第十九話 自覚 3



 翌朝。


「……おい……おいってば!」


 朝食の席でユルに怒鳴られて、ククルはハッと我に返る。


「お前、大丈夫か?」


 トーストを片手に、ユルが眉をひそめている。


「大丈夫って、何が?」


「お前、コーヒーはブラック飲めないんじゃなかったのかよ」


 指摘されて、ククルは自分がブラックコーヒーをすすっていることに気づいて、慌てた。


「あわっ。牛乳入れるの忘れてた! にがーい!」


「……どっか、悪いんじゃねえのか」


 ユルは、明らかに呆れていた。


「だ、大丈夫だよ。ちょっと、考えごとしてただけ。それより、ユル。学校行って大丈夫なの? 休んでもいいんじゃない?」


「いい。どうせ、もうすぐ冬休みだし。大学に行けないほど重症ってわけでも、ないし」


「体が、だるいんだっけ……」


「ああ。それと、天河を召喚すると、どっと疲れて振るうのも難しい。あとは、やけに眠いな」


 あくびを噛み殺して、ユルはトーストをかじっていた。


「無理しないでね。式神、忘れないでね」


「はいはい」


 おざなりな返事をして、ユルはさっさと朝食を平らげて、席を立った。


「お皿は、置いておいていいから。いってらっしゃい」


「ああ。悪いな」


 ユルが行ってしまったあとも、ククルは朝のニュース番組を見ながらトーストをちまちまかじり続けていた。


『ククルちゃん、ぼうっとしてる場合じゃないわよ。もうすぐ出発の時間でしょ』


「はっ。そ、そうだね」


 ククルは立ち上がり、皿やカップを重ねて台所に運び、急いで皿を洗う。


 皿を洗い終えたあと、小走りになったククルは壁に激突し、したたかに顔を打った。


『ククルちゃん! 大丈夫!?』


「いたあい……」


 手を当てると、鼻から血が流れていた。


「最悪!」


『動揺しすぎよお……。ああ、もうちょっと遠回しに言うべきだったかしら』


 祥子が嘆いているのを聞きながら、ククルはティッシュで流れ続ける血を拭った。




 なんとか出発前に鼻血は止まったが――その日は、散々だった。


 歩いていたら電柱にぶつかるし、授業には全く集中できないしで。


 とぼとぼと帰路を歩いていると、「危ない!」と叫ばれて腕を引かれた。


「赤信号ですよ!」


 焦ってククルの顔を覗きこんできたのは――カジの生まれ変わりと思しき青年、颯人だった。


「あ、琉球酒場の店員さん。……わ、ほんとだ」


 横断歩道を渡るところだったのだが、ククルはぼんやりしていて赤信号を見ておらず、颯人が止めてくれなかったらそのまま渡っていただろう。


「ありがとうございます!」


「いえいえ。偶然、通りがかってよかった。大丈夫ですか? ふらふらしてましたけど」


「だ、大丈夫です」


「なら、よかった。また、店に来てくださいね。ドリンクサービスしますよ」


 ちゃっかり宣伝して、颯人は手を振って行ってしまった。


(カジ兄様は、生まれ変わっても親切だなあ……。あ、じゃなかった。颯人さんね、颯人さん。切り替えないと)


 ククルの帰路にあの店があるので颯人が通りがかってもおかしくない話だが、偶然にしては運命的なものを感じてしまう。


(やっぱり前世の縁って、あるのかなあ……)




 無事に家に帰り、ククルは少し休憩したあと、台所に立って料理を作り始めようとしたが……。


 携帯がぴろりん、と鳴って、ポケットから取り出すと、ユルからライソが届いていた。


『今日は食べて帰る。先に食べておいてくれ』


 という素っ気ないライソに、作り始める前でよかった、と息をつく。


(サークルの集まりかな?)


 エルザさんもいるの? と尋ねかけて、どうしてそんなことが気になるのだろうと思って、手を止める。


 ――ククルちゃん、ユルくんのこと好きなんでしょ?


 祥子の言葉が脳裏に蘇って、顔が熱くなる。


(私、まさか嫉妬してるの?)


