第4話 和泉市立小栗の湯事件その1

 第3話で述べたが、ジイジたる私にとってもまた孫たちにとっても放置しえない出来事が、数年前、世上を大きく騒がせたスタップ(刺激惹起性多能性獲得細胞――しげきじゃっきせいたのうせいかくとくさいぼう)事件で、この解決のための資料収集や事件の概要把握について、徐々にではあるが、孫たちとゆっくり話し合う機会を持つように努めている。


多額の国費を投入した調査にもかかわらず、再現実験ではスタップはまったく得られなかったという、国民としての不満は当然として、スタップのために優秀な研究者が何ゆえ死を選らばねばならなかったのか。その人物が、私にとっても孫たちにとっても近しい人であればなおさら無関心ではいられず、事件の真相解明は避けて通れなかった。


ただ、スタップ事件にかかりきりというわけに行かないので、受講生だった人たちからの相談をこなすのは当然として、また、遊びという意味の余裕を持たせるためにも、時折、三人での息抜きを兼ねた小旅行も日々の生活に組み込むようにしている。


さて本日、五月七日。ひなとつつが普通車の免許を取得したこともあって、運転練習も兼ね、我が家と家族付き合いをする大阪府和泉市の南野(ナンノ)さん宅を訪れる計画を立てた。ナンノのおじさんとおばさんに会うのが余程待ちどうしかったのか、つつもひなも城崎自動車スクールに無理を聞いて貰い、ほぼ毎日の、超過密といってよい学科と運転授業をこなし、最短期間でのマニュアルミッション車の免許証取得であった。


「私は留学中、十七歳でカリフォルニア州の免許は取得していたんだけど、つつと一緒に日本での免許を取ることにしたのは面倒な手続きも省けるし、安全面への配慮も考慮してのことなの。Do in Rome as the Romans do. そう〈郷に入っては郷に従え〉よ。でも、こっちで取り直して、本当に良かったわ」

 

朝八時前に城崎町桃島の自宅を出て、円山川に沿った景色を楽しみながらゆっくりと南下して、十時過ぎに和田山着。高速道を避けての一般道を選ぶドライブで、まずつつがバアバの愛車デミオのハンドルを握った。リハビリ中の私は車の運転を控えていて、孫たちがアッシー嬢というかアッシー姫ということで、ちょっぴり豪華なVIP気分での後部座席乗車だった。


和田山で、モール形式の広々とした集合店舗の中の、スーパーのイートインコーナーに腰を下ろして、持参したコーヒーをポットから各自のカップに注いで、つつ自慢のクッキーを味わう。この和田山から尼崎までは、少し長いが、ひなが運転を代わる。


「教習所での実技講習で慣れているから大丈夫だとは思うけど、アメリカと違って右ハンドルの左側通行だから、気をつけるんだよ」

 

後部座席から時折、ジイジが運転席のひなに注意を促す。自分が運転するよりよほど神経が疲れてしまう。


「ノープロブレムよ、ジイジ。ね、つつ」


「うん」

 

つつは左手に広がる緑の山々をフロントガラス越しに眺めていたが、ひなの呼び掛けに助手席から笑顔で応じる。高速(道路)に乗らず、国道9号線を進むコースは、バアバと一緒にナンノ家を訪れるいつもの行程であった。


「さあ、宝塚に入ったから、昼食を兼ねて、イオンの宝塚店でゆっくりと休憩しよう」

 

これもバアバとのいつもの行動パタンを踏襲し、イートイン設備のあるスーパーでしばらく休んで、そこからの運転はつつにバトンタッチなのだ。

 

初めての長距離運転の割には、連携が良かったのか、それともこの程度の負荷は二人には苦にもならないのか、超余裕の体(てい)で午後三時前に、デミオは和泉市王子町つつじヶ丘のナンノ家前に着いてしまった。


「いらっしゃい、つつちゃんにひなちゃん。それにジイジも」

 

ナンノ夫人が高台に建つ自宅の門を開けて三人を迎えてくれる。五年前までは、私の母がナンノ家の近隣に住んでいて、そこへよく訪れる我々とは、家族でのご近所付き合いと言ってもよい関係であった。だからナンノ夫人が私のことをジイジと呼ぶのもごく自然な響きで、耳に全く違和感がない。


