けることにして、今日はこれでお開きにしよう。寿司定食の時間は終わったんで、三人で、以前つつが言ってたカツ丼ランチ、駅前へ食べに行こう。ジイジがおごるから」
討論会の終了宣言とともに、ジイジたる私がお腹の虫が泣きだした孫たちを評判のカツ丼店へ誘ったのだった。
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