第十一話 治癒 5
その後も薫と商店街をうろつき、昼食も一緒に取った。帰りはもう夕方になってしまい、薫は連絡船乗り場まで送ってくれた。
「じゃあね、ククルちゃん。私、八月の末にナハに行くから、それまでまた会えたら会おう!」
「うん! 今日はありがとね、薫ちゃん!」
手を振り、ククルは連絡船に乗り込んでいった。
家に帰ると、もう夕食の時間だった。ククルが食器を食卓に運んでいるところに、ユルが入ってきた。
「あっ。ユル! もう大丈夫?」
高良夫人の話では、ユルは昼にも起きてこなかったそうだ。
「ああ……。死ぬほど寝たから、腹減った」
のんきなことを言って、ユルはあくびをしていた。
彼の顔色は、悪くなかった。どうやら完全に回復したようだ。
その後、ユルは夕食を平らげて自室に戻っていった。
ククルは夕方の祈りを済ませていなかったことを思い出し、白い琉装に着がえて御獄に向かった。
炎を灯し、順番に祈っていく。最後、空の神の間に出た時、高いところから覗く夜空に感謝した。
(空の神様。ありがとうございました。警告があったからこそ、ユルを助けに行けました)
随分遠回りな助け方だったけれど、ククルが行って良かったのだと思いたい。
ニライカナイが、近い。ククルは引き寄せられるように、海辺へと向かった。
白い袖がはためき、ククルは髪を抑える。
満天の星の下、黒々とした海がきらめいている。
そこで、ククルはふと気配に気づいた。波打ち際に、見覚えのある二人が立っていたからだ。
すんなりとした、後ろ姿。誰もがうらやむ、艶のある長い黒髪。
もうひとりは、がっしりとした体躯の持ち主で、よく日焼けした顔で快活に笑っていた。
彼らは、何かを語らっているようだった。今は誰も着ないような、粗末で簡素な琉装に身を包んでいる。
「トゥチ姉様、カジ兄様?」
名前を呼んで、一歩を踏み出す。彼らが振り向く前に、ククルの腹に腕が回され、引き留められた。
振り向くと、ユルがいた。
「ユル、何で」
「何でも何もないだろ。あれは、
「え…………」
ユルに指摘され、また前を向く。すると二人は、ユルの気配に気圧されたように、陽炎にように消えてしまった。
「無害な魔物だ。あれ自体に危険はないが、海に引き込む役目があるんだろ。お前には、トゥチとカジに見えたのか」
「う、うん。ユルには、誰に見えたの?」
その質問にユルは答えずに腕を解き、さっさと背を向けて歩きだしてしまう。
ククルはそのまま呆然としていたが、また海を振り向く。
幻でいいから、またあの二人に願いたいと思ってしまった。
そんなククルに焦れたように、ユルが戻ってきてククルの手を引く。
「ま、待って」
「待たない。あれは魔物で幻だ。いい加減、わかれよ。あの二人は、とっくの昔に死んだんだ……!」
ユルの言うとおりだった。わかりきったことだった。
だのに、ククルの目からは涙が溢れた。
前を向いているユルに気づかれないように、着物の袖で涙を拭って、ククルはまた溢れようとする涙をこらえた。
翌日、朝ご飯を終えた後、ククルは家にあった習字道具を貸してもらった。
墨を刷りながら文面を考え、いざ、と細筆で文章をしたためる。
書き終えた後、傍に置いていた朱印の蓋を開けて親指を押しつけ、仕上げた文書の片隅に押印した。
「ユルー。入っていい?」
呼びかけると、「勝手に入れ」と愛想のない返事があった。
それだけなのに嬉しいのは、このやり取りもしばらく絶えていたせいだ。ユルは遠く、大和に行ってしまっていたから。
「失礼しまーす」
ククルは神妙な顔つきで、入っていった。
ユルはベッドに寝転んで本を読んでいたが、ククルの顔つきがおかしいと気づいたらしく、眉をひそめて起き上がった。
「何だ?」
「…………これを、お受け取りくださいっ!」
ククルは、ユルにさっき書いたばかりの書状を差し出した。
「何だこれ」
ユルはそれを受け取り、見た瞬間に顔をしかめていた。
内容は、合意なしに勝手に口づけたことに関する、詫び状である。
悪意はなかったこと、あの時は必死になっていて仕方がなかったことを記してある。
「あのね……あの時、私の力が満ちたからこれでいける、と思ってしまって。一種の神がかり状態になってたの。冷静になっていたら、一度海から上がって、また命薬を刺して浄化することもできたと思うのだけど」
ククルは早口で、言い訳をまくしたてた。
すると、ユルは信じられない行動に出た。
びりびりと、詫び状を破ってしまったのだ!
「あああ! 何するのー!」
「うるせえ。別に、オレは気にしてない。お前も気にするな」
「そ、そうなの? 三次元でそれをやったら、痴女なんじゃないの? 犯罪になるんじゃないの?」
「…………」
ユルは慌てるククルを見て、大仰なため息をついていた。
「うるせえなあ。これ以上用がないなら、さっさと出てけよ」
ユルはいつも異常に辛辣で、破った紙をゴミ箱に捨てていた。
(書くのに、一時間もかかったのに……)
がっくりと肩を落として、ククルは「お邪魔しました」と言い残して出ていった。
そのまま家にいる気になれなくて、ククルは外に出て海へと向かった。
海では、水着姿の観光客がはしゃいでいた。
ククルは目立たない岩のところに座って、ぼんやりと海を眺める。
(なあんだ。ユル、気にしてなかったんだね。あんなに気にした私が、馬鹿みたい)
そこでククルは、はたと気づいた。
(今思ったら、私もあの口づけが初めてだったんだ。そう、今風に言えば、ふぁーすときす…………)
そう考えると、なんだか恥ずかしくなってしまって。ククルは両頬に手を当てた。
(で、でも全然覚えてないっ!)
なにせあの時、ククルは神がかり状態だった。ああいう風に、
時を超える前に比べれば、ああなる頻度はかなり減っていたのだが。
(薫ちゃんに相談したかったな。でも、痴女だと思われたら嫌だし)
煩悶するククルとは裏腹に、今日も碧い海は静かに凪いでいた。
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