第6話 ジイジと孫孫が、スタップ事件の真相に迫る

 

ファニー・ショート・ストーリー、日本語で言うところの小話(こばなし)であるが、スタップ細胞を巡るバカンティ教授と女性研究員とのホットでまさにファニーな小話―――これがひなによって、本話の冒頭に振られる予定であった。アメリカでも結構受けたようで、実際、私も楽しませて貰ったが、つつのクレームで小話は没(ボツ)の憂き目を見てしまった。


「👩ねぇ、バッカ。🧔なんだい、キリコ。👩そろそろアメリカにも飽きちゃたから、日本に帰りたくなったの。どっかいいとこ紹介してくんない。🧔いいよ、キリコ。どこがいいの? 東大かい? 👩ううん、あそこはイヤ。疲れるから―――で始まる小話も初めはホンマに面白かったけど、もう聞き飽きたから。それに、少々品を欠くし。単刀直入にスタップ事件の本題に入ろうよ」

 

ユーモアより緻密な論理を楽しむつつが、三人が書斎のソファーに腰を下ろし検討会の準備が整うと、ひなの機先を制した。テーブルのティ―カップを持ち上げ、飾りっけなし、そう、直(ちょく)の検討会の進行を促したのだ。和泉市のナンノ宅から帰る車中で、城崎へ戻ったら出来るだけ早く、三人で検討会を始めようと話し合っていた結果で、それが三日後の今日、ようやく実現したのだ。


「そうだね、つつ。それじゃ小話は省いて、バカンティ教授はカバンティ教授、女性研究員は大父方霧子(おおふかたきりこ)っていうことにして、スタップ事件の検討会を進めようか」

 

ソファから立ち上がって、私は壁にかけた、家庭サイズより少し大きめのホワイトボードに頭文字のKとOを書く。


「ねえ、ジイジ。意図が見え見えじゃん。頭文字はBとOというか、実名でもいいんじゃない。公共性があることから、名誉棄損の問題はクリアできると思われるし」


「うん。ひなの気持ちは分かるけど、今回はこれで行こう。訴訟問題だけではないんだよ。訴訟はかけて来ればそれなりに対応するつもりだし、別に恐れてもいないんだ。創作の自由を確保する意味も込めての、この命名だと考えてくれればありがたい。調査やその検討が進むに従って、ジイジの意図が分かって貰えると思うので、取り敢えずはカバンティと大父方霧子(おおふかたきりこ)で進めるよ」

 

マジックチョークのキャップを本体に戻し、私はソファの二人に了解を求める。


「分かったわ。それじゃ、本題に入る前に、もう少しだけ登場人物を整理しないといけないわね。ジイジの従兄の外科医で元京都大助教授。このおじさんは、ウチのママの言い方を少しソフトに改めて、薄毛のおじさんにするわね。そのおじさんの教え子で、自殺した京大教授は―――ジイジの命名パターンでは、井笹教授でいいのかな。私たちは親しみを込めて、井笹のおじさんと呼ばせて貰うわね。ママの高校の先輩で、兵庫県の希望の星と騒がれ、京大でもノーベル医学賞に最も近い人って期待を寄せられていたから。それと、薄毛のおじさんの高校の後輩で神戸大医学部へ入った、ノーベル医学賞受賞の医学博士。この方は実名ズバリで、山中教授でいいわね、つつ。―――あ、そうだ。スタップ細胞事件の研究所、これは理々研にしようか。発想が貧困だって笑われそうだけど」


「うん、それでええよ。その他の登場人物は、その都度分かり易い名前で登場して貰ったらええでしょう。それじゃ、ジイジ、進めて頂戴」


「うん、分かった。まず、つつとひなには改めて説明するまでもないけど、スタップ細胞というのは刺激惹起(じゃっき)性多機能性獲得細胞、英語の頭文字をとってSTAP=スタップ 細胞と呼ばれているんだよね。これは細胞の外からの刺激による細胞ストレスによって、動物の体細胞の分化の記憶を消し去り、万能細胞へと初期化させる方法の一つなんだよね。ちょっと乱暴だけど分かり易く言うと、普通の細胞に刺激を与えて何にでも変えられる万能細胞を作り出すことだと思えばいいね。その際に用いた方法は、分化した細胞を弱酸性溶液に浸すなどの外的刺激、これを与えた結果、再び分化する能力が獲得された、として発表された細胞なんだよね。そして、このスタップ細胞をもたらす現象を刺激惹起性多能性獲得と呼んでいるのは広く知られていることで、二人には釈迦に説法だな」