「やあ、二人とも大きくなったね……」

 

ロマンスグレーのナンノ氏も夫人と一緒に石段を下りてきて、久し振りにみる孫たちに感慨深げである。チョッピリうらやんだ仕草が表情ににじむのは、孫が欲しくて仕方ないのに、息子さんたちが未だに結婚しないことへの不満の反映だった。


「いやあ、こっちも色々と、ホントに大変だよ」

 

彼の愛車デミオの隣に同じデミオを入れ終えたつつと並んで門をくぐり、暗に娘たちの離婚を苦笑いを浮かべながら示唆する。ナンノ氏とは年も五歳しか違わないから親しみを込め、話口調もざっくばらんだった。


「どうぞ、入って下さい」

 

夫人に案内され、玄関を入って右手の応接間のソファーに腰を下ろす。


「ナンノのおじちゃん、小論文対策、とっても役に立ったわ。ホンマにありがとう」

 

定年前の話だが、ナンノ氏は医学部専門予備校で小論文の講座を受け持っていて、つつもひなも受験のコツを伝授してもらったのだ。最近、私学の医学部は面接と小論文の比重を高くしていて、ナンノ氏は受験界では知る人ぞ知る人物であった。


「でも二人とも、お母さんが出た公立の医学部に受かったんだから、おじさんの小論文対策、それほど役に立たなかったんじゃないか」


「ううん、おじさんのおかげで私学に楽々受かったから。その後の第一志望校の国公立の受験、ずいぶん楽になったのよ。ね、つつ」


「そう、おじさんの三分類パターン、ホンマに役に立って、ほかの分野にも色々応用できたから。①ダメな小論文と②受かる小論文。それに③ズバット引き離す小論文の、三パターン。①は日本語になってない文章や嘘というか間違った記述の文章、それに問われたことに応えてへん文章、でしょう。だから私はまず、これらでない文章を書くことを心掛けたんよ。消去法よね、ひな。すると後はおじさんに教えて貰ったズバット引き離す文章のコツ、これを磨くことで、小論文は超得意分野になって、ホンマに、助かったわ」

 

つつがジイジたる私の右手のソファから、正面のナンノ氏にまざりっけゼロの感謝の笑顔を向ける。


「おじさんとこの上のお兄さんも、おじさんの伝授のおかげで医学部楽々合格したんでしょう」

 

ナンノ氏の長男も外科医をしていて、つつの母親である雅子と同じく整形外科医である。


「さあ、どうだか。ね、お母さん」

 

ナンノ氏は自分の左手に座る妻にひなの質問を振ったが、ナンノのおばちゃんにいつもの朗らかさがないのだ。これは部屋へ入って、つつもひなもすぐ気づいていた。


「おばちゃん、どうしたん? いつものおばちゃんみたいに朗らかにしてくれへんかったら、つつ、ホンマに悲しくなるよ」

 

お気に入りのナンノのおばちゃんの沈んだ表情を覗いてから、つつはおじさんに心配顔を向けた。


「うん、こっちも悪かったんだけど、小栗の湯の番台女性に出入り禁止の通告を受けたのがショックだったみたいでね……」

 

ナンノ氏の話によると、夫人は週に一回だけ、自宅風呂に入らず、近くの小栗の湯へ入浴に訪れるのだが、自宅風呂の延長で、小さなショーツを洗い場で洗ってしまい、それをとがめられ、出入り禁止の通告を受けたというのだ。


「小栗の湯というのは、和泉市営だったよね。結構な市の資金が投入されているので、市民オンブズマンだったか、市財政の健全化・透明性を要求する団体が批判している施設じゃなかったかな」

 

私はおぼろげな知識を頭の隅から引っ張り出す。


「でも、それっておかしいわよ。そもそも番台の女性に、出入り禁止の通告なんていう――市営施設への入浴権を奪う、そんな大きな権限があるの。これからは洗うのをやめて下さいね、って一言いえば丸く収まって、それで済むことじゃない。何よ!  出入り禁止なんて、まるで場末の安酒場の、クズ客に対するみたいな扱いじゃない! 公務員か公務員に準ずる職員なのにそれを忘れ、いったい何様よ! って言いたくなるほどの、なんて思い上がった言動を吐くのよ!」

