第5話 和泉市立小栗の湯事件その2
「ただいま」
久し振りのマルガジュで、つつとひなは午後六時の看板いっぱいまで情報収集とマスターや常連客との会話を楽しんだようで、六時半近くになってようやくナンノ夫妻や私の待つナンノ宅へ帰ってきた。
「おかえり。どうだった? 三年ぶりにマスターや常連さんたちとお話が出来て、楽しかった?」
ナンノ夫人が笑顔で二人を応接室へ迎え入れる。
「うん、ホントに楽しかった。それに、ナンノのおばちゃんに対する出入り禁止通告事件の裏の意味、よく分かったわ。ね、つつ」
ひながナンノ夫人の隣に腰を下ろしながら、私の横に座った自分の正面のつつに意味深な目くばせを送る。
「うん。ナンノのおじさんがした批判を誤解して、その意趣返しにオバちゃんのショーツ洗いを利用して出入り禁止の通告に及んだというのんも。公共施設の私物化やね。和泉市による多額の支出のおかげで低料金での運営が成り立っているというのんに、まるで自分たちが提供してやっているいうような思い上がった運用実態。それにむちゃ不衛生で、入れ墨入浴客も驚くほど多いっていうのんもね、ひな」
「それは穏やかじゃないね。でも、そこまで言いきるんだったら、ジイジにも分かるような納得の行く根拠を挙げてもらわないとね」
孫たちがこんな短時間に出入り禁止という時代錯誤的な言動の背景実態を把握したのだ。その論理形成過程には、正面でうん、うんとうなずくナンノ氏ならずとも興味が湧いてくる。
「うん。まずね、出入り禁止の通告がなされる当日の入浴の時に、ナンノのおばちゃんが回数券を購入してその一枚を番台女性に渡した時に、おっきなヒントがあったんよ」
「一体どんな?」
思わず私が隣りに座るつつの顔をのぞき込んだ。
「うん。ナンノのおじさんを嫌っている原水という人物が、『チョット早う来すぎたな』って、番台女性に苦笑いの合図を送ってんのよね。これって、当日ナンノのおばちゃんに出入り禁止を通告することをあらかじめ知ってて、二時間余り入浴するナンノのおばちゃんの出る時間までいられないのが残念だ、って言ってるんと思われるのよね。つまり当日、出入り禁止の通告がなされる事実を既に共有してて、通告がなされるのを見たいのに、それが見れへんで残念やって意味やと、ひなも私も理解したんよ」
確信に至っている推理のようで、つつは自分で納得するように一つ頷いて、話を続けた。
「何が何でも、出入り禁止を言い渡して、ナンノのおばちゃん、実は後で言うけど、ナンノのおじさんを小栗の湯へ来させへんよう仕組んだことやって分かったの。これは、回数券を購入した日に出入り禁止の通告をしたのに、その払い戻しにも言及せんと、しかも数日後、ナンノのおじさんが払い戻しを求めて番台へ赴いたら、『私たちには、回数券を払い戻す権限はありません。市役所へ行ってください』って述べてることから分かるんよね。正当に購入した回数券を払い戻す権限すらない人間が、どないして施設利用を丸々拒む―――出入り禁止の通告なんてできるんよ。矛盾しすぎてるやんか」
「ホント、アッタマ来ちゃうんだから。『現場を押さえた』なんて言って、まるでおばちゃんを犯罪者扱いしたらしいんだから」
ひなも私の正面でカッカする。
「よしよし、そう怒らずに。おばちゃんのショーツ洗いは利用されたのはよく分かったから、その他の調査結果をゆっくり聞かせてくれないか」
ひなを宥(なだ)め、私は孫たちが集めた事実資料とそれを基にした彼女たちの推論結果に耳を傾けることにした。多額の資金が投入されている施設の運用実態調査結果に、すこぶるとまでは行かないが、かなり興味が湧いてきたのだ。
「原水君やその他の私を嫌っている人たちが、ある事ない事色んな事を番台女性に吹き込んでいたのは、私と親しい人たちから聞いていたんだが、直接の引き金は、出入り禁止の通告を受ける数日前に、番台女性の脱衣箱のカギ渡しに私が疑義を呈したことが原因だと考えているんだ。つまりね、彼女がするように近い番号のカギを集中的に渡すと、脱衣所の一部に客が固まって混雑するよね。だから脱衣箱のカギ渡しの理想は、ばらけた番号のカギを渡せばいいんじゃないか。そうすれば客同士、衣服の着脱に窮屈な思いをすることも無いだろう。でもこんなことは幼稚園児でもわかることだから、と私が脱衣所で述べたことを、番台女性に告げ口に行った人物がいたらしい。私の真意は、脱衣箱の掃除の手間等、何らかの理由があるんじゃないか、という付加点にあったんだが、幼稚園児でもわかることが分からないアホだとナンノが言っているとでも伝えられたんじゃないかな」
ナンノ氏が正面の私に苦笑いを浮かべながら、つつとひなの推論に肯定的態度を示す。
「そう、小栗の湯のお客さんは三グループに分かれるのよね。高校の元校長先生だった田藤さんや高齢で一人暮らしの田吉さん、それに電気事業を営んでいる尾松さんたちのように、ナンノのおじさんがお気に入りのグループがまず一つ。それとその逆の、おじさんを嫌っているグループ。この人たちは五十を過ぎても未婚であったり、奥さんに逃げられたり―――」
