星に。

 僕の右手を力強く引っ張り、僕と彼女は扉と月人から離れた。後ろに立っていた月人はどろりと溶け、先ほどまで僕らが立っていた場所で広がった。


「急ぐわよ」


 そしてまた強引に僕を引っ張る。彼女は眠り病の原因となるものが置かれている部屋の扉を開ける。するとそこには、中央に二メートルはある巨大な肉塊が鎮座していた。どことなく、胎児に似ている。正面にはガラスが一面貼り付けられ、そこからサファイアのように光り輝く地球が覗いていた。


「これを壊しましょう。早く」


 僕を握る手が強まる。なぜなのかと問わなくとも、答えを知っている。月人だ。僕らが侵入したと知った月人達がじきに大勢、ここを押し寄せる。そうなってしまってはおしまいだ。月人はきっと、僕らを殺す。そうなる前に、この肉塊を破壊するのだ。

 後ろの扉付近で、先ほど溶けた月人が、とろりとろりと床を溶かしながら這っている。


「窓を割って、そこからこれを落としましょう。ちょうど銃を持っているから、私が窓を壊すわ。晶はこれを突き落として」


 大勢の『ナニカ』がこちらへ押し迫っている音がする。悩める猶予は、あと残りわずか。


「晶、何を戸惑っているの? 何を躊躇っているの?」


 ユエは怪訝そうな顔で、僕の顔を覗き込む。

 突き落とすという簡単な作業なのに、僕の心は騒ついていた。

 ダメだからだ。窓の外は宇宙が広がっている。そこに酸素はないし、無重力空間だ。彼女が窓を割ってしまったら、きっと肉塊だけでなく僕らも外に放り出される。ユエの提案では、みんな死んでしまうのだ。僕のことを知らない人の方が大勢いる『世界』のために、僕ら二人の命が犠牲になる必要は、果たしてあるのか? 「世界のため」という最大多数の最大幸福のせいで、僕は自分の幸せと平穏を失うことになるのか? 猫のユエを失った僕は、今度は猫耳少女のユエを失う。もちろん、僕自身の命も。

 ビビットピンクの銃を取り出す彼女の手を強く掴んだ。


「別のもっといい方法があるよ。上手くいく保証はないけど、試してみる価値はある」


 僕は彼女の手を引き、肉塊を背に扉の前に立った。ゾロゾロと月人達が扉の前に集まっている。


「このままじゃ捕まるわよ?」

「大丈夫。捕まる直前に逃げるんだよ。あいつらは液状化すると触ったものを溶かすようだから、きっとこの肉塊も壊してくれる」


 ユエの金色の瞳が力強く煌めいた。僕はその瞳から目を離すことが出来なかった。あまりにも、死んでしまった猫に酷似していたから。この子が猫のユエの生まれ変わりだったら、どんなに良いだろう。そうしたら、僕の心は救われる。心にぽっかりと空いた穴は、埋められる。

 どろりと、月人達は僕らに近付いた。ゆっくりと、だがしっかりとした足取りで。

 きっと、上手くいく。なぜか分からないが、不思議とそう確信していた。そう、きっと、上手くいく。

 僕らと月人の距離はいよいよ、残りわずか数センチになった。


「行くよ」


 僕の言葉を合図に、ユエは右側のガラス張りにされた壁の方へと、僕を引っ張った。月人は僕らが避けたことに気付いた様子だったが、体は追いついていない。どろりと液状化した体達は、肉塊に乗り、溶かした。激しい炎が上がる。

 すると、途端、劈く咆哮。

 肉塊の叫びだった。部屋中に、肉塊の雄叫びが響き渡る。火だるまになったそれは、尚も自身に覆い被さる月人を押しのけ、叫ぶ。

 燃え続ける肉塊に合わせるかのように、壁に馬の形をした黒い影がぐるぐると走り回る。

 ユエは僕を部屋の角に引き寄せ、抱き留めた。

 肉塊は狂ったように、部屋中を転がる。ただの塊だと思っていた、眠り病の原因となっていたものは、生きていた。痛覚を持っていた。

 肉塊は、中々動きを止めない。まだ完全には壊れていなかった。死んでいなかった。今も尚、踊り続けている。転げ続けている。苦しみ続けている。

 上手くいくと思っていたのに、失敗した。いやいや、まだ失敗したとは限らない。僕らはまだ生きているし、きっといつかはあの肉塊も死ぬ。その時まで、僕らが保つかどうか、そしてこの基地が保つかどうかが問題なんだ。

