第二十五話 切望 2





 足の裏が傷ついて、水に血が漂っている。


 実体ではないので失血で倒れることはないはずだが、痛みでどうにかなりそうだった。


 ククルは思わず膝をつき、悲鳴をあげる。


 膝に、ガラスが刺さる。


「痛い、痛いよう……」


 子供のように、泣きじゃくる。


 後ろを振り返ると、海神が遠くに見えた。


 見守っているのだろうか。ククルが諦めるのを待っているのだろうか。


「頑張れ、私。十三のときにできたんだもん。今の私も、できるはず……!」


 自分を叱咤したとき、ふとまた記憶が蘇った。




 あのとき、ククルはユルに背負われていたのだ。


 ユルの足が血だらけになっていって、ククルはわめいた。


「ユル、私を下ろして! 体重が二人分なんだから、痛さも二倍のはずだよ。私も、歩くから!」


「いいんだよ、これで。オレの勝手で、ニライカナイに渡ったんだから。責任は取る。それに、お前には耐えられねえよ。この痛さ」


「でも……ユルも、痛いんでしょう。下ろしてよ……」


「嫌だね」


 強がるように笑って、ユルはガラスの海底を踏んで歩いていったのだ。


 どんなにククルが主張しても、下ろしてくれなかった。


 ぎゅうっとユルに捕まりながら、「ごめんね」と泣きじゃくって。


 痛くなかったはずがない。でも、ユルはククルのために背負って、渡りきってくれた。




 記憶を取り戻したククルは、ぼんやりと水平線を眺めた。


「……ごめんね、ユル。こんなに痛かったんだね。でも、あのときのユルよりは、痛くないよね。私は、誰も背負ってないんだもの」


 立ち上がると、また激痛が走る。


(ユルが記憶を早くに取り戻したのは、この痛みを経験していたからなのかもしれない)


 ククルは痛い思いをせずに、現世に戻った。そのため、記憶がユルよりぼんやりしていたのかもしれない。


 ふと、温かい力が流れこんできた気がした。


 痛みが、少しマシになっている。


(気のせい? それとも……)


 ククルは、雲ひとつない空を見上げた。


「待っていて、くれてるの……?」


 涙がこぼれて、海面に落ちた。


(待っててね。きっと、帰るからね。今度は私が、頑張る番だもの)


 ククルはまた一歩、踏み出した。








 それから日にちが経っても、ククルは目覚めないままだった。ユルは見舞いに来る度、人目を気にしつつも、ククルに口移しで生気と霊力を注ぎ続けた。


 首飾りの宝石からは、段々と海の青が少なくなってきていた。どうやら、ちゃんとククルに霊力を還せているらしい。


 でも、彼女は目覚めない。


 いつも通り力を注いだ後、けだるい疲労感を覚えながら椅子に腰かける。


 ユルはふと、ククルの手を取った。本当に白い肌だ、と感心しながらその手を握る。


「お前に言ってないことが、たくさんあるんだ……」


 伝えたいことが、たくさんある。どうかその耳で、聞いてほしい。だから、帰ってきてほしい。


 胸が張り裂けそうになって、ユルはククルの手を自分の頬に付けた。


 傷つけてばかりで、ごめんと謝りたい。そして――


 ふと視線を感じて、顔を上げる。すると、隣のベッドの老婆が起き上がって、こちらを見ていた。


「大丈夫だよ、お兄さん。その子はね、頑張って戻ってこようとしてるんだ。あんたを見捨てたわけじゃないよ」


 何もかも、わかったような目。ユルは何度か、こういう目を見たことがあった。ククルも、たまにこういう目をする。


「あんた、巫女ユタか」


「……昔、ユタを名乗ったこともあったよ」


 やはり、とユルは納得した。


「こいつの状態、わかるのか?」


「なんとなくね。内側で、戦っているのさ。だから諦めず、生気を注いでおやり」


「……」


 どうやら、見られていたらしい。いつも眠っていることを確認してから、していたのに。もしかして、寝たふりでもしていたのだろうか。


「まあまあ、そう怖い顔するんじゃないよ」


 あっはっは、と老婆は豪快に笑った。


「とにかく、諦めるんじゃないよ。戻ってきてくれ、と願ってやらないと。それが、その子の力になるからね」


「……わかった」


 ユルは深く、頷いた。




 看護師が、首を傾げていた。ククルの体は、汚れないのだと。生きているなら、眠っていてもどうしても汚れは生じる。しかし、ククルの体は不思議とそうならなかった。


 同じように、髪も爪ものびなかった。


 半分死んでいるんだ、と認めるのは辛かった。だが、ユルは希望を捨てなかった。


 この状態は、ユルとククルがニライカナイに行ったときと同じだろう。ニライカナイとこちらでは、流れる時間が違う。身体の状態が精神に呼応するため、髪も爪ものびていないだけなのだろう。


 ちゃんと戻ってくるよな、と確認してユルは今日も、彼女に口づけた。


 ――起きたら、どんなわがままでも聞いてやるから。お前の行きたいところに、連れて行ってやるから。お前のやりたいことに、付き合ってやるから。


 そんなことも耳に囁いて、ユルは彼女の帰還を祈った。




 ある日、病室に入ると老婆が起きていた。


「ばあさん、今日は起きてるのかよ」


「何だい、その言い草」


 老婆は豪快に笑った。


 そういえば、彼女に見舞客が来ているのを見たことがないな、とふと思う。


 するとユルの考えを見抜いたように、老婆はゆったりと笑った。


「ちょいと、長生きしすぎたみたいでね」


 曖昧な言い回しだったが、なんとなくわかった。伴侶や子供は亡くなったのだろう。


「まあ、今日は眠くないから起きてるけど。ずずいっと、いつものは遠慮なくやりなよ」


「……あんたやっぱり、見てたのか」


「いやー、のぞき見したいわけじゃないんだけどねえ。あんたの想いが強すぎて、起きちまうことがあるのさ」


「想いが、強い?」


「そう。あんたがこの子に口づけている時、いつも聞こえるんだよ。かなしゃ――ってね」


 虚を突かれ、ユルは老婆から目を逸らす。


「気になるなら、向こうを向いておいてやろ」


 恩着せがましく言って、老婆は反対側を向いて寝転んでしまった。


 ユルは戸惑いつつも、ククルの頬に手を添える。


(そんなに、感情が溢れてるのか……?)


 さっさと済ませないと看護師が来るかもしれないので、老婆の存在が気になりながらもユルはククルに口づけた。唇を通して、生気を注ぐ。


 胸に募る想いを、意識してしまう。


 かなしゃ、とたしかに己の心は啼いていた。


 かなしい、哀しい、かなしい。


 切なくて痛いのに、どこか甘美なその気持ち。陶然として、ユルは目を閉じた。

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