 

私は少し笑いを取り、本題へ分け入って行く。


「それじゃ、まず初めに確認しておきたいんだけど、理々研での再現実験では一度もスタップ細胞を出現させられなかったけど、それ以前の、大父方霧子さんが出現させたというスタップ細胞、これも実は事実ではなかった、つまり彼女の捏造だという意見についてはどうだろう」


「その意見は没ね。彼女の手元でスタップというか、それと同等の現象が生み出されたと考えるのが、再現実験に臨む彼女の態度からも窺えるし、そもそもゼロを完璧な形あるものに捏造する、そんな大それたことが出来る器じゃないわね、彼女は」


「私も、ひなの意見に賛成」


「そうだね、ジイジも賛成だ」

 

私もつつと同じく、ひなの意見に賛成票を投じる。


「では、彼女は200回以上スタップを作成したと述べているが、この点はどうだろう」


「200回はさておき、少なくとも数十回は作成できたと考えるのが、記者会見に臨む彼女の態度からも推し測れるし、現場での同僚たちの証言からも読み取れるわね」


「そこで問題は、この間の矛盾をどう理解するかだね。たまたま一回だけ作れた、けど、再現実験では作れなかった、というような状況ではなく、数十回、ジイジは百回以上作れたと考えているが、そんな人物が再現実験では一度もスタップを作成できなかった。この間の矛盾をどう理解する?」


「私は研究室内の冷蔵庫に保管されていた大量のES細胞(胚性幹細胞―――はいせいかんさいぼう)がカギを握っていると考えているの。ES細胞は万能細胞と呼ばれるように、すべての組織に分化する分化多能性を持っているから、この細胞を使えば簡単にスタップを作ったのと同じ状況が出来上がるの。つまり彼女はスタップ(刺激惹起性多能性獲得細胞)を作成したのじゃなく、ES細胞を用いた結果としての、多能性の獲得でしかなかったと考えているの」


「つまり、ひなはスタップはなかったと考えるんだね」


「ええ。そうよ、ジイジ。再現実験の、あれだけ恵まれた環境下で、全く一度も再現できないというのは、以前もスタップの作成はなかったと考えるのが論理にかなうわね」


「私もひなに賛成。彼女が作成したというスタップのDNAと研究室内の冷蔵庫のES細胞のDNA、これが完全に一致するのんがイギリスの権威ある機関によって実証されたんで、冷蔵庫のES細胞が使われたんが明らかやね」


「そうだね。ここまでは、三人の意見は一致するわけだ。問題は、じゃあ、キリコさんがES細胞を知って使ったか、ということだね。知らずに紛れ込んでいたES細胞だったとの主張は、一回程度の作成だったら通るけど、100回以上も作成したというのでは、認められないから」


「ジイジはどう考えているの? キリコさんが注目を浴びるために、意図的にES細胞を使って、スタップが出来たと言い張ったと考えるの?」


「いや、それはないと思う。さっきひなが言ったように、世上を騒がせた一連の騒動、これを彼女が最初から最後まで主導していたと考えるには、持っている器が少々小さすぎる」


「私もジイジに賛成やわ。心臓に毛が生えてるって思うほどのひなかって、もし、あんな嘘ついてたりしたら、きっと、どこかで壊れてしもうて、ゴメン、ごめんなさい。スタップはありませんでした。私の捏造でした、って自白すると思うさかい」


「チョット、何よつつ。か弱き乙女の心臓に、どうして毛が生えてんのよ。ホント、失礼しちゃうわ。でも、キリコさんが意図的に同じフロア内の冷蔵庫のES細胞を使っていない、この点は私も賛成。しかし途中から、誰かがES細胞を混入したのを知った。そう、この事実を途中で彼女は知ってしまった、と私は考えているの。―――ねぇ、ジイジ。長く立っていると腰によくないから、ソファに戻ったら」