「これこれ、ひな。それは言わない方がいいよ。誰から仕入れた知識か知らないけど。ま、いずれにしてもナンノのおじさんを好いているグループとその反対のグループ。そしてそれら以外のグループの三つに分かれるということなんだね」
「うん、そう。そしてね、おじさんを嫌っているグループの嫌い方は半端じゃないのね。おじさんがトイレに入ったりすると、トイレが長すぎて、自分たちが使えないって、すぐ番台女性に苦情を言いに行くのよ」
「だから、私はここ二カ月近く、トイレは利用したことがなかったんだけど、一度、五分ほど入ったことがあるんだよ。驚いたのはね、トイレを出ると番台女性が入口のところで時計を見ながら時間を確認しているんだよ。こちらは全裸で、まあ、何ていうか―――」
「えっ?! ホント!。それ本当にあったことなの?! アメリカだったら、たとえ男性であっても、セクハラだー! って、大騒ぎになるとこよね」
ひなが両手を広げ、正面の私にお手上げの仕草にあきれ顔を付け足す。
「‥‥‥それはひどいな。公共施設の職員としての自覚が全く感じられないな」
私も驚きを通り越して悲しくなる。
「うん。自分たちの気に入らない人間を排除する執念は、すごいものを感じるね。ま、色んなことが分かって、他所(よそ)を利用するいいきっかけになったよ」
「ところで、入れ墨客の点はどうなの。確か、だんぢり湯は入れ墨客、断固拒否のポリシーだったと思うんだけど」
「そう、だんぢり湯は徹底しているね。小栗の湯は建前上は拒否みたいだけど、かなり多くの入れ墨客が利用しているよ。ま、御時世なのかな。ただ元暴力団員を含め、何人かの暴力団関係者が利用しているが、週に一、二回の利用だったからかも知れないけど、私が知る限り彼らが小栗の湯で問題を起こしたことは無かったんだ。もっとも、彼らの一人が近所の道で車の通行トラブルがあった際、相手運転手を明らかにスジ者と分かる言辞で脅迫していたのを目撃すると、やはり考えさせられたね。それに、しばらく見なかった入墨客が、実は飲食店で暴力事件を起こし服役していたって聞かされると、ああ、やっぱりって思わせられたね」
ナンノ氏は入れ墨客とも普通の会話を交わしていたらしいが、最近の出来事で少々疑問を呈する方向へ傾きつつあるようだ。
「最後に衛生状態については何か、マルガジュで聞かなかった?」
ナンノ氏も夫人もつつとひなの調査結果に満足したようで、小栗の湯事件はお開きにしたい様子がありありと伝わってくる。つつとひなの調査能力も理解できたこともあって、私も衛生状態の問題を最後に、小栗の湯事件は仕舞うことにした。
「うん、まずね。男性客の場合、掛け湯をせんと浴槽へ入る人がかなりの数に上るらしいんやって。私なんか、お母さんに『前も後ろもちゃんと洗ってから入るんよ。お風呂へ入るエチケットなんやから』って、それこそ耳にタコができるくらい、二、三歳のときからしつこく言われて来たんで、信じられへんかった」
つつが私とナンノ夫妻を見回し溜め息をつく。
「私なんか、もっと信じられなかったのは、浴槽に時折うんこが浮くっていうでしょ。だからマルガジュのマスターなんか、浴槽に浸かったことがないんだって。シャワーを浴びて出てくるだけだって。でも、そのシャワーのお湯って、浴槽の湯が循環しているんだったら、結局、浴槽へ入っているのと同じじゃないの? ってマスターに話すと『えっ! そんな』って驚いてんの」
ひながマスターの仕草を思い出して、お腹を抱えて笑い出す。浴槽の湯はシャワーに回ってる可能性はないらしいが、マスターの驚きようがよほど面白かったらしい。
「ナンノのおばちゃんはどうなの、やっぱりお湯のシャワーを浴びて出ていたの?」
「おじさんから男風呂に時折、大便が浮くって聞いていたでしょう。もちろん女性浴槽へも同じ湯が循環してくるから、おばちゃんは水のシャワーを浴びて出てくるようにしていたの。これだと水道水のシャワーだから、大便が混ざってる可能性は全くないでしょう」
「さすが!」
ナンノ夫人の一言で、ひなは胸につかえていたモヤモヤが、スカッと消し飛んだのだった。もちろん、つつも同じく留飲を下げたのは、嬉しそうに両親指を立てた―――サムズアップのVサインが物語っていた。
ナンノ夫妻は今後、二度と小栗の湯へ行くことは無いだろうが、この出入り禁止の通告事件を反省材料に、小栗の湯は地域住民の不可欠な銭湯として、清潔で安価で安心かつ利用者目線の銭湯に生まれ変わってほしい。そう、低い利用料金は市の支援が注ぎ込まれているからであり、もし、それが職員の思い上がった不相応な給与に流れているようなことがあれば、それはおかしいのではないかという自覚とともに、出入り禁止の通告などという時代錯誤的で―――侮辱極まりない言動は厳に慎むべきであろう。ナンノ夫妻とともに、ジイジと孫孫もそう願わずにいられなかった。
さて、物議をかもした小栗の湯事件であったが、ひなとつつの声が届いたのか、番台担当者が代わって、利用客の評判がすこぶる上がったとのこと。ナンノ氏も友人たちに誘われ、時折利用するようになって、風呂場での楽しい会話に花を咲かせているらしい。ホント、めでたしめでたしである。
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