第二十五話 切望 6
翌朝、目を覚ましたあと、運ばれてきた朝食を取った。
なんだか物足りない気分になったので、ククルは枕元にあるセーフティボックスの鍵を開けて、財布を取り出した。
昨日、ユルが「ここにお前の財布、入れてるから」と暗証番号と一緒に教えてくれたのだ。
ククルの財布のなかは、持ち出したときのままの状態だった。
パスポートは、ユルが持っていてくれているのだろう。
ククルは財布を持って、いびきをかいている老婆の前を通り抜けて、病室から出た。
院内カフェは、朝早くにもかかわらず、そこそこ混んでいた。
(ええと、コーヒー、コーヒー)
ククルは自販機でカップのコーヒーを買った。もちろん、ミルクも砂糖もたっぷり入れる。
甘いコーヒーを持ってカフェを出たところで、ふたりの看護師とすれ違う。
「あっ、あの子よね?」
「そうそう!」
ふたりはククルをちらりと見て、角を曲がっていってしまった。
(あの子? 私、何かしたのかな?)
心配になって、ククルは彼女たちを追う。
ちょうど、ふたりは角を曲がったところで立ち話に興じていた。
ククルは壁に身を隠して、様子をうかがう。
「王子様のキスで目覚めた、って評判の子なんでしょ? 一体、どういうこと? 私、この前まで違う病棟にいたから……」
「あの子を毎日のように見舞っていた男の子が、眠るあの子にキスしているところを見た看護師がいるのよ!」
それを聞いて、危うくカップを落としそうになる。
(お、王子様ってユルのこと? なんで王族って知ってるの? あれ? でも、ユルって本当の王子じゃないし……)
と思ったところで気づく。
王子様とは、おそらく比喩だと。
たしか、外国の童話で王子様のキスで目覚める話があったはずだ。
(毎日お見舞いに、ってことは……ユルのことだよね。どうして、そんなことを――。あ、もしかして)
たまに、痛みが和らぐときがあった。
あのとき、きっとユルが生気を注いでくれていたのだろう。
合点がいってホッとしたが、頬は熱くなっていた。
ユルはククルの所望したアイスを持って見舞いに訪れた。
ククルは起き上がって、窓の外を眺めていた。
起きているところを見ると、安堵が溢れる。
「……あ、ユル。おはよう」
「よう。調子どうだ」
「もう元気だよー。早く退院したいな。あ、何のアイス買ってきてくれたの?」
「お前の好きな、チョコなんとか」
「ちょこみんと!?」
ククルは、ぱっと顔を輝かせた。
「今、食べるか?」
「うん、食べる!」
ククルがそう言ったので、冷蔵庫には入れずに、そのまま渡してやることにした。
若干溶けかけたチョコミントアイスを、ククルは嬉しそうに食べ始める。
「おいしいー。ユル、ありがとね」
食べ続ける彼女に目を細めつつ、ユルは椅子に腰かけた。
「それで……私、記憶を取り戻したよ。ごめんね、ユル。私が使命を果たしていなかったから、均衡が崩れていたんだね」
「ああ――オレも、思い出した。だが、もう謝るな。あの影が生まれたのは、オレが憎しみや恨みを現世まで持ってきたせいだ。この話は、もう止めよう。謝り合うのも、不毛だろ」
ユルの意見に、ククルは賛同して頷いていた。
「カレンダー見て、驚いちゃった。もう、三月なんだね」
「ああ」
「試験、もちろん終わっちゃったよね……」
ククルの目は、涙で潤んでいた。
「そうだな。……どう声をかけていいか、わからない。悪い」
ずっと努力してきたのに、試験を受けられなかった。さぞ辛いだろう。そして使命がある以上、もし試験に通っていても、ククルは大和の大学には通えなかった。
「お前、ナハの大学にしたらどうだ? 琉球から出なきゃいいんだろ?」
「ううん、いいの。私ね……昨日、起きたあと、考えてたの。私がどうして、大和の大学に通いたかったか……。もちろんね、勉強したいって思いもあった。でも、それより――ユルと離れたくないって気持ちが強かったみたいなの。不純な動機だよね」
ククルは笑ったが、ユルは笑えなかった。
「私の選択は間違いだった。でも、短い間だったけど楽しかったよ。もう、悔いはないよ。ちゃんと神の島に帰って、
「ああ……」
沈黙が下りる。しばらくふたりは黙り込んでいたが、ククルが意を決したように口を開いた。
「あのね、ユル」
「何だ?」
「その……私に生気を注いでくれたり、した?」
ククルにおずおずと問われ、ユルは思わず同室の老婆を振り返った。
寝息といびきが聞こえてくる。眠っているようだ。
「そのおばあさんに聞いたわけじゃないよ。看護師さんが、噂してたの。王子様がどうとか?」
「王子?」
何の話だろう。たしかに一度、看護師に見られてしまったが。
「仕方ねえだろ。所長に聞いたんだよ。お前が戻ってこられるよう、生気を注いでやれって。それで――そのやり方が口移しだったんだよ。あと、霊力を返すためにも」
気まずくて、早口で説明してしまう。
ククルは、「うん、仕方ないよねー」と目を泳がせ、更に質問をしてくる。
「……あのさ、口移し……何回、したの?」
そんなことを真っ赤な顔で聞かれたら、嫌でも
「数えきれないぐらい」
「ええっ!?」
「冗談だ。一日一回ぐらいだな」
「あ、そ、そうなんだ……。ふーん。え、でも毎日ってことだよね、それ……」
数えてしまったらしい。ククルは先ほどよりも赤くなって、熱を冷やしたいかのようにアイスを一気食いしていた。
その様子に目をすがめていると、ククルがきっと睨んで来た。
「……な、何でそんなにやにやしてるのっ!」
「別に」
うそぶいてみせると、ククルは「もう!」と怒っていた。
ふと、甘い空気が漂っているのに気づく。ここで言ってもいいのだが……
(やっぱり、あの空の下で、海の前で、言おう)
ククルとユルの出逢った島、兄妹神として眠り続けていた、あの島で。
大概オレもこだわるな、と思いながらユルは微笑んだ。
視界の端で、いつの間にか起きていた老婆が笑うのが見えた。
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