 

ひなに促され、私は二人の正面のソファに戻って腰を下ろした。


「どうやら、事件の核心に迫りつつあるようだね。それじゃ、キリコさんの実験材料というか、彼女が懸命に弱酸性溶液に浸すなどの外的刺激を与えた結果、スタップ細胞が出来たと信じた根本の細胞。これは、同じフロアに保管されていた冷蔵庫内のES細胞だった。ES細胞は万能細胞だから、弱酸性溶液に浸そうが浸すまいが、分化多能性をもっているのは当然で、これをもってスタップが作成されたなどというのは大間違い。この点の認識はどうだろう」

 

私は正面のつつとひなに結論を確認する。


「私は賛成」

 

まずつつが右手を挙げて賛意を表明する。


「私も全く異論なしにジイジの結論に賛成」

 

ひなも下唇突きだしふくれっ面のファニーフェイスで賛成票を投じる。


「三人に異論のないところで、では、誰がキリコ女史の実験資料にES細胞を忍び込ませたかが、次の問題になるね。研究室内のあらかたのスタッフについては、つつとひなに伝えてある通りだけど、真犯人と言っていいのかな―――この忍び込ませ人の確定はそんなに難しくはなかったんじゃないか」


「うん。ナンノのおじさんやジイジに訓練されてるから、真犯人の絞り込みは難しなかった。関係スタッフの数が少ないんも幸いしたわ」

 

大学ノートの記述に丸囲みを入れ、つつが私を見上げてうなずく。


「スタップ事件が騒がれたとき、なぜ、この薄毛のコズル男、ちょっとキツイけどいいでしょう。このコズル男に皆、どうして気付かなかったのかしら。偶然が重なり、タイムラグもあるとこんな結果になっちゃうのよね。普通は、こんな場合、誰が利益を得ているかで犯人に近づくアプローチをとるんだけど、当初はキリコ女史が一番利益を得ていると考えられ、彼女犯人説が王道だったのよね。ところがそうじゃなかった。でも彼女もピリッとしなかったから、ずるずる曖昧なままにアサッテの方に行っちゃたりして、結局、スタップ事件解明は中途半端に終わってしまったのよね」


「どうやら、忍び込ませ人というか真犯人についても、われわれ三人の意見は一致したようだね。理々研でスタップ研究はしてきたものの、その限界というか、スタップ作成はほぼ不可能との自らの判断に至ったと思われる人物、ひなの言うコズル男が、井笹教授やキリコ女史が注目され出したのに乗じ、最後っ屁―――少々下品だけど、これをかまして不正な利益を得た。こういう流れだろうね。山中教授のノーベル賞受賞。これに刺激というか、非常な焦りのなかで、スタップにのめり込んで行ってしまった井笹教授の死に至る炎にも、やっこさんは助けられたね」


「ね、ジイジ。いつものジイジらしくないよ。井笹のおじさんやキリコ女史をうまく利用して大学教授に収まった薄毛の人物。彼にそうとう腹を立ててんの?」

 

いつもと違う少々荒々しい口調に、正面からつつが心配顔を向ける。


「ごめん、ごめん。少し熱くなっちゃったな。スタップ事件の真犯人が確定できたところで、この事件の背景にある人間関係を次に考察してみよう。その折に、キリコ女史が何時、薄毛の人物の関与を知ったかも考えよう。彼女はうまく利用された哀れな被害者なのか、それとも、関与を知った後はれっきとした共犯(事後従犯)となるが、このいずれかであるかも確定できるだろう」

 

スタップ事件は、新事実が出たり推論に変更が生じれば、この先も検討会の俎上に上がることになるが、取り敢えずは、この事件がひなのいう―――ずるずる曖昧なままにアサッテの方向へ行ってしまった原因の一つといってよい人間関係。そう、次話では、事件を巡る人間関係にスポットを当てて、三人でスタップの裏側から事件の本質に迫って見たいと思う。 

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