 肉塊が帯びた熱は、部屋をサウナのように容赦なく熱している。僕の体は、苦しむ肉塊と合わせるかのように、ズキズキと痛みを訴えていた。


「死んだら僕ら、天国に行けるかな?」


 ふと、彼女に問う。突拍子もない問いだった。縁起でもない問いだった。


「神様は信じないのに、天国は信じるのね」

 ユエは皮肉気味に言い、笑った。猫のユエの顔がちらついた。


「もし天国があるのだとしても、晶は行けないわ」


 ひどいな、急に辛辣だ。でも、なぜだろう。僕は首を傾げる。

「理由は、貴方がよく知っている」

 そして白い、猫のように鋭い犬歯を覗かせ、微笑した。理由は、まだ分からなかった。

 身体中がチクチクと、大量の針に刺されたかのように痛んだ。痛みはどんどん増していく。彼女も、この痛みを味わっているのだろうか、僕のせいで。


「ごめんね、上手く行くと思ったんだ」


 僕は囁く。彼女に右手を握られながら。だが謝罪しても、もう既に過ぎたことなのだから、如何しようもない。それでも僕は、その言葉を口にした。

 ユエは相変わらず、優しく微笑んでいた。その姿は、やはりどことなく、死んでしまった猫のユエに似ていた。


「いいのよ、貴方は世界を救ったのだから」


 体の痛みは、言葉では形容し難いものになった。涙が溢れる。涙が溢れたのは、痛みのためばかりではない。彼女の朗らかな笑みが、金色の瞳が、黒い髪が、日向の香りが、今は亡き愛猫を思い出させたのだ。恋しくさせたのだ。

 とめどとなく溢れる僕の涙を、あの子は指で拭った。僕を抱きしめ、優しく頭を撫でた。日向の匂いがした。あの子と同じ、優しい日向の匂い。


「君は、猫のユエなの?」

 思い切って、問いかけた。

「ええ、ユエよ。でも猫のユエじゃない。それは貴方が一番良く知っているわ」


 返事がそうなることは、初めから分かっていた。ただ少しだけ、期待していたのだ。淡い期待を抱えていた。その想いも、しゃぼん玉のようにいとも簡単に、弾けて消えた。

 僕の喪失感が、こうさせたのだ。幻を見せたのだ。

 いつの間にか、僕らは暗闇に包まれていた。もう、お互いの姿も見えない。なんとも都合のいい世界だ。


「月人の呪いは解けたわ。もう、別れを言わなきゃ」


 僕の右手を強く握りしめ、ユエの声が囁いた。


「ユエ、君は、どこへ行くの?」

 答えはない。

「どこか、遠い場所なんだろうね」

 返事はない。

「僕ら、また会えるかな?」

 ユエは僕の右手を優しく包んだ。淡い声が返ってくる。

「さあ、どうかしら。数秒先に何が起こるのかさえ、私たちは分からないもの」

 幽かな沈黙が、僕らを繋いだ。

「君は結局、誰なの?」

 僕はこの問いを、彼女に掛けることが出来なかった。なんとなく、彼女が誰なのか分かっていたからだ。


「月は人を狂わせる」


 彼女が突如として発した言葉。つまり僕は、月に狂わされたのだ。きっとこれは、夢か幻。或いは走馬灯。ユエという猫耳少女は存在せず、月人もいない。

「僕は、眠り病だったのか?」

 自分に問いかける。ユエの尻尾がゆらりと揺れるのが、痛む肌に伝わった。

 多分、僕は眠り病に罹っていた。眠り病は心の患い。大切な者を亡くした人が、喪失感を抱えた者が、星となった大切な者の姿を眩ませる月を恨むのだ。


「ありがとう」


 僕は彼女に言う。想いを告げる。

「君のおかげで少し、楽になった」

ユエは握る手を強め、

「また、会いましょう。きっと、会えるから」

 と囁いた。その声はやはり、どことなくあの子に似ていた。

 体の感覚が消えていくのを感じた。僕はきっと、夢から覚める。僕は目を瞑る。

 右手の温もりだけが、最後まで残っていた。


 瞼を開けると、知らない白い天井がそこにあった。

 薬品の匂いが鼻腔を擽る。鼓動に合わせて痛む体に、心電図の音が突き刺さった。

 僕は白いベッドの上で横たわっていた。包帯で巻かれた、火傷だらけの体がずきりと鋭く痛む。横には、僕の右手を握ったまま眠る両親がいた。ひどく窶れた顔が、街の街灯に照らされ、ひどく弱々しく見えた。

 ふと、先ほどまでの出来事が、走馬灯のように蘇った。


「また、会えるかな」


 心の中で、呟いてみる。返事はもちろん、ない。

 窓の外から見える夜空に光る星々だけが、僕のことを見下ろしている。夜の白月は翳っていた。


 ──あの空のどこかに、あの子もいるのかな。


 僕はまた目を瞑った。最後に交わした手の温もりと日向の香りを思い出し、また会えることを願いながら。

 閉じていく意識の中、けたたましい心電図の警告音が、最期までずっと頭の中で響いていた。

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そして骨に、灰に、星に。 井澤文明 @neko_ramen

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