 ククルは首を振って、『わかった。気をつけてね』とだけ打ってライソを返した。


「うーん、ひとり分かあ。じゃあ、インスタントでいっか……」


 今日の調子で料理をすると危ないかもしれない。


 ククルは下の棚に入れておいたカップ麺を取り出した。


『あら、ククルちゃん。今日は、インスタントにするの?』


 祥子が、いつの間にか隣にいた。


「うん。今日、ユルは食べて帰るんだって。だから、ひとりだし……それならインスタントでいいかと思って」


『あら、そうなの。サークルで突発飲み会でもあるのかしらね』


「多分ね」


『具合悪いんでしょ? 大丈夫なのかしら』


「日常生活には問題ないって言ってたから、外食ぐらい平気だと思うよ」


『そうなの。霊力が削れてるって、言ってたっけ? 不思議な現象もあるものね』


「本当に……。祥子さん、幽霊目線から何か気づくことはない? ユルの症状について」


 ククルの質問に、祥子は戸惑ったようだった。


『私って、年季の入った幽霊じゃないし、自縛霊だから他の幽霊と交流もないし……。役に立てなくて、ごめんなさい』


「ううん、謝らないで。私が、多分――まだ何か忘れてるんだと思う」


 ポットに水を入れながら、ククルは遠き異界を思った。


 ニライカナイ。


 あそこで得た知識を、全て取り戻していないのではないか。


(私に、浄化や治癒以外にも役割があったとか……?)


『ククルちゃん、水が溢れてるわよ!』


 祥子の注意でハッとして、ククルは慌てて蛇口を止めた。




 自室で勉強していると、玄関のほうから物音が聞こえた。


 ユルが帰ってきたのだと思って、部屋から出てリビングに行こうとしたが――


「へー。結構広いところに住んでるのね、ナハト」


 なぜかエルザが入ってきた。ククルは慌てて部屋に戻って、扉を少し開いたまま聞き耳を立てる。


「一人暮らしにしちゃ、広すぎない?」


「いわくつき物件だから、安かったんだよ」


「ふーん」


「ところで、なんで勝手にひとの家に入ってるんだよ」


「あの鬼もリベンジを狙っているかもしれないし、とワタシは帰りが遅くなったナハトを送ってあげたのよ? 感謝の印に、家に入れるぐらい、しなさいよ」


「はいはい……」


 どうやら、エルザが送ってきてくれたらしい。


 戦闘力に欠ける今のユルを送ってくれたのは、ありがたい話ではあるが……。


(どうしよう。エルザさん、私とユルが一緒に住んでるって知らないし。ここで私を見つけたら、ものすごい剣幕で怒りそう)


 ククルは様子をうかがっていたが、その近くに祥子が飛んできた。


『ねえ、ククルちゃん。あれ、誰? ユルくんの彼女じゃないわよね?』


「エルザさんっていう、ユルの大学の……友達、かな。留学生交流会っていうサークルで一緒で、退魔事務所で仕事もしてる。今、ユルが戦えないから弓削さんと組んでるのは、エルザさんなの」


『へーっ。それで、ククルちゃんはどうして隠れてるの?』


「エルザさんは、ユルのことが好きなの。それで、私とユルが一緒に住んでることを知らない」


『あらまあ、なるほど。そりゃ、見つかったら修羅場ね』


 ククルと祥子が小さな声で話していると、エルザの不思議そうな声が響いた。


「なんか、話し声聞こえない? ねえ、ここって事故物件なのよね? 幽霊、いるの? ナハト、探検してもいい?」


「だめだ。茶ぐらい出してやるから、座ってろ」


 ユルがぴしゃりと言うと、エルザがつまらなさそうに「はあい」と返事をしていた。


「幽霊さーん。お話しましょうよ」


 探検しない代わりに、呼ぶことにしたらしい。


『あわわ、ククルちゃん。どうしよう』


「祥子さん、行ってあげて。浄霊とか、しないと思うし。祥子さんが気を逸らしてくれたら、私もユルも助かるの。ね、お願い」


『わ、わかったわ。話しにいってくる』


 祥子はククルの頼みに応じ、ふよふよとリビングに飛んでいった。


「あらやだ、本当に幽霊だわ。しかも、女」


『ど、どうもーっ。祥子です!』


 ふたりの会話を聞きながら、ククルはしばらく様子をうかがうことにした。



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