 

大好きなおばちゃんが侮辱的な言辞に曝されたことを知り、ひながカンカンになって怒り出す。


「よしよし、カッカしないで、よく事実関係を調べて判断しよう。スタップ事件調査のウオーミングアップだ。今日は城崎へ帰らずに、空き家のままの、亡くなった大バアバの家に泊まることにしよう。さあ、二人とも大好きなマルガジュへ行って、事実資料を集めておいで。マルガジュのお客さんもマスターも和泉市立小栗の湯を利用しているから、詳しい事情を教えてくれるだろう」

 

この出入り禁止通告事件はどうもおかしい、何か裏がある。孫たちも直感したのだ。ジイジと孫孫の行くところ、常に事件ありということか。いずれにしても、スタップ事件の調査と推論にあたっては、和泉市立小栗の湯事件は二人の良い訓練になるだろう。


「ではジイジ警部、これからマルガジュへ聞き込みに行ってまいります」

 

おばちゃんの汚名をそそぐのが余程うれしいらしく、二人はじゃんけんで運転手を決めると、デミオに乗って五分程の、お気に入り喫茶店マルガジュへ向かったのだった。


「ジイジはいいなあ、あんな可愛い孫さんが二人もいるんだから」

 

ひなとつつが出て行くと、ナンノ氏は正面の私にため息を漏らした。


「ひがまない、ひがまない、ナンノちゃん。ここだってきっと、もうすぐかわいい孫さんが出来るよ」

 

私は親しみを込めた呼び方でナンノ氏を慰める。孫の話題で盛り上がれれば最高なのだが、こればっかりは縁というか、相手のある事だから親がやきもきしても始まらない。


「それよりジイジの六年前の事故、裁判にかけるの?」

 

ナンノ氏の横から、夫人が問いかける。ひなとつつが味方に加わって心強いのか、いつもの明るさを取り戻した笑顔に変わっていた。六年前の事故というのは、私の母である大バアバの家にバアバと私が訪れていた時に起こった、私へのトラック激突事故だった。マルガジュへ行こうと自転車を走らせていた私に、後方からのいきなりのトラック激突で、腰骨と肋骨骨折それに頚椎損傷の重傷を負ったのだった。


連絡を受けたバアバが丸笠団地近くで救急車に乗り込み、懸命に耳元で呼びかけてくれたおかげで、私はようやく意識を取り戻したが、警官が言うように助かったのが奇跡といえる事故であった。いずれにしてもこれにより、私は約四か月の長期入院を余儀なくされたのだった。


「うん。訴えるかどうか、まだ迷っているんだよ」

 

このトラック激突事故については、整形外科医であるナンノ氏の長男も娘の雅子も故意による殺人事件であるとの強い疑いを持っているが、加害者たるトラック運転手は反社会的勢力の依頼を受けてトラックを私にぶつけたと自白すれば、彼は殺人未遂罪として処罰されてしまう。当然、そんな不利益を犯すはずはなく、前方不注視による自動車運転過失傷害事故であると言い張って、警察もその主張を認め単なる交通事故としての処理で終わっている。


この事故の背景については後に詳しく話す機会があると思うが、私が戦後日本最低と断罪する区画整理に対し原告として裁判をかけたことから、反社会的勢力その他の不正利益がぶ飲み団体から様々な脅しや嫌がらせを受けて来て、私や私の家族達は生身へのトラック激突はその延長線上の出来事と考えていた。


この戦後日本最低の区画整理に興味を持たれた方は、【《堺を食い物悪人》の悪事は《耳原病院が謝罪し、一千万を支払った理由》に詳しく書きました】をネットで検索してもらいますと、堺を食い物悪人が南署の署長との関係を自慢げに語り(実は多額の賄賂を渡し、重大事件を揉み消して貰っていることが判明)、癒着のあった大阪地検の事務官を先生とおだてあげている肉声が耳に飛び込んできて、驚かれることでしょう。


ただ、今ナンノ夫人が問題にしている裁判というのは、トラック激突事故を殺人罪として問うものではなく、救急搬送された泉佐野市にある泉佐野記念病院に対する訴えのことだった。


「うちの息子もカンカンだったけど、マーちゃんはお父さんのことだから、泉佐野記念病院の誤診は許せないんじゃないか」

 

