第九話 学問 4
家に戻り、ククルはリビングでぼーっとしていた。暑さでやられてしまったのだろうか。普段、もっと暑いところに住んでいるのに、不思議なものだ。
「ククル。こっちの部屋来い」
ユルに促され、寝室に入る。さっきつけた冷房はまだ効いていなかったが、リビングよりも若干涼しい。
「ちょっと寝たらどうだ?」
「うん、そうする」
なんだかとても眠かった。ククルはばたん、とベッドに倒れ込む。
「お前、この時代に来てからよく眠るよな」
布団をかけてくれながら、ユルが呟く。
この時代に来てから、というのは間違いだ。ククルは昔からよく眠っていた。
ただ、ユルと旅している時は、眠ってばかりではいられなかったのと、気を張っていたので、今ほど眠っていなかっただけだ。
そう説明しようと思ったのに、眠すぎて舌が動かない。
「……ククル。まだ、帰りたいか?」
問われ、ククルは眠りに落ちかける頭で必死に考える。
帰る、とは琉球にということだろうか。たしかに、滞在三日目にしてもう疲れ切っていた。異邦の空気に慣れないのか、現代的な町に慣れないのか――どちらもだろう。
「……かえり、たい」
本音を零すと「そうか」と声がして、ユルが離れる気配がした。
――それから、どのぐらい眠ったのだろう。かりかり、と何かを書く音で目を覚ました。
「ううん……」
もう窓から見える空は、橙色だ。夕方まで眠っていたとは、と呆れながらもククルはかけられた布団の中で縮こまる。
冷房が効いたのか、すっかり体が冷えていた。
顔を横に向けると、ユルの背が見えた。机の前に正座して、何か書いている。
ククルはベッドから降りて、ユルの隣に座った。
「……起きたか」
「うん。ユル、何書いてるの?」
「写本。コピーすりゃ早いんだけどな。こっちの方が、頭に入るから。覚えたいところは、たまにこうしてる」
へえ、と呟いてククルはユルの手元にあるノートを覗き込んだ。お手本のように綺麗な漢字が、書き連ねられている。昔の漢文だろうか。
「前から思ってたけど――ユルって、字が綺麗だね」
一見荒々しい性格だし口が悪いのに、字がきっちりしていて綺麗なのは不思議だ。こういうのを、“ギャップ”と言うのだと友人の比嘉薫が教えてくれたっけ、とククルはつらつら考える。ギャップ萌え、というのがあるらしい。ユルが、やけにもてるのは、こういう要因もあるのだろうか。
「……ま、オレの筆跡じゃねえけどな。ショウの字が綺麗だったから、オレの字も綺麗に見えるだけ」
その一言に、ククルは凍り付いてしまった。
そうだ、ユルは何から何まで清夜王子を模倣できるようにしたのだった。
「ご、ごめん」
謝ると、ユルは目をすがめてククルの頭を叩いた。
「別に、傷ついてねえっつの。……ただ、オレはわからないんだ」
「わからない?」
「ああ。オレらしい字を書こうと思っても、無理だし――。……オレって一体、何なんだろうな。もう真似る必要もないのに、癖が消えないんだ」
自分って何なんだろう、とユルにしては弱々しい声が零れる。
「……ユルは、王子と性格は全然似てないんでしょ?」
「――それだって、いつでも消せる個性だけどね?」
別人のような声音になって、ユルはククルに微笑みかけた。ユルが到底浮かべることのないような、淡い笑み。
ククルは、思わず後ずさる。
これが――ショウ。本物の清夜王子。
「びっくりしたか? ……いつだって、オレはこうやってショウになれるんだ。今のオレの口調や性格だって、母親やショウに反発するために形成したもんだ。どっちが素か、わかりゃしない」
「そんなことないよ。私、いつものユルのがいい……。反発して形成した性格だって、長い時間を経たらユルに染みついて、ユルになって行くよ」
「本当か?」
ユルはククルの肩に手を置き、顔を近付けた。
「ショウの性格の方が、穏やかでティンの方に近いと思うけど? ……君は、こっちの方が気に入るのでは?」
また、あの別人のような声音と口調と顔つきになって、彼は囁く。