異常なしとの誤診の結果、土曜日に救急搬送された私は、検査体制が整う月曜まで劣悪な環境下に放置されたのだ。入院が認められたその後も、喚き散らす問題患者の隣という、最悪環境下のベッドに数日間おかれたのだった。


「レントゲン写真をよう見れん医者が多なったけど、それでも触診すれば腰骨と肋骨の骨折は分かるやろ! そしたら、頚椎損傷もすぐ分かって、適切な治療が出来たんや」

 

事情を知ったナンノ氏の息子の第一声だった。娘の雅子に至っては、怒り心頭で、


「写真もよう見やんと、触診もせんで。そんなん、医者とちゃう! その後の劣悪な環境といい、そんな病院、訴えた方がいい」

 

事あるごとに父親である私に泉佐野記念病院への提訴を促すのだった。


「‥‥‥うん。泉佐野記念病院への提訴については、交通事故による保険金請求との関連でカルテ等の証拠はそろっているから、証拠保全の必要もないので、時効期間の十年ぎりぎりまで考えてみようと思うんだ。子供たちが医者をしているのに、そう何度も病院を訴えるのもなぁ……」

 

父の耳原病院での死亡事故につき病院へ裁判をおこし、実質勝訴の裁判上の和解が成立して、新聞で大きく取り上げられたのだ。その顛末につき、医療事故で苦しむ人たちの参考にしてもらえればとの意図で、ごく最近、無料で読んで貰えるようネットにアップしたばかりだった。この状況下で、またすぐ裁判というのは、やはり少々抵抗がある。


「そうだね、なんども裁判が続くと大変だからね」

 

耳原病院事件のことを思い、ナンノ氏も私の心中を察して寂しげな笑顔で理解を示す。


「それより、孫たちがマルガジュへ資料集めに行った和泉市立小栗の湯事件。ナンノちゃんの心証はどうなの?」


「うん。番台女性の目的は、私を排除することだったと考えているんだ。そのための材料に、我が奥方の些細な行状が利用された。それが真相じゃないかな。いずれにしても、市長室長もあの程度のことで出入り禁止なんていう通告はとんでもないことだと謝罪してくれているし、我々としても衛生状態の余程良い、若干遠くなったけど、岸和田のだんぢり湯へ週一、二回通うことにしていて、こっちの入浴に非常に満足しているんだ」


「へぇ、岸和田のだんぢり湯ね。小栗の湯と違って、確か温泉だったよね」

 

私も大バアバが生きていた時、バアバと三人で何度か出かけたことがあった。天然温泉の割には490円と低料金で、清潔な風呂屋さんだった記憶がある。


「そう、温泉なので、体がよく温まるんだよ。それに、小栗の湯と違って、大便が浮いたりすることも無いし」


「エッ! 小栗の湯は、大便が浮くの!」


「うん、時折ね」

 

ナンノ氏は苦笑しながら口をへの字に曲げた。


「それじゃ、湯を入れ替えたりして大変だね」


「いやあ、私はここ三年間で、五回以上大便が浴槽に浮かんでいるのを見つけたけど、湯の入れ替えは一度もなかったね」


「そんな不衛生な。市営なのに問題があるんじゃない」


「うん。一度などは、大便が四つも浮かんでいたのを、知り合いの人がすぐ手で掬って外へ捨てたんだよ。それを番台の女性に翌日伝えると、『そうらしいですね』で終わりなんだ」


「そんな! ……。ひなが知ったら、『250円(現在は300円)の低料金だから、うんこが浮くくらい我慢しろって言うの! 和泉市からの資金注入のおかげで低料金で入浴できるんであって、何を勘違いしてるのよ!』って、怒るだろうな」


「うん、だろうね。ま、小栗の湯の話は、ここらでおいておこう。間もなく、ひなちゃんとつつちゃんがマルガジュでの情報を基に、名推理を展開してくれるだろうから。その折に、どうせ出てくる事実で、今話しても二度手間になるから」

 

ナンノ氏は出入り禁止通告事件の真相を既に把握しているらしく、つつとひながマルガジュで収集した正確な事実を基に、自分と同じ結論に至ることに確信を持っているようだった。

 

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