ククルは驚きすぎて、すぐには答えられなかったが、なんとか震える声を絞り出す。
「や、やだ。口が悪くて、素っ気ないユルのがユルらしいよ……。止めてよ、そんなこと言わないでよ」
すると、ユルはクッと笑った。
「悪い悪い。ちょっと、悪ノリしちまったな。筆跡はともかく、性格はまあこっちが素だな」
「も、もう! びっくりしたよ!」
「悪いって言ってるだろ。詫びとして、今日はオレが夕飯作ってやるよ」
え、と呟いた隙に、ユルはもう立ち上がっている。単にそれは、ククルの料理を食べたくないだけではないだろうか。
「まだゴーヤ残ってたよな。お前、どんだけ持って来たんだよ全く。三日連続食うことになるとは思わなかったぞ」
ぶつぶつ呟いて、ユルは寝室を出て行ってしまう。
残されたククルはふと、机の上に置かれたノートに目を落とした。
整然とした字が並んでいる。その整然とした様は、さっき見たユルの演じたショウ――清夜王子を思い出させずに、いられなかった。
二人で食事をしながら、テレビをぼんやり見る。
テレビには、相変わらずニュースが映っていた。ユルはニュース以外見ないのだろうか、とククルは首を傾げながら味噌汁を啜る。
ユルの作ってくれたごはんは、今日もおいしい。
「あのね、私も、普段はもっとおいしいの作れるんだよ。一昨日のは、たまたまっていうか」
「……はいはい」
ククルは訴えたが、ユルは気のない返事をするだけ。
むう、と頬を膨らませながら、ゴーヤの揚げ物に箸を付ける。ゴーヤはククルがたくさん持って来てしまったのでまだあったが、他の食材が切れていたので、先ほど二人で近所のスーパーに買い物に行った。
当たり前だが、琉球のスーパーとは並んでいるものが違っていたのでククルは興味深く観察した。ユルの言った通り、さんぴん茶はジャスミンティーになっていた。
いつか、ユルもさんぴん茶のことをジャスミンティーとか言い出したりするのだろうか。
ククルはコップに入れた、さんぴん茶をこくりと飲む。
「ねえ、ユル」
「何だよ」
「さんぴん茶って、大陸のあの国にもあるんだよね」
「ああ、
大陸の大国は時代を経て何度か国号が変わった。今は華国と呼ばれている。琉球との所縁が深く、あらゆる文化や事物は大陸から伝わったという。また、ユルの恩師・倫はその国出身だった。そのため、ユルは何と昔の大陸の言葉がペラペラだというから驚いたものだ。だが、時代を経て少し言語が変化したため、ユルは大学でその言語を学び直しているのだという。
「華の国では、さんぴん茶のこと何て呼ぶの?」
「
本場の発音で言ってくれたので、ククルは思わず「おおっ」と言ってしまった。
「……ユルって、華の国の言葉、学び直してるんだよね。すごいねえ」
「一応昔のは身に付いてるんだから、今のも勉強しないと勿体ないだろ」
ふうん、とククルは返事をしてお茶を啜る。
ユルは、なんだかんだ勉学が好きなのかもしれない。現代大和語でも、あわあわしているククルから見ると、ユルの脳はどうなっているのか不思議なぐらいだ。
「華国に、行ってみたい?」
なんとなしに、問うてしまった。すると、ユルの表情が少し陰りを帯びた。
「……そうだな。倫先生の形見でもあれば、持って行きたいな……。倫先生の、故郷に」
その悲哀に満ちた声を聞いて、胸が締め付けられるように痛む。また、思い出させてしまった。
「その時は、私も一緒に行っていい?」
お願いしてみると、ユルは短く「いいけど」と答えてくれた。了承してくれると思わなかったククルは、「わあ」と目を見開く。
嬉しい。そこまで、歩み寄ることを許してくれるのだと思うと、嬉しくてたまらなかった。
ふと、さっきの清夜王子の真似をしたユルを思い出す。あのユルは――ときめくどころか、むしろ怖かった。まだ彼は、深い闇を抱えている。
姉妹として、その闇から解き放ってあげたいと、ククルは強く思った。
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